七話 サンジュ
目が覚め、準備をする。そして、玄関の扉を出た時、もう戦士鍛錬場に通う必要はないことに気付いた。季節が替わった時点でフランたちはもう卒業している。特に式などはしていないのは、これは終わりではなく始まりなのだということを忘れさせないため、別れの挨拶などをあえてしないようにしているためだ。なので、十年間毎日通い続けていた戦士鍛錬場に行く必要はない。
しかし、フランは止めた足を再び動かし始めた。別に戦士鍛錬場に行くことを禁止されているわけではない。怪我をしていて静養が必要なわけではなく、また、体調を整えるのに戦士鍛錬場以上の場所はない。
明日はサンジュ。明々後日に試験。家にいても気が滅入るだけ。精神を整えるのだ。
フランが道場に行くと、少しばかりざわついていた。
「どうかしたのか?」
「あ……それが、その……」
フランは付近にいた下級生に話しかけるが、なぜか目を逸らされた。怖がられているのかと思ったが、どうやら少し雰囲気が違う。
問い詰めようか迷っていると、同級生のイリエが横から口を挟んだ。
「盗難があったんだ、今犯人を探している」
きつい口調だった。それはイリエがフランを嫌っているからというだけではなく、イリエがケイルと仲が良いからというだけではなく、もっと別の意味を含んでいた。
「昨日お前、何時にここを出た?」
フランは顔をしかめた。あまりにも直截的で気分が悪くなる問いだった。
「俺がやったと?」
「遅くまで残っていた奴には全員に聞いている。お前だけに聞いてるわけじゃない。ああ、違うな、訂正する。お前は例外だ。残ってたかどうかは知らないが、どうせ遅くまで残ってたんだろう。なんせお前は来なくていいのに鍛錬場に来るくらいここか好きみたいだからな」
お前こそ、と言おうとして、フランはその言葉を飲みこんだ。どうせ口喧嘩では勝てない。
「ヨナレの刻。丁度鐘が鳴ったくらいだ」
「ずいぶん遅いな。今まで聞いた中では一番遅い」
「そうかもな」
白々しい、とイリエは呟いた。なんとも毒がこもっている。
「盗まれたのはケイルの拳帯だ」
ケイルの拳帯は上質なものだった。オオグチの最も硬い背中の皮膚を丁寧になめして張り合わせたものだ。ボロボロに擦り切れたお古であるフランのものと比べると天と地ほどの差もある。それを羨ましいと思っていなかったと言ったらウソになるが、そんなものを盗むほどフランは馬鹿ではなかった。
「そうか。俺は知らない。もういいか?」
「犯人捜しを手伝う気はないのか?」
「そんなことをしている暇はない。お前もそうだろう。イリエ」
「襤褸を出すのが怖いか」
「戦士としての本分はなんだ? 三日後には試験がある」
それに集中しろとフランは言外に言った。悠々と
イリエは何か言おうとしたが、口を噤む。それに満足したフランはその場を去ろうとした。
しかし、背後でイリエが呟いた言葉にフランは足を止めた。
「調子に乗んなよ。どうせまた吐くんだから」
さっとフランの血の気が失せる。いや、血が頭に上る。どちらかわからない。とにかく思考がまともに働かなくなった。耳奥で血腑の音が響く。手は無意識に拳を作っていた。
畳み掛けるようにイリエは吐き捨てる。
「知ってるぜ、俺たちは。お前がそんなに強さがない理由。サンジュが怖いんだろ。前も吐いていたもんな。選ばれたからって、偉そうにしても無駄だ。どうせ失敗する。また失敗する!」
フランは振り返った。視界が少し見にくい。まるで砂嵐が流れているみたいだ。
「どうした? 図星か? 人のことを気にしている余裕なんてあるのか? 明日はお前にとっては好機かもしれないけどな、同時に危機でもあるんだぜ。天へ向かう階段は狭いんだ。失敗したら上はすぐにお前を見捨てる。絶対だ。知ってる。お前だってわかってるだろ、フラン!」
大きく息を吸う。怒鳴りそうになる喉を無理やり抑え込み、フランはそれを飲み下す。
苦い思い出が明瞭に襲いかかってきた。
それはフランが八つの時のことだった。フランの戦士としての素養が認められ、鍛練場に通い始めたころのことだった。
一人の戦士によるサンジュが行われることになった。戦士は罪人だった。戦場で逃亡したのだ。戦士として最も重い罪を犯した男であり、通常であれば名誉あるサンジュを行うことはありえなかったが、王による温情からサンジュを行うことを許可された。その強さを未来に託すために。対象はフランたち、戦士の卵からえらばれた。丁度ハユウが育ち切り、戦力が安定していた時期だったため、時代の戦士を育てている余裕があったのだ。
