フロンティア・ジャーニー
ブレイブアーニムル 16話 「フロンティア・ジャーニー」
———それでも時は無感情に走り続ける。どれほど今にしがみつこうにも、それは嘲うことさえなく、機械的で数学的な使命を以ってのみ死んだ世界に暖かな息吹を吹きかける。
私は入社当日、時間に余裕を持って起床したが、あまりの気怠さに何度も布団にくるまり、煩悶の末にようやっと布団から抜け出すことができた。日射しこそあれ、朝の気温はまだ寒かった。顔を洗う水は冷たく、タイル張りの洗面所は足元から私の熱を奪った。
鏡に映る顔は、見ないようにした。
通勤ラッシュというものを初めて見た私は戦慄した。言うまでもなく、今からこれに自分が付帯するという事実に、吐き気を催した。不動産屋から笑顔で提示された、新宿まで約20分という甘言に拐かされた私が悪かったのだ。
これが東京なんだ。
遅刻間際に会社に到着し促された会議室には、新入社員と思われる人間が15人ほど固まって立っていた。円卓に囲まれた椅子に座っていいのかも分からず、たまに殆ど聞こえないような声で会話がなされていた。私は小さくおはようございますと誰にともなく挨拶し、女子の塊の方へそれとなく近づいた。横目で見れば全員がきちんと化粧をしていた。私はそれに負い目を感じた。だって、誰も教えてはくれなかったんだもの。
私は誰かがこの状況を壊してくれることを、ただ待った。
5分もすると扉が開き、恰幅の良い50代程の薄い白髪の男性が数人のスーツ姿を引き連れ入ってきた。社長は凡庸な挨拶を終えると、私たちはグループ分けされ直属の上司にあたる人物の元へと招集された。上司にあたる人物は若い男性。自信なさげな、どこにでもいる冴えないやつ。ネクタイは歪み、スーツにも所々皺が寄っている。私のグループは新入社員が3人。聞いたことの無い私立大学を卒業したという栗原さんは少し明るめの髪色で、長い髪はロールしていた。睫毛も長く、唇も明るかった。角刈りでレンズの汚れた眼鏡をかけた新井さんはいつも少しだけ口が開いている。後から知ることになるのだが、新井さんがスーツの二つ目のボタンを留めているのは常識外れだそうだ。大学を出ていても、そういうことは誰も教えてはくれないんだ。
世間はそうやって、黙って人を評価していくんだ———
ブレイブアーニムル16話
「なんだこれ……どうなってんだ……?」
カズトが誰もいない東京駅のホームを見て呟いた。新幹線に乗っていた乗客はホームでざわつき、誰もが不穏な顔つきを見せていた。
乗客がホームへと飛び出した後、虎に襲われ気を失っていた女性をチヒロへ預けると、車掌室の方へと駆けたハルカがカズトたちの元へと戻ってきた。背中にびしっと抱きついているアクアンはぬいぐるみの振りでもしているのだろうが、この混乱の中でなければそれはかなり目を惹くシュールなものだった。とは言え、チヒロの前方で抱っこされているストルムはさておき、肩車の様にカズトの頭にしがみついているフレイヤも甲乙つけがたい注目度だったことも否めやしない。
「ダメ。やっぱりもう逃げられたみたい」
「お姉ちゃん、逃げられたって、誰に?」
「スーフォック。私の隣の席に座っていたのが彼女の変装した姿だったの」
「マジか!?あんなに近くにいたのに気づかなかったぜ……」
「でも……彼女、やっぱり本当にこの騒ぎには関与していないのかも。ただ東京に行きたいだけって言ってたし、車掌さんにミラクルムで新横浜駅に止めさせないようにしたのも彼女よ。結果的に、もし止まって扉でも開いてたら大変なことになってた……」
「マイマイもそんなこと言ってたよね。自分は関係ないって」
「東京に、か……」
カズトはホームから覗く隙間から高いビルを見上げた。東京。誰もいない、大都会。我が故郷に不思議と懐かしさは微塵も感じることは無かった。
「駄目だ。人っ子一人いやしねえ!」
スーツを着た男性が息せき切らし金切り声を上げた。
「改札どころか、他の線も何もかも、どこもかしこも人がいねえ!」
そのサラリーマンの言葉に、ざわめきが一際強くなった。うだるような真夏の気温に、人々は途方に暮れた。
