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三〇話 ジル

 フランは昼間のことを思い出す。タイショ、トクス、ママナラ。すべてフランが知らない野者だ。フランはここに三年も住んでいたというのに、ここを知りつくした気でいたというのに、まだ見知らぬ野者がいたことに驚きを隠せない。カナリアに何故知っていたのかと問うと、いそうだと思ったから探してみただけだと答えた。その答えを聞いた時、フランの胸はざわつき、少し気分が悪くなった。理由はわからなかった。

 夜になったが、まだ眠気は感じない。昼間からほぼずっと寝ていたのだから当然だが、それでも苦痛は苦痛だ。非常に苦痛だった。フランは眠れなかった。

 カナリアとジルも床につき、静寂の時間が始まる。フランは無意識に息をひそめて寝たふりをする。そうする必要も意味もないはずだが、音を立ててはいけないと強く感じてしまった。だからフランは身動ぎもせず、衣服がこすれる音さえ立てない。

 そうしてどれほど過ごしただろうか。全員が寝たであろう頃を見計らったのか、カナリアが起き上がる気配がした。どうやらまた逆干渉を夜通しするらしかった。

「治るか?」

 気付けばフランは話しかけていた。深く考えたわけではなく、口が勝手に動いていた。

「……命に問題はありません。ただ、少しでも早く完全に傷を塞がないといけないので」

「そうか」

 昨夜とは違い、それから会話が続くことはなかった。それをフランは少し残念に思い、残念に思ったことによってそれを期待していたことに気付いた。会話が続けば熟睡できるかもしれないと期待していたのだ。まるで母親に寝物語を期待する幼子のように。フランは身悶えしそうになるのをなんとかこらえ、身をじっと強張らせた。

 カナリアがジルの体を優しくなでる音がする。強く触れてしまえばジルが起きてしまうため、指先が微かに掠めるように優しく、優しく。

 衣擦れ。微かな吐息。長椅子が軋み。それ以外の物音のしない、静かな夜だった。

 ぼやけた五観の残る浅い微睡み。

 眠たいのに眠たくないという矛盾。

 結局それはいつもと変わらない、と諦めかけたフランの耳に、小さな鼻歌が聞こえてきた。カナリアが歌っているようだった。幻かもしれないとも思ったが、時折入る囁くような歌にはフランの知らない言葉が入っていた。フランはジルが起きると忠告しようとしたが、重たい口を開く僅かな間に眠ってしまっていた。

 翌日、フランが目を覚ますともうジルは起きていた。甲斐甲斐しい手当のおかげか、ジルはもう普通に動けるようになっているようだった。

「体調は良さそうだな」

 フランはつい話しかけてしまう。慌てて半身を起こし頭を振るが、どうにもだるさは抜けない。やはり熟睡してしまったらしく、覚醒に時間がかかっているせいだと判断した。

 しかし、そんなフランにジルはにっこりと笑うと、たどたどしいヌルハ語で礼を言った。

「感謝。驚異」

「俺は何もしてない。カナリアに言え。夜通し逆干渉をしていた」

「逆干渉……? 不知。言葉。××××」

「すまん。何を言っているかわからん」

 やはり流暢に話せるというわけではないようだった。意思疎通は何とかできそうだが、会話にはずれがある。フランは早々に投げ、カナリアが起きるのを待つことにした。

 そうしているとすぐにカナリアも起きる。カナリアは自分が長椅子で寝ていることに気付くと跳ね起き、ジルが元気そうに立ち上がっているところを見て胸を撫でおろした。

「おはようございます、フランさん

。あら、ジル、××××」

「××××」

「××××」

「××××」

 どうやら体調や怪我の具合に関して話しているようだったが、詳しい内容はフランには分らなかった。フランはどうでもよさそうに立ち上がると、メンセンを蹴散らすために出口へ向かう。

