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三六話 対話

 指を弱弱しく動かし、フランの手の平をそっとなぞり。

 その女はルーと名乗った。

 ルーは限界まで衰弱していたため暫くの間起き上がることはできなかった。また、喉が裂けていたためしゃべることもできなかった。丸二日通して歌い続けたことによって痛めつけられた体は、回復に至るまで一つの季節を必要とした。

 しかし、ルーは死ぬことはなかった。フランの願いが大いなる巨人に届いたのか、はたまた別の理由か、その頬は血色よく、まだ胸は規則正しく動いている。

 起き上がれるようになり、更に一つの季節が立つ頃には、ルーは声も取り戻した。以前と比べるとややかすれ気味ではあるが、会話には問題ない。以前と全く同じとは言えないが、歌を歌うこともできる。

「あと一日頑張れば、巨人歌を歌いきれたんですけどね」

 フランが無言で悲しそうな顔をしたのを見て、ルーは慌てて両手を振る。

「冗談ですよ」

「当たり前だ」

「あ、けど、そもそもフランさんがあんなに高いところに行かなきゃ私が無駄に頑張る必要はなかったんですよ。反省してください」

「すまない」

「二度としないでくださいね」

「わかってる」

 素直に頷くフランに、ルーはくすりと笑った。そして、満足そうに背伸びをする。

 水は豊富にある。立派ではないが家もある。食事もしようと思えばできる。危険はない。

 二人は穏やかに日々を過ごした。

「フランさん」

 ある日、ルーがフランに話しかけた。その真剣な表情にフランは身構えるが、発せられた問いは簡素な物だった。

「フランさんのことを聞かせてもらえませんか?」

「俺の?」

「はい」

 なんで、とフランは不思議そうな顔をする。だが、自己紹介すらまともにしていないことを思い出し、フランは自分の間抜けさに呆れた。

「俺の名はフラン。真名はフラヌトラ・アーミラー。血名は、フラヌトラ・ハルヅ・ウロス・アーミラー。アドリアフ・アーミラーの息子。姉が一人、弟が一人いる。ヌルハの国で生まれ、ヌルハの国で育った」

 そうしたことは苦手だったはずだったが、フランの予想に反して言葉はすらすらと出てきた。おそらくそれは、そこに思考が必要ないからだろう。ただ自分の経験を、過去を、順に思い出し、話せばいいだけだからだろう。嘘は必要なく、隠すべきことももうない。

 ルーが非常に聞き上手だったこともあるのかもしれないが、フランはそれらを淀みなく語ることができた。

 順風満帆な日々。研鑽を積む毎日。

 唐突な裏切り。挫折と苦悩。

 忍耐と努力。死闘に次ぐ死闘。

 そして、それらの結果として与えられた絶望。

「国のために死ねと言われて、俺は悔しくて悲しかった。その覚悟はあったはずなのに、悲しくて仕方なかった。認めてもらえたと思ったそれが嘘で、俺の全部を否定されたような気がした。強くあろうとした心まで否定されて、悲しかった。すごく」

 少し声が震えてしまった。フランは言葉を切り深呼吸する。少しでも戦士らしくあるために、瞬きをし、ルーの眼を正面から見る。

「だから逃げたんだ。誰もいないところに。誰にも否定されないところに」

 そこがここだった。この、メンセンの犇めく孤独な家だった。

 ルーは立ち上がると、フランの頭を胸に抱き寄せた。フランはその動作を見ていたというのに、避けることができなかった。

 フランはルーの胸に顔をうずめたまま、精一杯落ち着いた声を出そうとする。

「……大丈夫だ。慰めは必要ない。俺はもう」

「私がこうしたいんです」

 無理矢理引きはがすことは簡単にできる。強く拒否すれば言葉でだってやめさせることはできただろう。しかし、フランは優しく髪を梳くその手から離れることはできない。抗えない誘惑というものがあることを久しぶりに実感した。

 ぽつりとルーが呟く。

「逆干渉で、心まで癒せたらいいのに」

 何と言っていいのかわからず、フランは返事をし損ねた。咄嗟に気の利いた言葉をかけることができない。口下手なことが歯痒いのも、やはり久々の感覚。

 フランはある諺を思い出し、呟いた。それはヌルハの古い言葉で、今はほぼ使われていない諺だった。

「足りぬは片割れのみ」

「すみません、なんて言いましたか? 私の知らない熟語みたいです」

「あやされている子供みたいで少し気恥ずかしいからやめて欲しい。嬉しくないわけではないんだが」

「あ、すみません。私ったら」

 ルーはフランからパッと離れる。その顔は羞恥で真っ赤に染まっていた。

「嬉しくないわけではない」

「そ、そうですか」

 仏頂面でそう言うフランに、ルーは照れ臭そうにはにかんだ。

 それから、二人はよくしゃべった。フランにはもう隠すべきことはなく、ルーもそれは同じだった。気軽に質問をし、堂々と答える。必要な情報も、くだらない雑談も、自分たちの身の上話も、それとはまったく関係のない話も、思いつくままに会話した。

 穏やかな日々だった。

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