時は少し遡り、ケイトとグリムを乗せたユキとタクトの車は名古屋を抜けた辺りを颯爽と走っていた。元来大人しい性格のガンファはぬいぐるみの振りをしてグリムの膝の上にちょんと座っている。
「うーん、おかしいわね……」
岡崎サービスエリアで小休憩を取った後、ユキはラジオで交通状況を把握しようと、タクトの電子機器から流れる音楽を止め、様々な局に周波を合わせてみたものの、殆ど全ての局からは何の音声も流れてこなかった。
「ローカルのラジオは繋がるんだけどね。ザーっていう音も流れないし、ずっと無音ってのは変だよね」
助手席のユキの後ろの席に座るケイトは身を乗り出して言った。
「……ケイト。ボクたちが今向かっているのは東京だな?」
運転席の後方に座るグリムは頬杖を付きながら薄眼を開けて外の景色をぼんやりと眺めていた。
「うん、そうだよ」
「グリムちゃん、あんな車乗せちゃったから、こんなんじゃ物足りなくなってんでしょ」
ユキがモニタの画面を操作しながら言った。
「まあ……あれに比べるとこいつは退屈だな……おい、天井は開かないのか?」
「まさか僕に言ってる?グリムちゃん!?」
グリムの命令口調のため口は、ややもすると運転中のタクトに向けられたもののように捉えられた。
「違うよグリム。目上の人にはちゃんと敬語使わなきゃ」
そしてケイトがそれを咎めた。グリムはまるで悪気がなかったかのように目を丸めて応じた。
「すまない。それは知らなかった。目上……目上……こいつはボクの目上になるのか?」
「こいつ!」
やはり悪気の無いグリムの言葉にタクトは分かりやすくショックを受けた。
「そうだよ。自分より年上の人にはちゃんと敬語を使おうね。まあ、そういうのは追々覚えていくとして。僕らが東京に向かっていることがどうかしたの?」
ケイトはまるで小学1年生にでも使うような言葉遣いでグリムを諭した。カズトよりも背丈の大きい、無論、ケイトの頭1個分ほどの少女はしかし、ケイトの妹であるかのように素直に首肯するのだった。
「反対側からこちらに向かっていくのは東京から走ってきた車だろう?皆に付いている文字と番号を眺めていたが、東京や三鷹という文字は一つも見当たらない。それが不思議だったんだ」
「ああ、ナンバープレートのことね。東京はとってもたくさんの人が住んでるから、東京って書いてある車はないんだ。でも、逆に三鷹だと少なすぎる。三鷹に住んでる人は、この車と同じ、多摩って書いてあるはずだよ」
「成る程……」
ケイトは普段よりも自慢げに解説を入れると、グリムは再度窓の向こうへと目を遣った。会話の終了とも採れたその相槌は、ケイトにとってはしかしてなぜその問いを発したのかという根本的興味の希求を禁じ得ないものだった。自然ケイトはグリムに近寄り、共に反対車線に目を遣った。青く高い、真夏の空。代わり映えの無い日常がそこにはあった。
こちら側の世界に来たビーストの内のもう一人、エナーハイ。彼は生来それほどまでのマナトムを体内に宿している訳でもなく、かといって大気中のマナトムを自在に操ることもさほど得手ではない。加えて彼の容姿からして、マイマイやスーフォックの様にうまく人間たちに紛れ込むのは中々に難いことだった。長く突き出た鼻に全身を覆う毛皮。どう変装してもまるで人間には見えない彼は、しかしどうしても東京へと向かう必要があった。人目を避け、野を駆けようとはしてみたが、なにせ東京がどちらなのか、要する時間も分からない。ならばと思い至ったのが偶然目に入った看板である。緑色の看板に書かれた東京という文字。そちらに向かう自動車に帯同せんと、真夜中にお誂え向きの、荷台にブルーシートのかかった軽トラックにお邪魔したわけである。あとは眠っていればいずれ東京へとたどり着くだろうという期待は、途中のサービスエリアで運転手が熟睡しだしたことによって、大幅な時間のロスを喰らったものの、順当に東京へと向かっていた。
『ああ、よく寝たぜ。こいつぁもう止まってんのか。もう東京ってのに着いたのか?』エナーハイはそれほどまでに大きな動きをすることのできないブルーシートの中で、ぺろっとシートをめくってみせた。するとどうだろう。彼の覗いた目の先には遥か千里を之かんとする車の列が連なっているではないか。『ああ?なんだこりゃあ。入国審査でもしてんのかよくそったれが……』エナーハイは高い空に太陽を見た。まだ、だ。ここで目立った行動をするべきではないし、いざとなれば脚がある。何はともあれ。一休みを続けることにした。
