三三話 過去
カナリアは無言で床に座り込んでいる。ジルが家を飛び出してから半刻ほど経つが、いまだに立ち上がる気配はない。
フランは気にしていないように見せようといつも通り寝台に寝転がり、先ほどのことについて問いかける機会を窺うが、カナリアは顔を伏せたまま全く動く気配がない。フランが何度寝返りを打とうが同様。気絶しているのかと疑うほどだったが、その割には座ったまま微動だにしない。
ついに我慢ができなくなったフランが口を開こうとしたとき、カナリアは唐突に告げた。
「今日、私たちはここを出て行こうと思います」
フランは押し黙った。続きを促したのではなく、単純に何と言ってよいのかわからなかっただけだが。
「突然で済みません。ご迷惑をおかけしました。当初の約束通り、三日も居座らせていただきありがとうございます」
「別に……構わない」
フランはそう返すのが精いっぱいだった。
つい先ほどまでこうなることも予想していたのだ。いくら最低限生きるだけの環境はあるとはいえ、不便は不便である。何もない場所なのだから、三日でもやることはなくなるだろう。赤の他人を含めて三人で同じ家に住むのにも嫌悪感はあるはずだ。だからこうなることは分かっていた。しかし、あまりにも唐突過ぎた。先ほどの出来事に関して何にも言及がないのも不気味だ。だからか、フランの口は思考を飛び越して勝手に動いていた。
「君は、カナリア姫だろう。ズムグスタの国の」
「違います」
カナリアは即答する。強い口調に、自然とフランも語気を強めてしまう。
「名前が一緒だ」
「違いますよ」
「輝毛紫瞳の姫、と言ったら有名だ」
「違いますって」
カナリアは振り向いた。その顔は酷く悲しそうな笑みが張り付いていた。
「どうしました? 急に私たちに興味でも湧きましたか?」
ぐっとフランは言葉に詰まる。フランは散々二人に対して興味のない素振りをしていた。どうでもよいのだという態度を取っていた。それゆえに、ここでそれを肯定するだけの度量がフランにはなかった。
カナリアは長椅子に腰かけると、そのままだらしなく横になった。酷く億劫そうな動作で、先ほどまでの凛とした態度は欠片も感じられなかった。
「……意地の悪い言い方をしてすみません。ですが、私はカナリア姫ではありません。世の中にカナリアって名前の女の子はたくさんいますよ。たまたま金の髪で紫の眼をしていたとしても、たまたまです。たまたま」
ふふっと力なく笑うカナリア。顔に掛かる髪を一房抓み、軽く振ってみせる。
「ジルの持つ剣は、ズムグスタの国宝、コトキリの剣だろう。折れず曲がらずあらゆるものを断つ、白く輝く刃を持つ剣。剣の持つ干渉力でわかる。本物だ」
「よくご存じですね。まるで、ズムグスタの戦士と戦うことを想定している、ヌルハの戦士のようです」
ちくりと刺すような牽制にフランは怯んだ。これ以上の話をするならば、そちらの懐にも踏み込むという意思表示だった。人の腹を探るなら、探られても文句を言うな。カナリアの眼はそう告げていた。
カナリアは力なく自分の指先に視線を落とすと、気だるそうに言った。
「フランさんこそ、何者ですか? 誰がどう見てもただ物じゃないですよ。強さが一〇〇〇を超えるメンセンを小石を蹴飛ばすかのようにあしらって、歴戦の戦士であるジルに稽古をつけるかのように相手する。それがこんな世捨て人のような、いや、世捨て人なんでしょうか。それだけの強さを――フランさんは」
一拍。
「ハユウなんですか?」
「違う」
フランは叫んだつもりはなかった。広域干渉をしたわけでもない。しかし、びりびりと大気が震え、転がっていた椅子の破片がからからと転がってもなお、カナリアは黙らなかった。
「知ってます。だって、ヌルハのハユウは不在ですから。アヤミに罹っただとか、他国に遠征中だとか、怪我をして療養中だとか、様々な噂が各所に流れていますが、一つだけはっきりしていることがあります。ヌルハにはハユウが居ないということです。ヌルハはそう認識しているし、ズムグスタもミギルサもそう認識している。ヌルハにはハユウが居ないなら、ヌルハ人のフランさんはハユウじゃないのでしょう。簡単なことです。いないんだから、違うんです」
