九話 強さ
顔を洗い、瓶の水面に映った自分の顔を眺めるフラン。目の下には濃い隈があり、眼の金の輝きはいつもより弱々しく見える。フランはそれを自分の弱気と断じ、振り払うように柄杓を叩きつけた。
顔を拭うこともせずに自室に戻り、服を着替える。家にいると何かに見られている感覚が煩わしいため、戦士鍛錬場へ行くことにしたのだ。戦士鍛錬場でもやはり好奇の視線はあるだろうが、その広さから人が居ない場所を見つけることは容易い。多少は楽だとフランは判断した。
それが間違いだと気づくのに大した時間は掛からなかった。
戦士鍛錬場に入ると途端に集まる好奇の視線。ざわめく群衆。
足早に奥に進もうとしたフランに、にこやかな顔のシルバ教官が気付いた。
「おやおや。もう来なくても良い卒業生が毎日毎日頑張るのう。おぬしらは卒業した。十分に鍛錬したのだ。これ以上多少形を磨いたところでさほど変わらん。必要ないぞ? まあ熱心なのは悪いことではないが」
くっくと喉の奥で笑う。その表情は一見労わるようなものだが、その目はフランを嘲笑っている。
フランは軽い会釈をして通り過ぎた。反論しようと一瞬だけ考えはしたが、舌を動かすまでにその考えを諦めていた。思考の遅さが歯痒かった。
自練円で軽く体をほぐす。昨日一日体を動かしていなかったからかどこか体が重い。関節が軋む感覚が取れない。
周囲に人はいないはずだが、なぜかフランは視線を感じた。見回してみてもやはり誰もいない。フランは頭を振って体を動かす。
無心になって拳を振るっていると、すぐに午前の稽古の時間になった。そのまま一人で体を動かしてもよかったが、一日中ずっとというのは流石に集中が切れる。漫然と体を動かすのは意味がないと考えていたので、迷った末、結局稽古に参加することにした。
フランが踏み入ると再び視線が集まった。フランはそれを無視し、堂々と立つ。
「今日は一対一対人訓練を行う。今日は何故か卒業生が多く来ているようだが、まあ好きにしてもらっていい。参加したいなら参加してくれ」
フランが視線を走らせると、フランの他にも同窓生が来ていた。グレグにサフィにプルト、ケイルもいる。他にも数人。フランはそれを意外に思ったが、彼らと目が合う前に目を逸らした。今は冷静でいられる自信がなかった。
教官は三人。三組に分かれて一対一を続けて行う。フランは適当に、しかし、プルトたちとは別の組に入ろうとした。
そんなフランを見咎める者がいた。それはグレグだった。
「フラン、フランは止めておいた方がいい」
フランは一瞬体を強張らせたが、直ぐに振り返ると真っすぐにグレグの眼を見た。
「なぜ」
「もうすぐ試験なのに怪我の危険を冒してまでやる意味はないよ」
「お前らは」
「僕たちは体を慣らさなきゃいけないんだ。そっちの方が怪我の危険より勝る。分かるだろ、自分の体がどれだけ動くのか、動かせるのか、それを把握しなきゃいけないんだ。……別にフランがサンジュしなかったからって意地悪してるわけじゃないよ。ただ、本当に危ないし、無駄に」
「無駄に、無様を晒す必要はない、か?」
グレグはぐっと息を呑んだ。そして、それ以上何も言わなかった。その沈黙が答えだった。
横からサフィが割って入る。
「そうよ。はっきり言って、今ならフランには負ける気はしないわ。そして、多分やったら怪我させる。だからやめて、フラン」
フランは口を開こうとして、また諦めた。言葉はもやもやと浮かび上がってくるのだが、それが文としてまとまる前に飛散して意味を失ってしまう。いつものことだが、今日は特に顕著だ。
フランは二人との会話を打ち切ると、円の中心へと向かった。
二人が呼び止める声が聞こえるが無視する。口で伝えられないならば体で見せる。フランはいつもそうやって来た。
そんなフランの肩に手が置かれた。
「俺とやろうぜ、フラン」
「ケイル」
そのにやにやとした顔を見る。怪我の痕はもう残っていない。自身に満ちた表情。
「わかった」
