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君におっぱい

作者: ネクロ眼鏡

ちょいエロです。ご注意ください。

「のぞみと別れた」


 テーブルで漫画雑誌をめくっていた沙希の手がピタリと止まる。切れ長の大きな瞳が俺を見た。


「ふうん。一年か。結構持ったね」


 からかうでもなく、むしろ褒めるような声音でそんなことを言ってくる。まるで初めから結末を予想していたみたいだ。のぞみと俺は上手くいかないと。


「全然驚かないんだな」


「だって来人しんどそうだったし」


「そんなに分かるもんなのか」


 心当たりがないわけじゃない。でも、のぞみと接点の少ない沙希に看破されるとは思わなかった。

 沙希が呆れたように息を吐く。


「何年の付き合いだと思ってるの。……並んでるとこ一回見れば大体ね」


「マジか」


 一目でもう察していたのか。驚異の観察眼だ。俺にそこまでの目はない。

 変に隠し事をしようとは思わなかった。この際だ、少しだけ自分のことを話してみる。


「かっこつけてられなかった。エスコートとか俺には無理だ」


 「ふふ」と沙希が笑う。言葉にこそしないが間違いなく同意の笑いだ。一瞥をくれてやると、左手だけで謝ってくる。そして、姿勢を改めた。


「べったりだったもんね。『憧れの先輩』として頑張り過ぎた訳だ」


「……まあな」


 頑張り過ぎたと言われれば、それまでだ。身の丈に合わないことをしようとして、耐えられなかった。のぞみの理想を追い続けることに嫌気が差した。


 のぞみの願いをどれだけ聞き届けられていたかは分からない。ただ、女性に応えようとし続ける姿勢が恋愛に欠かせないのであれば、俺はもう一生恋愛なんてできない気がする。自分のことだけで精一杯なのだ。今のまま他人なんて抱えられない。


「私を置いてどこかへ行かないで欲しいんだけど」


 沙希のトゲトゲした物言いに、意識を私室に呼び戻された。目の前では、肩肘をついた黒髪ショートが俺を睨んでいる。


「悪い」


 素直に謝ると、少しだけ眼力は弱まった。しかし、依然として機嫌は悪そうだ。なぜだろう、こういう時の彼女はどことなく猫を思わせる。


「それで、正直に言ったの? 『もう無理です』って」


「……言えなかった」


「ふーん。そういうの一緒に乗り越えて行くのが恋人だと思うけど」


 特に責めるような口調ではなかった。ただ、素知らぬ顔で痛いところを突かれた気がした。俺にはのぞみに相談するなんて選択肢が端から存在しなかったからだ。俺が弱音を吐いたところで、彼女の望みは変わらないと思っていた。口にすれば早々に瓦解する関係だと思っていた。だから、理想を追い続けた。

 正しく響く言葉は、時として痛い。


「そう、かもな。でも、俺には弱みをどう見せていいのか分からなかった」


「今はそんなに無防備なのに?」


 沙希に指をさされて気付く。今の自分に。リビングテーブルの前でうなだれる姿は弱さそのものだ。なぜ沙希には見せられて、のぞみに見せられなかったのか。


「何かして欲しいことはある?」


 答えを知っていると言うように、沙希の瞳が怪しく煌めいた。

 誘われているのだと理解する。幼馴染の豹変に、不思議と戸惑いは覚えない。だが、期待には応えられそうになかった。


 これまで溜めてきた疲労が、今もまだ取れずにいる。好きとか愛するとかそういうことが考えられない。今の俺は、多分恋愛以前の次元にいる。ただ自分が救われたい一心なのだ。こんな気持ちのまま沙希に「好きだ」などと口が裂けても言えない。

