八話 朝
フランは目を覚ました。
固い机の感触。少し張りを感じる腰。座ったままで寝てしまったからだろう。肩には見知らぬ布が掛けられている。顔を上げると既に周囲はすっかり明るかった。
「……今」
今はいつだ。何の刻だ。
そう思った瞬間、ばくばくと血腑が鳴り始める。血が駆け巡っているはずなのに、全身から血が抜けたような感覚がする。
周囲を見回すと、誰もいなかった。店の入り口は開けっぱなしだ。なんとも不用心な、と思う余裕さえない。フランは入り口に向かって駆けだした。
入口で誰かとぶつかりそうになり、急停止する。そこに居たのは顔を煤で汚した店長だった。
「あら、まだここにいたの」
「まだっ、て。今、今何時ですか!」
「丁度ノボリテンの刻になったくらいね。どうしたの? ああ、何か用事があるんでしたっけ。ごめんなさいね、ちょっと近くで大火事が起きて消火作業に駆り出されてたのよ」
そう言ってふう、と息を吐く動作には疲れが見える。が、フランはもう聞いては居なかった。
すぐに走り出す。向かう先は二区の裏側。定刻通りならばもう始まっているが、少しでも儀式が遅れていれば間に合わなくはない距離だ。それを祈って走るしかなかった。
走る。必死の形相のフランにすれ違う人々は振り返った。何人かにぶつかりそうになるが、最低限のよけ方で半ばぶつかるようにして通り抜ける。何人かは実際に衣服を引っかけて手に持っているものを落としていたが、フランは謝ることもせずに走り続けた。
第二壁を通り抜け、二区へ。そのまま第一壁まで走り、それに沿うように走る。最短経路だ。
教えてもらった番地を思い出し、その家を目指す。今回のサンジュは家で行われる。えてして引退した戦士によるサンジュとはそういうものだが、今回ばかりはそれが嬉しくなかった。ほんの少しの迷いが、家を見つけるための時間が、永遠のように感じられる。
二区の裏側、二十の六番地。屋根を青く塗ったネリト造りの一軒家。
立ち止まり、周囲に視線を走らせ目的の家を探す。道行く人に訊ねることも考えたが、説明に時間がかかると判断し諦める。フランは自分の口下手さをここまで歯がゆく思ったことはなかった。
「ッ……」
見つけた。
フランが息を切らしてその家の前に立つと、扉の前に立っていた男がフランを見て眉を顰めた。
戦士鍛錬場の教官だった。
「フラヌトラ=アーミラ―、か」
「はい、そうです」
大きなため息を吐く。まるで手遅れであるかのように。そんなわけない、あってほしくないと思うフランの想いとは裏腹に、教官は額に深い皺を作った。
「もうサンジュは始まった。これから参加はできない。儀式の中断もだ」
「それは……」
吐きそうになるフランに対し、絞り出すような声で教官は言う。
「何故、何故遅れた。お前にとって、一世一代の好機だったのに。しかし、もう遅い。もう駄目だ。代わりは幾らでもいるのだ。お前は確かに最強ではあったが、そんなもの簡単に移ろうものだ。理解していただろう。まあ、諦めろ。帰るがいい」
頭の中でがんがんと骨と骨を叩きつけあっているような音がする。痛みはない筈なのに、気のせいの筈なのにどこまでも不快な音。
フランは耳を塞ぎそうになる手を抑え、なんとか顔を上げていようとする。息が荒くなるのを抑え、平静を装う。見栄を張ろうだとかそうした思考ではなく、ただ、そうするしかなかった。そうすることしかできなかった。
言葉が思考を通り過ぎていく。
揺らめく雲のようなもので視界が霞む。
フランの脳裏に不意に都合のいい妄想が浮かんだ。
これは全部嘘なのではないか。何かの勘違いで、たまたま会話のようなものが成立してしまっただけで、今日はサンジュの日ではなくて、全然失敗などしていないのではないか。早とちりで、混乱して、傍から見たら意味不明な言動をしているだけではないか。サンジュは明日で、いや、そもそもこれは夢で。そんな都合のいい妄想が。
しかし日付を確かめることはできない。自分の顔を殴ることもできない。
フランは恐怖を感じた。
気づけば家の中から物音が聞こえてきた。人が会話をする音。扉を開ける音。
儀式が終わったのだ。
玄関の扉が開いて列になって人々が出てきた。戦闘に立っていたのはグレグで、その次がプルト、次がサフィ。
グレグはフランに気付くと、紅潮させた顔を強張らせ唾をのむ。そして、口を開きかけ、また閉じた。後ろに続くサフィも、プルトも同じだ。他の人も同じ。
少しだけ熱を帯びた空気が凍り付いた。
フランは踵を返すとふらふらと歩き出した。何も言わずに家に向かって歩き出した。
背後で物音がしたが、フランは振り返ることはできなかった。明確に呼び止められたわけではなかったし、もう全部終わってしまったことだ。そう思ったらなぜか首を動かすことができなくなった。振り返ることができなくなった。
フランは大きく息を吐き、無理矢理思考を切り替える。
挽回することはできるのだろうか。きっとできるはずだ。
できないかもしれない。強さを得ることは易しいが易しくはない。
フランは強く頭を振った。足が自然と早まる。
家に帰ると、アドラが玄関に立っていた。
「フラン、昨晩はどこに行ってた? 今日はサンジュがあったんだろう。大事なサンジュだろう。行ったんだろうな? 逃げてないだろうな」
フランは顔を伏せ、首を横に振った。それを見てアドラは息をのむ。
「どういうことだ? 本当に行ってないわけじゃないだろうな? そこまで馬鹿じゃないだろうな」
フランはアドラを押しのけて家に入った。
「おかえりなさい、フラン。サンジュはどうだった?」
笑顔で話しかけてくるアリアの横を無言ですり抜ける。
アリアは訝しげな表情になり、フランの強さを見て眼を見開いた。
「フラン、あなた……」
戸惑うようなアリアの声がフランの背に向けられるが、フランは真っすぐに自分の部屋へ向かった。何故か浮き上がりそうになった右手を左手で抑えながら。
自分の部屋に入り、乱暴に戸を閉め、寝台に倒れこんだ。そのはずみで踵を打った。鈍い痛みが襲うが、それに反応するほどの元気はなかった。
長いため息。この短い間で一生分のため息を吐いた気がした。
フランは自分に言い聞かせた。落ち着け、落ち着け。いくらサンジュをしたからと言って、複数人で受けたならば増える強さは一人当たり三か四。まだ戦いにならないほど差がついたわけではない。そう自分に言い聞かせて気持ちを落ち着かせる。それが多分に希望的観測の混じったものであることからは目を逸らす。重要なのはどのくらい強くなったかではなく、選ばれ与えられたという事実であるから目を逸らす。
なぜ寝てしまったのか。なぜ帰らなかったのか。そもそもなぜ夜に家を抜け出したのか。なぜ我慢できなかったのか。なぜなぜなぜ。そんな公開がフランを包み込んだ。
浅くなる呼吸を意志の力で深く。
突き立てたくなる爪を握りこむ。
とりあえず寝たかった。逃避だとはわかっていても、何も考えたくなかった。
フランはその日はもう寝台から出ることができなかった。