言葉遊びのようにカナリアはまくし立てる。声色こそ静かではあるが、その奥には激しい感情が込められている。
「フランさんも話したくないでしょう。わかります。話したくないことは誰にだってあります。思い出すことさえしたくない。そんなこと、たくさん。私たちもそうです。だからこの話はもうおしまいです。ですよね?」
フランは何も言い返すことができなかった。相手のことを知りたいなら、自分のことを話さなければならない。それは当然だ。そして、自分のことを話すならば、自分の過去から話さなければ始まらない。それはつまり過去の失敗を、恥をさらけ出すということであって、思い出すことさえ拒絶したいフランからすれば、それは非常に困難なことだった。
しかし。
頭痛がする。激痛。苦悶。身を引き裂きたくなるような恥辱。
頭痛がする。拍手の音。蔑む視線。大扉の向こうへと遠ざかる背中。
フランは。
どれだけ頭が割れそうなほど痛んでも、黙っていることはできなかった。癪だった。悔しかった。負けたくなかった。耐えられなかった。我慢ができない。我慢ができない。我慢ができないのだ。
二人のことを知りたい。そう強く思ってしまった。
また、逃げるのか。フランの耳元で誰かが囁いた。
フランはもう、我慢ができなかった。
「ヌルハのハユウは死んだ。人型のコゲツキと相打ちだった。その様子だと次代のハユウまだ決まっていないんだろう」
カナリアはぎょっと顔を上げた。フランの口から出た言葉が信じられなかった。
ハユウは存在だけで脅威となる国防の要だ。例え戦で相手の国を滅ぼそうとも、相手の国のハユウが生きてさえすれば逆に国を滅ぼされる可能性がある。その事実こそが戦を避けさせ、国同士の均衡状態を保っている。そんなハユウが居ないということを他国に知らせるなどと、どうぞ攻め込んでくださいと言っているようなものだった。
しかし、フランは意に介さずに言葉を続ける。
「俺はただの罪人だ。ハユウが相打つ場に居合わせて偶々サンジュした。そして、その強さを別の物へ渡せという王命に背いて逃げ出した。それだけだ」
「だから、なんですか」
「会った日に居た連中、見たことのない紋章だった。しかし、喋っているのはズムグスタ語だった。剣も持っていた。ということはズムグスタ人。それも国に所属する正規の戦士ではない、あるいは国と敵対するような組織に所属する戦士だ。お前はそんな連中に狙われているという。それもズムグスタ最高の戦士に守られながら」
「だから、何が」
「他国の言葉であるヌルハ語を流量に話す高い教養。深手の戦士を数日で治す逆干渉力。戦士にしては無駄が多い。しかし、商人にしてはあまりにも上品すぎる」
「……だから」
「その首飾り。気に入っているのかは知らないが、特徴的な文様をしたその首飾りは、ヌルハでもごく一部の店でしか売っていないものだ。以前カナリア姫がヌルハに交遊に来た時にお忍びで勝ったものとよく似ている」
「だから」
「だから君はカナリア姫だ」
カナリアの反応はなかった。あまりの反応の無さに聞いていないのかと思ったが、フランがカナリアの方を見るとしっかりと目が合った。
フランは目を逸らさずに続ける。
「ジルも見たことがある。七年ほど前、ヌルハとズムグスタの合同演習。その時から将来を嘱望されていた剣の使い手だ。ズムグスタはヌルハと同じく、最強の戦士が姫を娶る慣習がある」
二人はじっと見つめあった。まるで先に目を逸らした方が負けだとでも言わんばかりに、真っすぐに見つめ合う。
「別に、知ったからと言って何をするわけでもない。ただ知りたいんだ。二人のことを」
カナリアはゆっくりと自分の肩を抱いた。そして、まるで寒くてたまらない子供の様に膝を折り体を縮こませる。
そのままの姿勢でカナリアがぽつりと何かを呟いた。それはズムグスタ語であり、嘆くような、照れるような、不思議な響きを持った言葉だった。
カナリアはゆっくりと身を起こし、自分の頬を両手で揉みほぐす。そして、気持ちばかり乱れた髪を整えると、訥々と語り始めた。
「そうです。ジル様はカナリア姫の恋人です。正式に婚約されていたわけではありませんが、近い将来そうなっていたことでしょう」