 しかし、そんなフランをジルが呼び止めた。フランが振り返ると、にっこりと笑うジルと目が合った。

「礼。感謝。××××」

「別に、いい」

 次にジルがとった行動は非常に不可解な物だった。地面に置いてあった剣を取ると、その切っ先をフランに向けたのだ。

 慌てるカナリアを制止し、ジルはフランを見据える。

「フラン。××××。手合わせ。勝負。怪我、なし。××××」

「フランさん、ジルはあなたの実力を測りたいと言っています。怪我はしないように剣を鞘から抜くことはしないようです。しかし……」

 カナリアは困ったように交互に二人を見た後、早口でジルを諫めているようだったが、ジルが退く気配はなかった。ジルは真っすぐにフランを見つめ、剣を掲げている。

 フランは意味が分からず、不思議そうに質問した。

「必要あるのか?」

「心、××××、えー、××××? 力? ××××、拳」

 言いたいことがあるようだが、先ほどより更に翻訳するのが難しいようで、まともに伝わってこない。抽象的な概念の話も混じっているようで、カナリアも翻訳に悩んでいるようだった。

 面倒になったフランはなんとか翻訳しようとするカナリアを手で制し、家の外を顎で示した。

「わかった。やろう」

「感謝」

 カナリアはそれでも尚何かを言おうとしていたが、結局諦め口を噤んだ。

 フランは表に出ると、適当にメンセンを蹴散らした。フラン一人の時であればこうも頻繁に蹴散らす必要はなかったが、寝ているだけのフランと違ってカナリアやジルは表に出たりもするだろうし、何よりこれから戦うのだ。十分に動くことのできる空間を確保する必要がある。

 フランが振り返ると、ジルは既に剣を構えていた。宣言通り、剣を鞘から抜いてはいない。

 お互いに目を合わせ、頷く。それが戦いの合図だった。

 ジルが剣を手に飛び込む。非常に速い。一流の戦士、シン隊の戦士にも遜色のない速度だ。そして、手にする剣を振るう。鞘こそ付けたままだが、まともに受けたら昏倒してもおかしくはない一撃。こちらもやはり速い。しかし、最も恐るべきはその速度ではなく、動きの流麗さだった。言い換えれば、動作の洗練の度合い。まるでその剣を振るうために体ができているかのように、全ての関節が連動して動いている。この一撃を避けることができる戦士はヌルハにも数えるほどにしかいないだろう。

 しかし、それに対するのはフランだ。ハユウとシユラからサンジュし、三年間メンセンを殺し続けてきたフラン。強さではジルに対して圧倒的に分がある。そして、動作の最適化。これもフランは負けてはいない。それこそがフランの生きる道だとひたすらに形を洗練されてきたフランの体もまた、拳を繰り出すため、蹴りを繰り出すための体だ。

 フランは剣の腹をなぞるようにして一撃をはじく。そのまま最速で拳を繰り出す。辛うじて躱したジルは驚きに目を見開く。

 驚嘆と納得。その両方を表情に浮かべながら、ジルは再び剣を振るう。しかし、やはり同じ。もし鞘が抜かれていても問題ないように剣の腹を弾かれ、今度は避けきれなかった拳が眼前で寸止めされる。

 斬りかかり、弾かれ、手刀が首筋で止まる。

 斬りかかり、躱され、貫き手が胸の中心を指す。

 流れるような剣戟を水のように受け流し、鋭く伸びる拳がぴたりと止まる。それは演舞のようで、師弟の指導のようでもあった。

 永遠に続くように思えたそれは、やがて火が消えるように収まった。

 フランの胸の内にあったのは驚愕だった。フランはジルのことを取るに足らない戦士だと思っていた。剣という武器を持って尚怪我をし、挙句に女に庇われる始末。どうせ大した戦士ではないと高を括っていた。しかし、それは誤りだった。その形の練度はフランに勝るとも劣らず、強さも十分に一流の戦士。ハユウに比肩しうると言っても過言ではない強さだった。

 そして、驚愕を抱いていたのはジルも同様だった。フランの強さが高いことは分かりつつも、万全の自分ならばそう簡単に敗れはしないと信じていた。それだけの自負を持っていた。しかし、自信満々に喧嘩を売った結果がこれだ。まるで子供があしらわれるかのように相手にもされていない。所詮強さだけ高いヌルハの戦士。ジルはフランをそう見下していた己を恥じた。

「××××」

 褒められたのだろう。言葉の全くわからないフランでもそう感じられるほど、表情から、声音から、惜しみない称賛があふれている。フランも同じ気持ちだった。フランは心の中で惜しみない称賛を送っていた。

