第1節 「違和感」
俺が"あの場所"から抜け出してから、どれ程の時が経っただろう。
あの日――人里離れた雪山で行き倒れながら、ただ死が訪れるのを待っていたあの時に抱いた疑問の答えを――『自分は何者なのか』という疑問の答えを、今もまだ探している。
今日は随分と詩的で素敵で刺激的な朝だ。
心地よい風に、よく晴れた空、村じゅうに響き渡る小鳥のさえずり――
「……ナイン……おい、ナイン!起きろってンだろぉ!」
――そして、狭い家に響き渡るおっさんの怒号。
うん、実に刺激的な朝だ。
このおっさん――ダン・ベイカーは俺の父親ではない。
彼は今から5年前、雪山の麓で遭難していた俺の命を救ってくれた恩人なのだ。
その時に拾われてから実に5年間、彼は身寄りのない俺をベイカー家の一員として養ってくれている。
そのことにはとても感謝しているのだが、それはそれ。これはこれだ。
俺にとって至福のひとときである睡眠時間だけはどうしても邪魔されたくはなかった。
「……おやっさん、あと5時間……」
そう言って俺は毛布にくるまり、防御の姿勢を固めた。
「長ぇわ!『あと5分』くらいのノリで言うな!!」
そう言っておやっさんが俺の毛布を引き剥がそうと力を込める。
負けじと抵抗したが、長年の木こり作業で鍛えられたおやっさんの馬鹿力によって、いとも容易く俺の防御は破られた。
「あ、あぁ……俺の寝床……ユートピア……」
「ふん、莫迦なこと言ってねえでさっさと馬の寝床を片付けてこいってんだ」
「へーい……ふわぁ……」
欠伸混じりに生返事をして、まだ寝足りないと訴える体を引きずって玄関へと向かう。
あちこちに体をぶつけながらようやく家を出ると、背後で小さく「やれやれ……」という声がした。
朝起きてすぐに馬小屋の掃除と餌やりを行う、というのがこの家に来てからの俺の日課のひとつだ。馬小屋は家からそう遠くない場所にあるので、家から出て間もなく俺は馬小屋の前に辿り着いた。
馬小屋の匂いは独特で、最初の頃は少し抵抗があったが、今となってはそれほど気にならなくなった。
いつも通りに馬小屋のフェンスゲートを開けると、ぬっと茶色く縦長い顔が目の前に現れた。
この馬小屋のヌシ、クォーターホースのベティである。
「よう、ベティ。今日も早起きだな」
そう言って頭を撫でてやると、ベティはふるる、と鼻を鳴らした。
この家に来てすぐの頃は、いつ噛みつかれるかと怯えながら世話していたが、今となってはこの生き物に家族のような親しみすら感じている。
「あーあ……俺もお前くらい朝に強けりゃなあ……」
そうぼやきながらフォークで床のおが屑をかき集めていると、しばらくして、少し遠くから少女の「おーい」という声が聞こえてきた。
そちらへ顔を向けると、猟銃を抱えたポニーテールの少女の姿があった。
少女はおやっさんの一人娘で、名をアンナという。
彼女の陽の光を反射して煌めく赤髪と、よく透き通った空色の瞳は、禿げ上がっている上にイカつい顔付きのおやっさんとはあまりにも似つかない。
アンナは彼女の母親に似ている、とおやっさんがいつの日か言っていたが、アンナの母は若くして病気で亡くなっているそうで、俺がそれを確かめる術はない。
「こんな早い時間から狩りに行ってたのか?」
「んーん、向こうで銃のメンテナンスしてただけ」
そう言ってアンナは猟銃をつんつん、とつついてみせた。
彼女は銃の名手であり、17歳という若さにして村一番のハンターとして認められている。
そんな彼女のハンターとしての稼ぎと、おやっさんの木こりとしての稼ぎでベイカー家は生計を立てているのだ。
「そんで、なんか用か?」
「あ、そうそう。ナイン、今日は随分と早起きだったんだなーって思って」
俺はアンナのその発言に違和感を覚えた。
いつもならば、この時間帯に起きて来ると、「おそーい!」と言う位であるのに、今日は一体どういった心境の変化なのだろう。
雪でも降るのではないか。
今日はアンナの機嫌がいいのだろう、と雑に結論付けても良かったが、何故かそのままスルーしていい疑問ではない、という気がしてきて、俺は彼女の発言の意図を探ることにした。
「なんだよ……別にいつもとそんなに変わらない時間だろ?」
「え?でも、お向かいのジンさんが2時間くらい前にナインを見たって……」
「えぇ?」
俺の中の違和感は、確かな疑念へと変わった。
そんな時間に外には出ていない上に、俺はついさっきまでしっかりと眠っていた筈だからだ。
自慢にはならないが、俺はおやっさんに起こされでもしない限り、一度寝ればテコでも起きない自信がある。
よって、寝ぼけ半分で歩き回る、なんて可能性も考えられない。
そんな俺が早朝に起きて外に出ている、なんて事は天地がひっくり返っても有り得ないのである。
――いや、天地がひっくり返ったら流石に起きるとは思うが。
「……記憶にないし、俺がそんな時間に起きてくる訳ないだろ」
「自慢げに言われてもねー……まあ、でもナインに限って有り得ないよね」
そんな理由ですんなり納得がいってしまう程に、俺の寝付きの良さと目覚めの悪さには定評があった。
「そうなってくるとジンのじいさんの見間違えじゃあねえの?ボケだボケ」
「うーん、あのジンさんが見間違えるとも思えないんだけど……そうかも?」
アンナのその言葉を最後に、今回の俺の早起き事件(?)についての議論は、ジンの見間違えだった、という結論で終わったが、俺の抱いた違和感はいつまでも胸の中に居座り続けた。
――のちに、この些末な出来事が俺の人生を大きく左右する事になるのだが、この時の俺にそれを知る術は無かった。