フランは頷く。予想通りだった。
しかし、続く言葉にフランは唖然とした。
「そして、私は違います。私はカナリア姫ではありません。私はカナリア姫の盾のうちの一人です。カナリア姫――姫様はもう亡くなっています」
カナリアが顔をフランの方へ向けた。暗い目をしていた。暗い笑みを浮かべていた。それはフランが何度か見たことがある、全てを諦めた人間の表情だった。
「ズムグスタは五年ほど前から王家と軍部の対立が深まっていました。私は盾としての役割を兼ねるただの侍女ですので、詳しい原因はよくわかりません。ミギルサに敗戦したことが尾を引いているだとか、王家の贅沢により財政が圧迫されているだとか、噂は漏れ聞きましたが。まあとにかく王家に対する不満が高まっていたそうです。そして、不幸なことに今代のハユウは少々素行が悪く、軍部からの信頼が厚くありませんでした。なので、あの事件が起きました。軍部から離反した勢力による王宮の襲撃です。
「その日は、私は朝から体調が悪く、休暇を取り王宮の医務室で寝ていました。昼間からぐうたら寝ていることに背徳感とそれとない快感を感じながら、しかし、明日の仕事のことを頭の片隅で微かに考えながら、寝台の中で微睡んでいました。何気ない一日でした。いつも通りではなくとも、平和な一日でした。本当にいつも通りだったんです。ぴゅうと頭の芯を射抜くような、甲高い警笛の音を聞くまでは。警笛は衛兵が常備しているもので、鳴らすのは非常時であると決まっていて、鳴らされた時にとる行動も決められています。侍女は専用の隠し部屋に逃げ込むこと。それができない場合は近場の物置などに身を隠すこと。医務室からは隠し部屋は遠かったため、私は医務室の薬品棚に身を隠しました。不安と焦燥を感じながらも、まだその時点では大ごとにはならないだろうと信じてました。警笛が鳴らされたのは一年振りで、前回鳴らされた時は小型のハネモチが王宮に入り込んでしまっただけで、前々回も、その前も、全然大したことはなくて、なので、私は信じてました。今度もまたすぐに解決するだろう。きっとすぐに衛兵が走り回って、元の仕事に戻るように告げて回るのだろうと。そう楽観していました。
「それが間違いであると気づいたのはすぐでした。廊下から悲鳴が聞こえてきました。何かが壊れる音も聞こえてきました。断続的に、しかし、決して止むことはなく、大きく重い音が、女性のものも混じった悲鳴が、廊下を響き渡ってくるのです。私は怖くて震えていました。何もできませんでした。ただ祈っていました。何もないよう。ただ私の好きな人たちが無事であるようにと。しかし、暗闇の中で必死に手足を縮こませて息を押し殺していると、不思議と何かをしなければならないという義務感が湧いてきました。なので、私は姫様のことを考えました。姫様の今日のご予定を思い出し、王宮の構造を思い出し、警笛の鳴った方角を思い出し、姫様に危害が及んでいないかどうかを考えました。その結果、私は姫様は大丈夫だろうという推論にたどり着きました。だって、今日は王家の人間とハユウと軍部のお歴々が王宮に集まっている日なのですから。もしそんな状況で姫様に何かあるようなら、この国は終わりだろうと、そう考えました。そう結論付けた私の耳に一際太く大きい叫び声が聞こえてきました。聞き覚えのある声でした。ハユウのものでした。まるで瀕死の重傷を負ってしまった人間が痛みに耐えかねてあげた悲鳴のようでした。私の頭は真っ白になりました。気付けば私は薬品棚どころか医務室を飛び出し、姫様のいるであろう会議室へ走っていました。
「途中、剣を携えた戦士の集団がいる部屋の前を通りました。そこに居た戦士たちはどこか見覚えがありつつも、ズムグスタ戦士団の紋章はつけていませんでした。すぐには敵なのか味方なのかわかりませんでした。しかし、会話を聞いているとすぐにわかりました。その者たちが元々ズムグスタの戦士であること。今は違うこと。王宮を襲撃した張本人であること。既に大部分の制圧が完了――侍女たちまで含めて皆殺しにされていること。それらが漏れ聞こえる会話からわかりました。私はかちかちと音を立てそうになる歯を必死で食いしばり、その場から去りました。音を立てないように、見つからないように。ひょっこりと部屋から男が顔を出し、私のことを見る。そんな場面を想像し、恐怖しながらその場を去りました。そして、再び姫様の元へ走りました。