「ねえ、お母さん。やっぱり変だよ」
ケイトが頓に端を発した。この1時間の観察で彼が結論付けた推察。それにユキは耳を傾けた。
「変って、ラジオが?」
「ううん、それもあるけど……見てよ、反対車線のパーキングエリア。全然車がいないよ」
遠州森町パーキングエリア。愛知県と静岡県の境目付近にある、やや大きめのサービスエリアを過ぎ去ろうとするところ、ケイトの言う通り下り車線のサービスエリアは、車が一〇台弱程しか視認できなかった。
「いくら下りだからって、お盆の時期のお昼過ぎにこの車の量。上りの大所帯と比べると天と地の差だよ」
「まあ、そんなときもあるんじゃない?みんなもう東京に戻る時期が重なってるだけかもよ?」
スムーズにケイトの弁舌を進行させようとする、予想されうる大衆的な質問。ユキのこの発言は言わば着火剤の役割を果たしていた。
「そうかもしれない。でも、極めつけはグリムの一言。向こうから来る車のナンバーをずっと見てたんだ。そしたらね、不思議。東京からのナンバーが殆どゼロなんだよ」
その言葉にユキははっとした。これから明かされる最大の喝采を意識的に奪い取ることはせず、先んじてケイトの結論に帰納させることができた。
「それに加えてラジオの不調。テレビ番組は予め回しておいたテープのおかげで少しは体裁を保つことができるだろうけど、そろそろそれも限界なんじゃないかな?」
ケイトはそう言うとモニタをテレビ番組へと変更した。放送を受信できていない証明に、画面が流れた局ばかりが、ローカル番組の快郎な音声を流した。
「……東京で何かが起こってる……?」
「それだけじゃないよ」
ケイトは言葉を強めた。
「東京で何かが起きている。だけど東京で起きている何かを発信する機能が制限されている可能性も高い。それも、かなり乱暴なやり方でね」
「……どういうことだ?」
「だって変でしょ?大きな問題があったら番組を中断してでもそれを報道すべきだよね。それが東京でとなったら話はいよいよ大ごとだ。でも、それが無い。かといって今東京のテレビ局が動いていると錯覚させるフェイクも無い。明らかに、日本中の人達はこの異変に気付くはずだ。でも、スマホで調べる限りその原因を追究できた人間はいない。つまり、この事態を巻き起こした張本人は、意図的にこの事態を引き起こし、日本中に知らしめたってことになる」
そのケイトの発言は、ユキの予想の遥か上を綽綽と超えていった。ユキは予め打ち合わせを済ませた司会者を演じるがごとくこれまではケイトのいわば相手をしていた。それを凌駕した我が子の推察に、打ちひしがれた。明らかにこの数日で、ケイトに変化があった。ユキにとっては寧ろこちらの事柄の方が懸案事項としては優先度を暗に高めざるを得なかったが、しかしそれでも真っ先に浮かぶ懸念。
「カズトたち、大丈夫かしら」
「分からない。でも、僕たちも今まさにその渦中に飛び込もうとしているんだよ」
「ど、どうする?引き返すか?でも、カズトたちが……」
タクトはおどおどとした声で焦りを見せた。
「何言ってんの。東京に向かうに決まってんでしょ?それも超特急で!ほら、右行って!」
「ちょ、追い越し車線を走り続けちゃダメなんだよ~!?」
「それとね、もう一つ」
ケイトは諦観気味に言い残した。
「その何かのせいで、新東名高速道路の上りは歴史的な大渋滞が起こると思うよ」
東京都へと向かう主要交通網である新東名高速道路。そこでは今まさに60キロにも亘るおぞましき長蛇の渋滞が起こっていた。実際、列に参入してしまった凡そのドライバーが一向に進展することの無い渋滞の情報を得ようとラジオやテレビ、将又SNSを渉猟したのだが、微塵もそれに関する情報は得られなかった。そうこうしている内に渋滞は完全に停止したまま前進することは無く、ひたすらにそれを知らぬ後続が尾を徐に長くせしめていたのである。県堺から少しした海老名辺りで彼の乗る軽トラックは立ち往生していた。
『ん……んあぁ……ったく、昼は眠くて仕方ねえ……そろそろ東京に着いてんのか……?』