しかし、名誉あるサンジュを行う戦士にとっても、それを受ける子供たちにとっても、その儀式は良くない結果となった。戦士は死にたくなかったから戦場から逃げ出したのであり、戦士にとっては戦場で野者に食われることもサンジュの儀式で子供たちに貪られるのも、どちらも大した差はなかった。戦士は暴れた。封印官により体中を封じ込められながらも、腕を振りまわし、足をばたつかせ、びくびくと痙攣するように腰で跳ね、血走った眼で子供たちを睨みつけながら、呪詛の言葉を吐いて暴れた。フランたちはどうしたか。簡単だ。大人たちに言われるままに嫌々口を開き、男の喉笛に食らいついた。
血と絶叫。少し歯ごたえのある皮膚の舌に弾力のある肉がつまっていて、噛み千切るにはそれなりに力を籠めなければならない。犬歯は鋭く食い込むが、筋や管や絡み合っていて一息にともいかない。それでもどうにか食いちぎると、ぴゅっぴゅっと血が顔に飛び散り、生臭い呼吸が喉から吹き出て来て、何とも言えないえぐみが鼻を突く。そして、それを飲みこもうとして気づく。憎しみの籠った男の目に。その絶叫の持つ意味に。
フランは吐いた。いや、フランだけではなかった。何人もの子供が怯え、泣き、儀式は中断しかけた。中断しなかったのは大人たちがそうしようと決めたからだ。誰もそんなことはしたくなかった。当事者である戦士と子供たちの誰もが。しかし、儀式は続けられ、無事終わった。
何故大人達か儀式を止めなかったのか。理由は単純。そんなことはよくあることだったからだ。そんなことは問題ないのだ。初めてサンジュをする子供は皆似たような反応をするらしい。その証拠にそれを切っ掛けに戦士を目指すのをやめた子供はいなかった。フランのようにサンジュが苦手になった子供もいなかった。皆翌日にはけろっとした顔で道場に顔を出し、普段のように稽古を続けた。
フラン以外は。
肉を噛む感触、血と胃液の混ざった悪臭、死を恐れ自分を憎む人による怨嗟の声。
それらすべてがフランは嫌だった。
あれ以来フランは人からのサンジュをしていない。それで十分だったから。いや、それで十分であろうと努力し、その努力が実っていたからだ。だからわからない。自分がその儀式を前にした時どういった反応をするのかわからない。再びサンジュをすることになり、それが差す意味を理解した時こそ喜んでいたがサンジュという行為自体に関しては何も考えていなかった。目を逸らしていた。考えないようにしていた。そのつけが今現れている。眠れない。落ち着かない。
家に帰り、身を清めても変わらなかった。むしろ、暗い部屋で一人寝具にくるまれていくと、どうしようもなく思い出してしまう。
名はフラン。真名はフラヌトラ・アーミラー。血名はフラヌトラ・ハルヅ・アーミラー。同期の中では最も短い血名は、明日少しだけ長くなる。
フランはどうしようもなくなり、夜、家を抜け出した。
「フラン」
しかし、足音を殺して門を出たところで暗闇から声を掛けられた。気配を感じなかったことに驚き、警戒しながら動きを止める。闇に慣れた目が捕えたのは、よく知る黒髪の少年、プルトだった。
「……どうしたんだ、こんな時間に」
「それは俺の台詞だ、と言いたいところだけど、まあ大体予想はついてる。どうせ明日のことで緊張して眠れなくてどこかで体動かそうとしてんだろ? で、俺はそれを予想してフランが無茶しないように見張りに来たってわけ。こんな時間にな」
そう言って肩を竦めた。ずばり言い当てられたフランは居心地悪そうに目を逸らす。
「別に叱りに来たわけじゃない。サンジュが好きじゃないってのはわからないこともないからな。ただ、なんとなくほっとけないんだ、フランは強いのに不安定だからな。なんとなく心配でな」
「……心配、か」
フランとプルトは友人だ。少なくともフランはそう思っている。しかし、これからは友人である以上に競争相手となり、それは限りなく敵に近い味方といっても過言ではない。そんな相手を心配するプルトに、フランは苦笑して見せた。
プルトはにっと笑うと、フランを手招きした。
「来いよ。多少気がまぎれるだろうからさ」
「鍛練場か?」
「違う違う。本当に遊びが足りないよな。フランは」
フランは不思議そうな顔をしながらもプルトについていった。プルトはフランとは違い先頭を歩くのが得意だ。こうして後ろをついて行くものに不安を与えないのは、長として適性が在るということなのだろう。
第二壁を超えて三区へ。普段一区で過ごしているプルトがこうした雑多な場所に詳しいことをフランは意外に感じたが、プルトが言うようにフランは自分の生活が乾燥していることは自覚している。そのため、
そうしてしばらく歩き、たどり着いたのは小さな水屋だった。