フランは頷いた。
相手は誰でもよかった。誰が相手でも負ける気はなかった。例えサンジュを受けたプルトが相手でも逃げる気はなかった。
ケイルはフランが数日前に一方的に叩きのめした相手だ。しかし、フランは油断していなかった。
ずかずかと円に入った二人に教官は呆れ顔だった。一番に乗り込んできたのが卒業生だということに加え、二人が試験を間近に控えていることが大きい。二、三日我慢することもできないのか、とぼやく。
向かい合ったケイルがフランを指さした。
「なあ、フラン。お前サンジュ行かなかったんだってな」
フランは無視する。既に頭は戦闘用に切り替わっている。言葉での揺さぶりは効かない。フランの心は昨日の大失態を突き付けられても欠片も揺らがなかった。
「元々六人でのサンジュ予定だった。お前が抜けた穴に誰が割り当てられたか知っているか? 俺だよ。お前の代わりってのが少し尺だが、まあもうそんなこと気にする必要もない。だってお前は永遠に俺の下だ。もう俺の視界に入ることもなくなる。ああ、清々しいな」
だからフランは極めて冷静だった。そして、冷静だったそのうえで、ケイルの拳をよけきることができなかった。
「無視かよ」
「……ッ!」
なんとかしのぐ。視界が揺れる。見えていた。しかし全く反応ができなかった。まるで教官の拳のような速度だった、
形を変えたわけではない。相変わらずの大振りで、どこを殴るか教えてくれているかのような渾身の拳。だが、速度が段違いだった。フランがそれを受けようと胸元から首元へと手を動かした時点で、ケイルの拳はフランの目の前にあった。フランはそれを首を動かして辛うじて逸らす。それでも頭への衝撃は甚大。
何があったのか、そんな思考をしてしまい、すぐにその理由を把握する。他ならぬケイルがその口で説明してくれていたのだ。
強さが違う。
「遅せぇ!」
連打。防御のことなど一切考えてない連打。フランはまともに防御もできず、何発もの衝撃がその身を打つのを感じる。
ビキッ、と嫌な音がした。どこかの骨に罅でも入ったのかもしれない。集中により速度の低下した世界でフランは分析をする。
眉尻を下げたグレグが、歯を食いしばるサフィが、顔を伏せるプルトが視界に写る。その顔に驚きはない。悲しさはあるが、同情はない。三人は戦士の顔をしていた。
教官の言葉がフランの脳裏によみがえる。
「一時的な強さに意味はない。形を鍛えることは重要だが、それでは不十分だ。心を鍛えるのだ。正しく強い心を持て。さすれば選ばれん。強さを与えるにふさわしいと。そのもの勇士であると。それこそが強さである」
フランの目にはケイルが大きく映った。まるでそれこそが強さだと言わんばかりに。
違う!
フランは心の内で叫び、自分の頭を打とうする腕を巻き込み、踵で足を蹴り、その勢いのままケイルを地面にたたきつける。大の男が宙を舞い、衝撃に地面が凹む。どよめきが湧いた。滅多に見ない技だ。相手がしっかりと踏んでいれば動かせない。虚を突かなければ投げることはできない。そんな珍しい技を投力の低いフランが決めたことに、皆あっけにとられている。
跳ね起きるケイルにフランは無数の拳打を浴びせる。ケイルに身体的な損傷は少ないが、精神的にはその限りではない。フランはその隙にねじ込むように、最短の拳を叩きこむ。
一打、二打と頬に突き刺さり、三打目を防がれ、四打目は腹に。受けられる、すり抜ける、見誤る。連打に次ぐ連打。対応、対応、その対応。
フランは吠え、いきおいのままケイルを地面に叩き伏せた。
「そこまで!」
教官が割入り、ケイルもすぐに起き上がった。ケイルもまだ戦闘の続行は可能だったが、教官が止めに入ったのだから終わりだ。フランは頬に垂れた汗をぬぐい、それが血であることに気付いた。戦闘を止めた理由はケイルではなくフランにあったようだった。
フランはふらふらと端に行き、腰を下ろす。くらくらと揺れる頭をゆっくりと壁に預け、腕で目を隠す。あまりに鬼気迫るその様子に、誰も声をかけることができなかった。