 それでも、差し伸べられた救いの手は、抗いがたいほどに魅力的だった。拒否ができない。だから嘘にならない言葉を探す。


「む、胸を貸して欲しい。比喩じゃなく、エロくない意味で……」


 部屋に静寂が訪れる。沙希はしばらく目を瞬かせ、そして吹き出した。爆笑だった。腹を抱え、顔は真っ赤だ。


「比喩じゃないって……! エロくないって……っ!!」


 沙希とは対照的に俺の血の気は引いていく。俺は今とんでもない過ちを犯したのではないだろうか。明日からのゼミ生活さえ危ういのではなかろうか。俺は、どうすればいい。

 ひとしきり笑って落ち着いてきたのだろうか。目の端に涙を滲ませながら沙希が面を上げる。


「十分エロいよ」


 断定する彼女の顔は、今まで見た誰の顔よりも華やいでいた。


「それでどうするの? ここで? それともベッドで?」


「ちょっと待てまだ俺は」


「いいからっ! 床? ベッド?」


 「返事を聞いていない」と言おうとして遮られてしまった。いや、流れを考えれば分かってはいるのだが。はっきりと聞いておきたかったが、仕方なく諦める。


「……ベッドで」


「躊躇うわりには来るじゃん」


「半端に癒される気はないからな」


「……全然かっこよくないよ、それ」


 いや、別に気取ろうとしたつもりはないのだが。

 沙希がクッションを離れ立ち上がる。キッチンの方へと向かいながら、途中で吊ってあった俺のTシャツを一枚取った。


「シャツとお風呂、借りるね」


 扉に手を掛けながら俺の方へと振り返る。俺はそれに黙って頷いた。

 シャワーの音が聞こえる中で沙希を待ち、彼女と交代で俺も風呂場へ急ぐ。すれ違いざまに見えた彼女の太ももは、俺の平常心をかき乱した。

 温かな湿気の残る浴室で汚れを落とし、再び部屋に戻る。明かりはベッドの脇の読書灯だけになっていた。


「来たね。こっちこっち」


 枕とタオルケットを抱いていた沙希が、シーツを叩く。俺の寝床に何の怯みもない。むしろ、あまりにも自然体で俺が戸惑う。どんな顔をして寄れというのか。


「表情硬いね。今更怖気付く?」


 「今日はやめとく?」くらいの軽い響き。どうして沙希はこんなに余裕でいられるのだろう。

 疲れを取るには力みすぎているのが分かる。だが、もう後には引けないと思った。ベッドの側で一呼吸。意を決して身を屈める 。


「ぷっ、怖いよ。おいでー」


 広げられた両腕に招かれるまま、沙希の胸に顔を委ねた。後頭部に手が添えられる。頭を抱きしめられている。

 沙希は俺の髪を何度も撫でた。毛並みでも確かめるように。抵抗感はなかった。軽んじられているとは思わなかったからだ。髪型を崩さないためか表面だけが優しく撫でられていく。上から下へ、上から下へ。髪の流れに沿うように。どこか遠慮がちな彼女の手つきに、漠然と愛されていると思った。