暖簾をくぐり慣れた様子で入店するプルトにフランは恐る恐るついて行く。
「よっ、店長」
「おや、プルトのぼっちゃん。また随分遅い時間に。ご友人もいつもと違う様子で」
「こいつ堅物だからさ、ちょっと悪いこと教えてやろうと思って。奥の席借りるよ」
「どうぞどうぞ」
じろじろと観察されるフラン。居心地の悪さは感じるが、その視線もすぐにそらされるた
店内はガラガラだった。フランとプルトの他には二、三人がちまちまと青水を舐めているだけ。これで商売になるのかとフランは不思議に思ったが、口に出すことはしない。
青水は飲んだものに軽い酩酊感を与えるもので、飲めば痛覚と恐怖心を消す紫水を濾して薄めたものだ。飲むこと自体は禁止されてはいないが、堕落の元と呼び忌み嫌う戦士も多い。フランも普段ならば顔をしかめてしかめるのだが、あまりにも緩い場の空気に毒気を抜かれた。
最奥の席に座った二人に店長は水を運び、その後二人に注文を聞くこともせずに受付に戻った。
「驚いたか」
「多少は。なんというか、プルトっぽくないな」
「こんなごみごみしたところってか?」
「……まあ、そうだな」
「お世辞でも否定しとけ。店長がこっち睨んでる」
フランは店長の様子を窺ったが、二人の方をちらりとも見ていなかった。正面を見るとにやりとプルトが笑っていた。どうやら冗談らしい。
「で、なんでこんなところに」
「こんなところ?」
「こんなところに連れてきたんだ?」
フランはまだプルトの意図がわからなかった。こうして二人で水屋に来るのは初めてだった。しかし、水屋に来ているのに特別な水を頼んだわけでもない。表情を見るに、ここに来た時点である程度満足しているようにも見える。何か話したいことがあるのだろうか。
水を口に含み、ゆっくりと嚥下したプルトは、肩を竦めた。
「道場でぶっ倒れるまで体動かして、明日来れなくなったりしたら大変だろ。だから気分転換できる場所に連れてきた。それだけ。ここは、まあ、確かにきれいなところじゃないけど、だらだら居座っても文句言われないし、店長はそれなりに愚痴聞いてくれるから、悪いところじゃない」
フランは言葉に詰まった。プルトが離していたようなことになっていた可能性がないかと言われれば、そうは言いきれない。そんなことまで見透かされているのか、と自分自身に呆れる。
プルトは手元の水に目を落とした。そして、少し気恥ずかしそうに語る。
「俺はさ、フランは凄い奴だと思ってる。強くて、芯を持っている。他人に流されず、前へ進み続ける。凄い奴だ。きっとハユウになれるくらい、凄い奴だと思ってる。だからさ。こんな、つまらないことで躓いて欲しくないんだ。そう思ったら居ても立っても居られなくて」
「やめてくれ」
「恥ずかしがるなよ。俺の方が恥ずかしくなるだろ」
二人は同時に水を口に含んだ。そして、同時に呑み下す。見事に同じ動きをしてしまい、フランは思わず頬を緩めてしまった。
「お、やっと表情が少し柔らかくなったな。緊張しっぱなしはよくない。よくないぜ」
「元々こんな顔だ」
「はっ、そうかもな」
そして、二人は少しの間くだらない話をした。教官の家庭の事情。この地方には住まない妙な夜叉。隣国の戦士の階級。一番やる気のある後輩。だらだらと取り留めなく話をした。
時折店長が近くに来ては、話に混ざっていく。客が少ないからこそできることだろうが、やはりフランは採算が取れているのか不思議に思ってしまう。それを言うと店長は渋い顔をして、なんとなるさとはぐらかした。
時折客が入り、それと同じ程度の頻度で出ていく。ガラガラの店は静かだったが、フランにとっては存外に居心地がよかった。
そうしてどれくらい離しただろうか。プルトが眠そうに欠伸をした。かなり眠たそうだ。当然だ。そろそろ月も登りきる、ヨイノヨイの刻。フランも普段なら眠っている時間だ。
そう考えていると急に眠気が襲ってきた。同様らしいプルトが頭を振って立ち上がる。
「すまん、帰るわ。フランも明日は遅れないようにな」
「ああ……俺も」
フランは立ち上がろうとして、また座り込んでしまう。どうにも眠たい。
「おいおい、帰る途中に道端で寝たりするなよ」
「大丈夫だ」
「明日遅れたら罰金だからな。店長、会計ー」
プルトが財布を取り出し、じゃらじゃらと代金を払った。店長がそれを受け取る様子をフランはみて、また欠伸を一つ。
駄目だ、眠たい。フランは立ち上がろうとし、椅子に座り込んだ。
「フラン、起きろ。おい。肩貸すぞ」
「いい。歩ける」
「起きろー。おーい。……駄目か。店長。朝になったら起こしてやって。明日は大事な用があるから。俺もフランも」
「はいはい」
フランは眠りに落ちた。