エナーハイはブルーシートから洩れる光に温かさを感じつつ、こっそりと前方と思われる方向をめくった。
「うおお……なんだこりゃ……」
彼が目にしたのは幾百の車の大群だった。ミラー部分から見えるトラックの運転手はシフトをPに入れ、うとうととしていた。
エナーハイは内心恐れていた。エナーハイを含めたビースト達に命令が下ったのはつい昨日。こちらの世界に来たはいいものの、肝心のボスはすぐさま姿を晦ませたのだった。そうして別段共に行動することを好まない彼らは、この世界の塩梅を確かめに個人個人で放浪していたところ、普段の様に唐突にボスからの命令が脳内に響いたのである。この命令の内容は『明日までに東京に集結せよ』との、実に簡素なものだった。彼らは必死にその手段を探し出すのだが、それは命令にそぐわない結果になるということがどういうことを意味するかということを本能的に知っていたからである。だからこそ、彼らは忠実に命令に従うし、命令を守らなければならなかった。
「……目立つのは得策じゃねえが……」
エナーハイは寝ぼけ眼をさすり、大きく欠伸をした。そして、勢いよくブルーシートから飛び出し、停止する車の間を一気に駆け抜けた。
「今更どうってことねえやなぁ!」
殆どのドライバーがぼうっと前方を見つめ、車の進行が完全に途絶えていることを認識する最中、高速道路上を颯爽と駆け抜ける獣は余りに速く、その存在を正確に認識できた者は多くは無かった。
Bパート
陽が傾いてきた頃、東京へと向かう渋滞の情報は徐々にSNSを通じて多彩に得られるようになってきていた。しかしその一方で、ラジオ、テレビ共に全ての東京から発信されるプログラムは息を絶えていた。
ユキはケイトに可及的速やかにできるだけ正確な情報を得る様に命じ、ケイトはその任に応じた。実際、信憑性のある情報を取捨選択するのは容易ではなかったが、渋滞の発生原を凡そ予測できるという彼ならではの利点と、その発生源、東京都へと向かう交通量、その速度の予測を加味した上で導き出した計算式と合致する情報数の中央値。そこから導き出された答えにケイトは遂に言を発した。
「そろそろだよ」
その言葉にユキはすぐさま反応した。大渋滞を避けるべく、その手前まで高速道路を利用するという最も効率的なドライブのターニングポイント、その地点は御殿場インターチェンジだった。
「御殿場……か……」
ユキはニヒルな笑みを浮かべた。
「ケイト、携帯返して」ユキはそう言うとすぐに電話をかけた。「もしもし?うん、久しぶり。急なんだけどさ、あれ、すぐに用意できる?……うん、じゃあ、いつもの場所で」ユキの声は心なしかどこかケイトの良く知るところのユキではないように感じた。それは不安というよりも寧ろ、そのような一面もあるのだという単純な再認識に近かった。
「まさか……もしかして?」
「うん、あそこ。向かって」
ケイトの知らない二人の間に交わされたつうかあはどこか重々し気で、しかし、どこか期待に溢れていた。
4人を乗せた車は足利の寸でのところまで伸びた渋滞を難なく躱し、そのまま東へは向かわず北へと向かった。「お父さん、これ、北に向かってるよね?」
「そっちの方が速いのよ。実はね」
返答したのはユキだった。それもケイトにとっては理由を知るべくもなかったが、その語気に強いて詰問することもなかった。ケイトの顔に刺す陽は既に朱く強さを増していた。
音を裂く勢いでエナーハイは今までの遅延分を取り返した。見る見る内に県境へと到達したエナーハイは乗りに乗った、疲労などまだまだ知ることも無い脚を一度止めた。彼がそこで見た光景に、止まらされたと言い換えてもいい。彼はそこに世界の終わりを垣間見た気がした。
『なんだぁ?こりゃどうなってやがる?』東京に近づくにつれ、高速道路上の車間はぽつぽつと余裕を見せてきた。しかし、運転手のその全てが意識を失ったかのように瞳を閉ざしていた。そして、東京都へと足を踏み入れた瞬間、彼はその理由を感知した。