「いつの間にか悲鳴は止んでいました。何かが壊れる音もしていません。私は嫌な想像を頭から振り払いながら走りました。会議室にはすぐに付きます。入り口には首から上のない二人の衛兵が倒れていました。赤い絨毯が血でさらに赤く染まって、赤い扉に血が巻き散らされていました。そっと扉を開けて中の様子を窺います。恐怖は感じていませんでした。そうした感覚は麻痺していました。中は血の海で、あちらこちらにどこかしらが欠けた人間がたくさんたくさん転がっていて、その中心に居たのは、血に濡れた姫様を抱えるジル様でした。
「私は姫様に駆け寄りました。そして、治そうとしました。しかし駄目でした。もう既に亡くなられていたのです。ジル様は半狂乱でした。右手に王家の象徴である宝剣を握り、左手に姫様を抱きかかえ、ずっとずっと姫様に呼びかけてました。何度も何度も、カナリア、カナリア、カナリア、カナリアと。そして、どれほどその名を叫んだでしょうか、ジル様は不意に私を見ると、嘘のような笑顔で言ったのです。ああ、カナリア、そこにいたのか、と。
「私は違うとは言えませんでした。言ったが最後、ジル様の心が壊れてしまいそうで言うことができませんでした。いえ、その時点で既にジル様の心は壊れてしまっていたのかもしれません。しかし、言えませんでした。その代りに私はこう言いました。ええ、ジル。私はここにいるわ。けれどここは危険だわ。早く二人で逃げましょう。
「私は姫様がどれだけジル様を愛していたかを知っています。姫様ならば、きっとジル様に生き延びて欲しいと考えると思いました。自分の敵討ちなど考えず、ただひたすらに逃げて欲しい。そう思うと。なので、私はジル様を欺き、その場から逃がしたのです。けれど、それはきっとただの言い訳です。私がその時姫様の振りをしたのは、そうすればわたしか生き延びることができるだろうという打算があったからです。ええ、きっとありました。私は自分の命を守るために、ジル様の乱れた心を利用したのです」
淡々と、淡々と。カナリアと呼ばれていた女は語った。フランは一切口を挟むことができず、ただただ聞き入るだけだった。
圧倒され、何も言えないフランの目の前で女は吐き捨てる。
「なんと醜く汚らわしい行為でしょうか」
そんなことはない、と言うことはフランにはできなかった。フランにはそれが正しいとも間違っているとも判断できなかったからだ。そもそもフランの頭は新しく入って来た情報を整理するのに精いっぱいで、思考までたどり着けていなかった。
女は寂しそうに微笑んだ。
「しかし、報いはすぐそこにあります。ジル様ももう目を覚ましかけています。先ほどだって、ほら。私が姫様じゃないとすぐに気づいたでしょう? 私たちを見分けることができるのは、私たち以外にはジル様ぐらいですけど、ジル様ならば一目で気づきます。だから、目を覚ましさえすれば、すぐに気づいて、それで終わりです」
終わり。それが死か、またはそれに非常に近いものを示していることはフランにもわかった。
「……ジルがああなっている理由は、なんとなくわかった。だが、なんで今だ? なんで今出ていく」
フランはゆっくりと思考を巡らし、現状を理解し、そして先ほどまでの行動に結びつける。おおよそは理解できた。しかし理解できないこともある。どうしても過去を踏まえての現状とこれからの女の行動を結びつけることができなかった。
「ジルがそれに気づきかけて居る。で、それに気づいたら耐えられないとして。なぜ今ここを出るんだ? 今出て言ったらまずいだろう。さっきみたいなことがあっても、誰もジルを止められないし、お前を守らない。ここを離れるとだ」
フランは唾をのみ、躊躇いつつも、自分の考えを口にした。
「死ぬぞ」
女は微笑みを崩さなかった。
「それでいいというのか?」
女は首肯する。
「死ぬんだぞ」




