第3節 「ハミング」
夏の終わりの昼下がり、煌々と照りつける日射しの下で、俺は馬用の荷台に薪を積み上げながら、朝のアンナの言葉を何度も頭の中で反芻していた。
おやっさんとアンナが自分のことを実の家族の様に思っていてくれている事は、自分にとってはこれ以上なく嬉しい事であるのと同時に、深い悩みをもたらすものでもあった。
もし、俺が記憶のすべてを取り戻したとして、そうした時に俺がどうすべきなのか、という疑問が頭を支配する。
本来の家族の元に戻るのが正しい、と理性が答えた。
まだ彼らの家族でありたい、と心が答えた。
どちらに従うべきなのか、何時まで経っても答えの出ないその決断は未来の自分に委ねて、迷いを振り払う様にベティに跨り、家を後にした。
今日の一軒目の届け先は、ベイカー家から距離にして一里ほどの場所にある、マグノリアという老夫婦の家だった。
彼らはよくベイカー家から薪を購入してくれる、所謂「お得意様」である。
家主のバンズさんはよく出稼ぎで家を空けているため、支払いに応じるのはいつも奥さんのマリーさんなのだ。
「えーっと……薪、四束で360ウィルになります」
そう言い終わらないうちに、いつもの様に、マリーさんが俺の手に代金を握らせた。
「はい、お代。……ナインちゃん、今日は暑かったでしょ?良かったらウチで少し休んでいったら?」
マリーさんが穏やかな表情で俺にそう提案した。
「いえ、この後もまだ届け先あるんで、遠慮しときます!……なんか、すみません」
「ふふ、いいのいいの。――あ、ちょっとだけ聞きたいことがあるのだけれど」
「はい?」
「ナインちゃん、一週間くらい前の晩にこの辺りの森をうろついていなかった?」
彼女のその言葉は、俺を大いに困惑させた。
そんな日のそんな時間にこの辺りをうろついた覚えなど当然ない。
「いえ、そん時は家で寝てたと思うんすけど……」
「あら、そう?見間違えだったかしら。――あ、引き止めちゃってごめんなさいね。お仕事、頑張って頂戴」
「ええ、ありがとうございます」
マリーさんにそう礼を述べて、ベティの背に跨り、マグノリア家を後にした。
次の客の元へと向かう為にベティを走らせながら、俺は考えを巡らせていた。
それは、先ほどのマリーさんの言葉――俺の目撃情報に関する事である。
俺の中では、どうにもその目撃情報における人物と、数日前にジンさん見間違えられた人物が、同一人物としか思えないのである。
だとすれば、たまたま俺に背格好のよく似た人物がこの村をうろついている、という事になる。
しかし、俺の記憶する限りでは、この村はそれなりの広さがあると言えど、俺と年齢の近い男子は居なかった筈であり、また、村の人々も俺の顔をよく知っているため、他人と見間違える、ということ自体が、そうそう有り得ることではない筈なのだが――。
ベイカー家の向かいに住むジンさんも、先ほど話したマリーさんも、年老いているとは言えど、それを感じさせないほどに言動がしっかりとしている。
両者にボケが来ている、という路線も正直考えにくい。
あれこれと考えを巡らせてみたものの、遂に納得のいく答えは見つからなかった。
俺が次に訪れたのは、先ほどのマグノリア家からさらに少し離れた山奥にある、ウィズダムという老紳士の館であった。
ウィズダム氏は、この村の中で唯一の資産家である。
何故そんな人間が都会から遠く離れたこのような村に居住しているのかと言うと、本人曰く、「大きな資産を抱えて過ごすには、この国の都市部はあまりに治安が悪いのだ」との事だ。
アランダ大陸北端に位置するこの国――カンヌダリアでは、貧富の差によるスラムの増加や、それに伴う犯罪件数の増加が大きな社会問題となっていた。
そのため、決してウィズダム氏が過度に心配性な訳ではなく、実際に都市部は危険なのである。
意匠が凝らされた門をくぐり、館の扉の前に辿り着くと、俺はいつもの様にコンコン、と二度ノックをした。
すると、普段ならば決まって使用人が現れる筈なのだが、扉を開いたのはウィズダム氏だった。
「あの、薪をお届けに上がりまし――」
そう言うや否や、彼は血相を変えて勢いよく扉を閉めてしまった。
辺りに、一瞬の静寂が訪れる。
「ちょ、ちょっと!どうしたんですか急に!」
突然の出来事に慌ててそう言うと、扉の向こうから聞こえてきたのは、ウィズダム氏の怒号だった。
「どうしたもこうしたもあるか!このうす汚い盗っ人め――早々に出ていけ!!」
突然の言葉に俺は呆然とした。
「ぬ、盗っ人って――いったい何の事ですか!?」
「とぼけるな!二週間前の晩に家の周りをうろついていたのはお前だろう!」
――まただ。
また、身に覚えのない目撃情報――!