『……なるほどな……』肌がひりつくようなこの感覚。分かるものにしか知らされざる力。実際、マナトムの行使に蒙い彼はマナトムを感じることすら稀であった。しかしそれでも気が付かされるほどの強大な力は、東京という地に果ての無い有刺鉄線の様に張り巡らされていた。残念なことにそのミラクルムがどういった類のものか認識する能力は彼には欠けていたが、見渡す限りの光景の原因だけは特定することができたのである。
彼は打って変わって閑散とした高速道路を駆け抜けた。彼は自身の足音と車のアイドリングのみが響く時間を、ひりつく空気の中に駆けた。
「な……なにこれ……」
高速道路を降りた車が向かった先、山中湖沿いにある小さな小屋のような場所には、長ラン、ボンタン、ドカン……この時代においてそれを指す単語が機能しなくなるようななりをした容姿の女性がずらりと並んでいた。
タクトがその集団の近くに停車させ、助手席からユキが降りれば軍隊のような「お疲れ様です!」の声が暮れかけた湖に轟いた。
「こいつら、今まで見てきた人間とは覇気が違う……!それを統率しているだと……?ケイト、一体ユキとは何者なんだ……?」
「分からない……お母さんにこんな一面があっただなんて、僕全然知らないよ!」
後部座席で驚愕するグリムとケイトを尻目に、タクトは存外ニコニコしていた。まるで二人の反応を楽しんでいるかのように。
外で短い会話を済ませると、ユキは後部座席のドアを開けた。思わずビクっと体を震わせたケイトを抱っこすると、女性たちの前に見せびらかせた。「おお~」という歓声が沸き、「ユキさんのせがれさん、でっかくなりましたね!」「さっすが、面構えがガテン利いてッスよ!」「パねえ可愛いじゃないッスか!」などと、口々に言うのであった。
「お、お母さん……?」
ユキはまるで借りてきた猫のように不動を貫くケイトの頭をぽんと撫でた。
「ごめんねケイト。みんながあんたを見たいって言うからさ」
ユキはケイトに優しく微笑むと、女性たちに振り向き、告げた。
「さあ、さっさと支度して頂戴!急いでんだァ!」
雄々しいユキの号令に数十人もの女性は気合の入った返事で素早く散らばった。そしてユキはケイトとグリムに再度向き直った。その顔は真剣そのものだった。
「私は真っ先に東京に向かってカズト達を見つけなきゃならない。そしてあんたたち二人を今の東京へ連れて行くわけにはいかない。だから二人はパパと一緒にここに残って」
ユキのこの判断は至極真っ当なものだった。危険区域に子どもを連れていく理由などどこにもない。しかし、二人にとってそれは全くの逆だった。ビーストに匹敵する獣たちに対して何の力も無いユキを連れていくわけにはいかない。東京は今ビースト達によって蹂躙されているかも知れない。人が立ち入った瞬間に殺されるかも分からない。最悪の事態を想定すれば、ユキが東京に向かうメリットの方が皆無なのだ。しかし、如何にこれを説得し、尚且つ東京まで向かうことができるか。瞬間的にケイトの脳内に妙案は思い浮かぶことは無かった。
「ユキ。ボクも連れていけ」
言葉の出ないケイトに助け舟を出したのはグリムだった。いつの間にかユキの背後に回り込んでいたグリムにユキは覚えずして驚きの表情を見せた。真っ赤に照り輝く太陽にグリムは背を向けていた。
「連れていけ……って、何言ってんの?子どもを危険な目に遇わせるわけにはいかないわ。残りなさい」
ユキは目を細め、脅すように低い声で言った。グリムはそれに臆することなく飄々とした目つきで返した。
「……ボクは人間が嫌いだった。しかし、ケイト、カズト、ハルカ、チヒロ、そしてユキの家族たち。少なくともこいつらは例外だ。こいつらはボクにとってはもう大切な存在だ。簡単に失いたくはない」
グリムは「ガンファ」と軽く呼ぶと、社内に残されたガンファはよちよちとグリムの足元に駆けつけた。
「なっ……」
「アーニムルディスガイズ。ガンファ。シンクロナイゼーション!」
激しい光に包まれ、グリムはガンファとシンクロした。それは外見の変化のみではなく、溢れ出る未知なる力の荘厳さを以ってユキを圧倒した。
「今まで黙っていてすまなかった。今この世界で起きている何か。恐らくボクらはそれに大きく関わっている筈だ。何の力も無い人間は寧ろ邪魔だ」
グリムは冷静にそう告げた。
「お母さん……」と小さく呟くケイトを振り向いたユキは見るからに動揺していた。それ以上の言葉を、必要としなかった。