フランは動揺が抑えられなかった。いつかあると考えてはいたが、それが今日だとは考えていなかった。対応しきれなくなっている。その速度に。その強さに。しかも、状況は悪い。もしこのままフランが強さを得ることができなければ、もうそこから追いつくことはできない。自分の中の何かが崩れそうになる。
眼を閉じ息を整えるフランの耳に、周囲の囁きが鮮明に聞こえた。
「やっぱり駄目だ。フランも強さがなきゃ何もできないんだ」
「当たり前だろ。戦うためには強さがいる」
「ケイルの方が強さがある。だからフランは負けた。簡単だ」
「これが普通だ。やっぱりフランはもう駄目だ」
「――けど、戦えてたぜ」
そうだ戦える。頷いたフランの脳裏が次の言葉ですっと冷えた。
「でもフランはサンジュできてないんだろ?」
「どっかでサンジュしたんじゃねーの? 別の場所でさ」
「そう言えば、今朝、暗錬の間でハネモチの死骸が見つかったって。犯人はまだ見つかってないって」
野者からのサンジュは禁止されている。強さの集中の為だ。戦士が職務として行うか、またはその他の特例以外は厳罰を受ける。
視線がフランに集まるのを感じた。実際にはフランは顔を上げていないので、それはただの被害妄想かもしれないが、確かにフランはそれを感じた。
鈍いフランでも流石にわかる。言外に言われているのだ。あいつがやったんじゃないか。そう疑いの目を向けられていることに
無言だった。静かになった。次の戦闘が始まったからだというだけではないだろう。
フランは立ち上がり、その場を離れた。水を飲みたかった。そう誰に向けているかもわからない言い訳を心の中でつぶやいた。
顔を水で洗う。冷たさが気持ち良い。が、同時に鋭い痛みが襲ってきた。切れているのは額だった。
血と土を洗い流す。思わず、生き返る、呟いた。本当だろうか。死んでいたのだろうか。そんなどうでもいいことがフランの頭に浮かんだ。
「フラン」
あり得ない声が背後から響いた。
「……アーナ。君、こんなとこで」
「昨日。なんで行かなかったの」
アーナは無表情で問い詰める。酷く怒っている。フランの目にはそう写った。
「それ、は」
「寝坊? まさか、そんな。あり得ないわよね。で、何があったの」
詰問。怒りだ。はっきりと感じられる。勘違いではない。
しかし、アーナの怒りを和らげるような望みの答えを返すことはできなかった。保身のために嘘を吐くことは、容易くはあるが、難しくもある。フランにとって、いくらか難しさの方が大きい。
「寝坊。起きたら終わってた」
「笑えないわね」
「まあ」
頷くフラン。そんなフランをアーナはしばらく睨み付けていたが、やがて地面に穴を空けようとでもするかのような長いため息を吐いた。
「もっと悲壮感のある表情をしなさいよ」
「悲しいわけじゃない」
「けど面白くないでしょう。笑える状況じゃないでしょう。なのに、どうして」
アーナは頭をがしがしと掻く。髪が乱れるのを止めようとするフランを手で制し、アーナは下を向いたまま言った。
「……頑張りなさい。絶対に諦めないでよ。私が好きなのは強い人なんだから」
フランは頷いた。いくらかアーナの顔が和らぐ。
今なら話を聞いてくれそうだと、フランは質問をした。
「で、なんでここに?」
「フランを殴ってやろうかと思ってたけど、別に必要なさそうだからいいわ。帰る」
「送るよ」
「必要ないわ。そっちの方が問題になるし。じゃあね」
フランの提案をすげなく断ると、アーナはのしのしと音を立てながらナガクスたちの合間へ消えていった。どうやらいつものように裏門から抜け出してきたようだが、昼間に抜け出すのは非常に難しいはずだった。一体どうやったのか、とフランは首をひねった。
何だったんだろうかと切れた額に手を伸ばしたフランは、自分の顔が笑っていることに気付いた。どうやら嬉しいようだが、自分でもその理由は分からなかった。