「違うんです!!それは俺じゃ――」
その瞬間、襟をがしりと掴まれる感触。
振り返ると、ウィズダム氏の使用人である男の姿がそこにはあった。
彼の姿を認識した瞬間、俺の体はいとも容易く門の前まで放り投げられた。
「ぐっ……!」
「あと一分以内に立ち去れば見逃します」
「違う!俺は――」
必死に無実を証明しようとしたが、男は有無を言わさぬ様相で、俺の前に立ちはだかった。
「お引き取り、願えますね?」
「……くそッ!!」
どうやらまともに取り合ってくれそうにない。
そう判断した俺は、痛みを訴える体を引きずるようにして、ウィズダムの館を後にした。
夕陽が山々を朱く染める頃、家路を辿りながら、俺は途方に暮れていた。
ジンさんが数日前の早朝に俺を目撃した、という情報から始まった不可解な出来事の連続――。
何処の誰だか分からないが、俺に瓜二つらしいその人物のせいで冤罪を被り、大事な得意先をひとつ失ってしまった。
その事を考えれば考えるほど、心が激しく憤るのを感じた。
お前の不審な行動のせいで、俺が泥棒扱いされたのだ、とその男に文句の一つでも言ってやらねば気が済まない。
そうと決まったら、果たして、今その男がどの辺りにいるか、という目処をつけなければ。
確か、最初に聞いたのはジンさんが俺を目撃した、という情報。
次に、マリーさんの情報。
そして、最後にウィズダムの情報。
「って事は――あの館の周辺か――?」
そう結論づけようとして思い止まった。
――いや、違う。
確かに情報を聞いた順番はジン→マリー→ウィズダムの順だ。
しかし、実際に俺に瓜二つの男を彼らが見かけた時系列は――
「確かジンさんが……数日前、マリーさんが一週間前、ウィズダム氏が二週間、前……?」
頭の中で、件の男のいた地点を時系列に沿って結んでいく。
そうして、漸く俺は気が付いた。
――男は、日が経つにつれ、段々とベイカー家に近付いて来ているという事実に。
木々が鬱蒼と生い茂る森の中、斧が木を割る音が規則的に鳴り響く。
黙々と木を叩き割る禿頭の男に人影が近付く。
その気配に気が付き、男は作業を中断して振り返る。
「おぉ?ナインじゃねえか。なんでこんなトコに……仕事はどうしたよ?」
ナインと呼ばれた青年は、黙って男を見つめた。
「オイオイ、なんとか言えよ?えぇ?」
「……」
「お前、変だぞ?どうしたん……」
そう言って青年の肩に置こうとした手が、強く払われた。
「痛って……な、何も叩くこたぁねえだろ!」
すかさず男は青年に掴みかかろうとしたが、その刹那、青年はその体を強く蹴り飛ばした。
「がはっ…………お、お前、ナインじゃねえな……誰だ……ッ!!」
男がそう訊ねると、青年は不敵な笑みを浮かべて、言った。
「クク……俺はアイツ……アイツは俺だ……変わらねえ、変わんねえんだよ……」
木々がざわめき、風が唸る。
森の一角で、小鳥の群れが一斉に、朱い空へと飛び立った。