「まさか……」
ケイトは努めて不安な表情を払拭し、告げた。
「僕らが、やらなきゃいけないんだ」
ケイトのそんな表情は初めて見た。ユキはそう思った。自身の不可侵の領域が、この子にはもうあるんだ。そう思った。
その時だった。突如として空中から急降下した影がケイト目掛けて突っ込んできた。その時速およそ200キロの猛突進をグリムは見逃さなかった。
「はあああ!」
グリムの鋭い飛び蹴りが、ケイトのみしか見据えていなかった巨鳥にクリーンヒットした!両翼を拡げれば8尺はあろうかというそれは、何とか空中で体勢を整え、再び空へと舞い上がった。
「急げ!また来るぞ!」
急に訳の分からない状況に叩き込まれたユキは混乱していた。自分の知らない世界の境界線に立たされている気がした。それは彼らの不可侵領域。彼方から手を差し伸べる少年少女。そして、振り返ればいつもの自分と小学生の子どもたち。その瞬間彼女が立たされているのは、人生の岐路だったのかもしれない。
その狭間から、過去に無くした何かを見た。
束の間、明らかにケイトを狙ったバケモノの攻撃と「ユキさんー!」と声が聞こえた合図に、彼女は瞬時に頭を切り替えた。
女性たちが手で押してきたもの、それはスズキ・GSX1300R。通称ハヤブサ。乾燥重量200キロ超。大型リッターバイク。
ユキは咄嗟に差し出されたヘルメットを被り、ケイトを片手で担ぎ、タンクとシートの間へと挟んだ。
「ちょ、お母さん!?」
ケイトを黙らせるかのようにユキは子ども用のヘルメットを被せ、顎紐をきつく結んだ。
「どうせ東京まで行く手段はないんでしょ!?乗りな!」
ユキはタンデムシートをぽんと叩くと、グリムは一瞬の逡巡の後、ユキの後ろへと飛び乗った。しかし、その方向はユキの向く前方ではなく、敵を意識した後方を向いた体制だった。
「ちょ、さすがにそれは危ないって!」
注意を喚起するユキにグリムは微笑んだ。
「背中は預けた。信頼、しているぞ」
その言葉に、ユキは疼いた。武者震いした。自身が必要とされていることに歓喜した。まだ一緒にいられる。不可侵の領域に連れて行ってもらえるワクワクを心から感じた。
「ユキさん、その子は?なんだったんすか、さっきの光は!?」
「ウチの娘みたいなもんさ!輝くほどべっぴんってこった!」
スターターを押すと景気のいいキュルルという音と共にマシンが産声を上げた。
「やっぱいい音すんねぇ!」
「ばっちり整備済っすよ!ユキさん好みのクラッチ感にブレーキ、タイヤ。好きにやっちゃってください!」
いつの間にか工業高校生のような身なりになった女性はそう言うと親指をグッと上げた。
懐かしい感覚。マシンと心を一つにするんだ。子ども二人載せてんだ。絶対に下手をこくわけにはいかない。大丈夫。私なら……できる!
シフトをローへと蹴り下げ、勢いよく飛び出した。ギュオオンという轟音と共に、3人の姿は忽ち粒となって消えた。
一人その場に残されたタクトに女性が声をかけた。
「残されちゃいましたね。タクトさん」
「いやぁ、父親ってこんなものなのかな。敵わないなぁ、やっぱユキには」
目の前でグリムのシンクロと巨鳥を目にしたにも関わらず瞬時に適応し、カズトの元へと走った。その行動力に感服したタクトはどこか物憂げだった。
「……大丈夫っすよ。ユキさんにはタクトさんがぜってぇ必要なんスもん。一人で突っ走れるのもタクトさんがいるからじゃないんスかね」
茫然と立ち竦むタクトの傍らに立った女性がにひっと笑った。
「お母さん、あれ、何だったの!?」
法定速度を大幅に超え、タイムアタックの様にビュンビュンと駆け抜けるユキの姿は普段の母親の第二の側面だった。
「昔の仲間さ。……ごめん、集中させて」
ユキはそれだけ言うとただ真っ直ぐに次のコーナーへと意識を向けた。極力速度を落とさずに最小径で膝を擦る。
上空では巨鳥が攻撃のタイミングを見計らっているが、グリムの目が簡単にはそうはさせない。森林に囲まれた道は既に暗く、妖しい程に他の車輛は見当たらなかった。それが幸いし、韋駄天を食い止める要素などどこにもなかった。
待っててカズト、ハルカちゃん、チヒロちゃん。すぐに向かうから……!
END