 俺を包む彼女の鼓動、彼女の温もり。顔が熱い。五感の八割を沙希が占めている気がした。

 埋めた顔を覆うのは、肋骨の形を伝えない柔らかな肌の感触だ。背骨の存在感と比べると、その弾力がよく分かる。いや、ちょっと待て。


「おまっ、お前! 付けてないのか!?」


 沙希の抱擁から抜け出して俺は叫んだ。沙希が目を細め口を尖らせる。「無粋な真似をするな」と目が言っている。


「だって持ってきてないし。気にすることでもないでしょ」


「いや形とか……」


「そんなこと心配しなくていいから。そういうこと気にするのは私だけでいいの」


 抵抗を許されず、ぐいと胸へと連れ戻される。密着する熱気に目眩がした。俺の服のはずなのに、匂いが甘い。頭が、頭が痺れる。

 本能が暴れているのだと考えるまでもなかった。だが、本能に従っても後味が悪いと理性が知っている。俺は極力下から意識を遠ざけた。


 どれくらい無言だっただろうか。お互いの体温が落ち着いてくるのが分かった。ぼんやりとした心地よさの中で息を吐く。


「ホントに、疲れてたんだね」


 耳と額に声が響いた。俺は恐る恐る顔を離す。沙希は淡い笑みを浮かべていた。


「無防備なのは見てきたけど、曇りがないのは初めて見るかも」


 そして独り言のように「きれい 」と漏らす。

 俺はそんな沙希をずっと眺めていた。回らない頭で彼女のことを考える。こんなに取り留めのない彼女を見るのは、俺も初めてかも知れない。秘密の匂いが消えても、沙希は美しいのだと今知った。


「正直ね、逃げられると思ってた」


 沙希が俯きがちに呟く。意図を掴みかね問い掛ける。


「誰に?」


「来人」


 なぜ俺が沙希から逃げるのだろう。沙希を避けた覚えはない。

 尋ねるより先に、全てが氷解した。


「全部、抱えて行っちゃうと思ってたから」


 かすかに潤んだ瞳に、胸が痛む。俺のことだと流石に分かる。

 確かに、今夜誘われていなければ、俺は一人で生きようと足掻いていたかも知れない。沙希にも気が付かないままに。恋の真似事をしようとする俺を、彼女はどんな心境で見ていたのだろう。


「悪い……」


 顔を合わせられない俺を、沙希が抱きしめた。


「今日はいいから」


 温もりに包まれながら甘やかされていると理解する。不甲斐なく思いながらも有り難かった。今の俺では退くのも進むのも嘘だ。

 情動、責任感、その他の意思の源全てを胸中に押しやって、俺は意識を放り出した。



✳︎



 チッチッと耳をくすぐる声がする。空が白んでいる予感。意識が浮かび上がる。

 冷気の名残、乾いた空気。いつもの朝だ。普段と異なるのは隣、いや正面に沙希がいることか。彼女は糸の切れた人形のように眠っている。

 昨夜はがっつり密着していたが、今朝は彼女との胸の間に握りこぶし二個分の距離ができていた。顔を押し当てようとは思わない。包まれるより抱き寄せたい気分だ。だが、無意識の相手に手を伸ばすのは憚られる。

 無言で寝顔に視線を注いでいると、沙希の瞼が微かに動いた。ゆっくりと目が開く。


「おはよ。朝から真剣だね」


 冗談めかして彼女は笑った。脳裏に昨夜の涙がよぎる。無防備な沙希が目の前にいる。


「沙希、抱いていいか」


「エロい意味じゃなく?」


 茶化しながらも沙希は首を横に振らず、それ以上何も言わなかった。彼女の素振りを同意とみなし、俺は身体を引き寄せる。沙希はすっぽりと俺の腕に収まった。


「どうしたの? 昨日は胸だったのに」


「一晩経ったからな」


「そっか。効果はあったわけだ」


 重ねた胸に、彼女の笑いが響いた。互いに何も話さないまま微睡む。

 先に沈黙を破ったのは俺だ。


「俺は、お前と一緒にいたい」


「そっか。ねえ、私のことどう思う?」


 即座に「好きだ」と返すべきなのだろう。気持ちのほとんどが沙希に引き寄せられているのは、自分でもよく分かっている。 それでもまだ全てとは言えない。今までの自分を整理できていない。


「好き、……まで、もうすぐだ」


 背中をぐいとつままれる。


「それ、普通の子に言ったら絶対ぶっ飛ばされるよ? でも、今日だけは許したげる」


 沙希は思い切り抱き着いてきた。体が熱を発するほどに強い。それでも離れない。


「待ってるから」


 耳元で放たれた彼女の囁きは、俺の芯に刻み込まれた。俺は両腕に力を込める。沙希と同じように。

 唇を重ね、ひとしきり笑い合って、身を離す。それからの話題は、二人の朝食についてだった。

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