三五話 願い
フランはずっと考えていた。
誓いと約束の違いはなんなのだろうと。
しかし、その答えを掴んだ気がした瞬間、フランは目を覚ましてしまった。掴んだ気がした答えは意識をすり抜けて霧散する。どれだけ追ってももう手に入れることはできないという確信だけが残る。
フランはゆっくりと身を起こした。
空は赤い。
フランが目を閉じる前の景色と変わらない景色。
血と砂の匂いがする。
そのどちらも何度も何度も嗅いできた臭いだ。
生きている。
少しの気だるさと、鈍い頭痛。
そんな事実すべてに、フランは違和感を憶える。
フランが目を閉じる時のそれは、死へと落ちる眠りだったはずだ。胸に空いた穴から止めどなく血が流れ、体は冷え、鼓動は弱まる。砂へ還る過程。それを感じていた。しかし、フランはまだ生きている。全く理由が分からない。
ふと気づいて胸に触れると、傷がなくなっていた。誰かが治したのだろうか、と考え、馬鹿らしいとフランは一蹴した。ここへは誰も来れないのだ。高く、狭い、岩の柱の頂上。カナリアを名乗っていた女もここへは来れない。事実、見回しても誰もいない。だから誰かが治すということはあり得ない、とフランは結論付けた。
しかし、だとすると分からない。フランの存在強度がいくら高くとも、傷が勝手に塞がるほどではない。だとしたら傷が塞がった原因があるはずだ。ぼんやりとフランは考える。
暫くの間呆けていると、フランは歌が聞こえることに気付いた。掠れた声の歌。がらがら声の歌。老人が呻くような、しかし、不思議と引き付けられる美しい歌。それが遠くから響いてきている。
そして、フランは気づく。歌を聞いていると痛みが消えていくことに。針で突かれているような胸の痛みが、ゆっくりとゆっくりと和らいでいくことに。
逆干渉?
フランは頭に浮かんだその言葉を振り払う。触れないで行える逆干渉など聞いたことがない。そんな物はないはずだった。
しかし、その歌を聞いているとやはり痛みが薄れていく。力が湧いてくる。それは逆干渉を受けているときの感覚と同じだ。
一つの考えがよぎった。声による広域干渉はできる人は多い。フランもできる。では、逆干渉を声によって流すこともできたりするのだろうか。そう思い至った。つまりは、歌を媒介とした逆干渉。広域逆干渉。
なくはないかもしれない、と思い、フランは愕然とした。
広域逆干渉などというものがあるならば、遠くにいる誰かを癒すことができるのだろう。しかし直干渉と広域干渉では、後者の方が干渉力が弱まるのが普通だ。逆干渉だとしても、それは同じだろうことは想像できる。フランの傷は通常の逆干渉であっても癒すことが難しいほどの重傷だった。であれば、広域逆干渉ならば更に治すことは困難なはずだ。しかし、フランの傷は痕が微かに残る程度まで癒されている。
どれだけの広域干渉を受けたのか?
今は、いつだ?
彼女はどれほどの間歌い続けている?
フランは歌の元へ飛んだ。そこには蹲る人影があった。
女はフランが近寄っても微動だにせず、膝をつき、手を胸に押し当て、赦しを請うように頭を垂れ、歌っている。震えるように息を吸い、もがくように息を吐き、絞り出すように歌を歌っている。
「××××――」
女は咳き込み地面に血を吐く。
「××××――」
しかし、歌うことは止めない。途切れ途切れになりながらも、決して止めることはしない。
フランは女の肩に手を置き、顔を起こさせた。それは動揺のあまり酷く乱暴な動作だったが、フランにそれを顧みる余裕はなかった。
眉間に皺を寄せ、顎を血で濡らしている女は、朦朧とした様子でゆっくりと目を見開く。
「フラン、さ、ん?」
そして、まるでフランが生きていることを喜んでいるかのように、満足そうに微笑んだ。
「ああ、よかった」
フランの頭は固いもので殴られたかのように痺れる。
なんともない筈なのに、喉を締め付けられたように息ができない。
「なんで」
あえぐように言葉が漏れ出ると、もう止まらなかった。濁流の様に、堰を切ったように、次々と言葉が溢れ出す。
「なんでなんだ! なんで俺を助けた! 俺みたいなどうしようもない奴を! 俺は何もできないんだ! 壊すことしかできない! 何も掴めない! 何も守れない! お前が頑張ってまで助けることなんてあるはずない! お前のそれは無駄だ! 無意味なんだ! 俺は、俺には! なんにもないのに!」
眼前で怒鳴りつけられても女の笑みが消えることはなかった。
砂が零れるような声量で、ゆっくりとフランに語り掛ける。
「私たちを、助けてくれました」
「違う! 助けられてない! 助けられなかった!」
「いいえ。救われました。私も、ジル様も」
「意味がない! 意味がないんだ! 俺は何もやり遂げられてない! 結局俺の手で壊した!」
「きっと、それは仕方ないことです。だって、元から壊れていたんですから」
「駄目なんだ! だって――」
女はフランの頬に触れ、フランの言葉を押しとどめる。そして、フランの頬に流れる涙をそっと拭った。
「それに、ほら」
紫色の目がフランを射すくめる。
「私は、生きてます。あなたのお陰で、生きています、よ」
それだけ言うと、女はゆっくりと二度頷き眼を閉じた。フランの頬に触れている手から力が抜けて、力なく地面に落ちる。
フランの喉から咆哮のような悲鳴が漏れた。
「あ、ああ。あああ。やめろ、やめてくれ。死ぬな。死ぬな! 死なないでくれ!」
フランは女を掻き抱いた。まるでそうしないと女が崩れて消えてしまうかのように。必死にその細い体を抱きしめた。
「頼む! 頼むから! 死なないでくれ! お前が死んだら、俺は! 俺は……!」
女が返事をすることはなかった。
自分の爪が手のひらに食い込むほどに、フランは拳を握り締めた。
獲得の章、終わりです。
次、闘争の章。