 フランは気づけば右手を差し出していた。その手をジルが握る。

「フラヌトラ・アーミラー」

「ジル・グリオ・ヴェルガトルサ」

 自然と名を名乗っていた。紛れもない敬意が口を動かしていた。

 二人は向かい合ったままどかっと地面に座る。

「愕然。私、慢心。剣、無意味。強い。速い」

「俺の方こそ甘く見ていた。瀕死で女に抱えられていた男がここまでの戦士とは」

 全く見る目がない、とフランは自嘲する。

「ヌルハ人、強い、硬い、逞しい。荒い、雑。フラン、違う。流麗。××××、繊細」

「だろう。ジルの方こそ、随分と洗練された形だ。俺と同じくらい。いや、馬鹿にしているわけでも、自慢してるわけでもない。ただ、俺は、形稽古をしている戦士がヌルハには少なくてな。俺以外にここまで形を極めようとしている戦士が、いるとは思っていなかった」

「皆目指す。剣使う、必要。強さ、小、形、大。自分一番。××××。うむむ。フラン一番」

「そうとも言いきれない。形の練度は大して変わらないだろう。今回の試合の結果は俺の方が強さがあったから俺が勝った。そんなもの」

 フランはくっと笑ってしまった。

「そんなものは別に誇るものじゃない」

 それは本心から出た言葉だった。昔から思っていたことだった。しかし、昔のフランの場合、それはただの負け惜しみにしかならなかった。今の自分にとってはどうだろうか。驕りだろうかか。違うとは言い切れない。ジルからしてもあまり気分が良い言葉ではないだろう。フランはそう思いつつも、我慢できずに言葉にしてしまった。何故なら、それは紛れもなく本気で思っていたことだったからだ。

 ジルはその言葉を肯定しなかったが、否定もしなかった。ただ、そういう考え方もあるのかとでも言うように、フランの言葉に耳を傾けていた。その態度は非常に珍しく、フランにとって意外な物だった。

「強さ。凄い、技も、××××、あー」

「技?」

「××××、籠める。干渉力。技」

「……寄せのことか?」

「寄せ! 実在。驚き」

「ひょっとして、ズムグスタにはそうした技があるのか? 一般的だったりするのか」

「一般、無い。無い。奥義。珍しい」

「そうか。珍しいか」

 急に打ち解け、楽しそうに話を弾ませる二人に置いていかれたカナリアはやや面白くなさそうにしていたが、やがて何か思いついたのか家の中に入っていった。フランとジルは気づかずに会話を続ける。

「加える、それ以上。以外。フラン、凄い」

「それ以外? 何かあったか」

「形、異なる。私、剣、勝つため。フラン、技、負けないため。私、弱い、勝つ。強い、負ける。フラン、弱い、勝つ、強い、戦う。勝負、不明。強い。凄い」

 ジルの目がフランの心を見透かすようにじっと見据えた。その言葉にフランは言葉が詰まった。

 それはフランが常に考えていたことだった。しかし、技を鍛えてもそれができるかの確証は得られず、言葉にしたとて誰かの同意を得られるとも思えず、胸の奥にしまい込んでいた考えだった。

「わかるか?」

「理解。当然。技、強く。強さ、強く。技、見えず。強さ、見る。強さ、求められ、強者、決まる。技、弱者」

 フランは息ができなくなったが、辛くはない。鼻の奥が痛んだが、不快ではない。

 強いものに勝つための技。強さにあらがうための技。そんなことを口にすると、誰もが笑うだろうと思っていた。すぐに否定されるだろうと思っていた。だから誰にも言ったことがない。友人にも、家族にも、誰にも打。しかし、この青年は、目の前の異国の青年はそれを理解するという。それがフランはどこまでも嬉しかった。

「私、求める。到達できない」

「そんなことはない!」

 ジルは頭を掻く。お世辞だと受け取ったのかもしれないが、フランの心からの言葉だった。

 話題を変えるようにジルは片手を挙げる。

「フラン、強い。理由。目的。私、カナリア。守るため。フラン?」

 途端に、すっとフランの体の芯が冷える。先ほどまでの喜びが一瞬で心から消え、全身に冷たい針を刺されたような感覚に襲われる。

 頭の中で誰かの声が囁く。

 なんにもない。

 フランは唾を飲み込むと、喘ぐようにしてなんとか口を開いた。

「俺は――」

 二人の耳に柔らかく澄んだ音が飛び込んできた。いつの間にか二人の横にはカナリアが座っていた。

 手にしているのは楽器のようだった。半月状の椅子の破片に細い弦が通してあり、それを爪ではじいて音を出している。

「どうですか、これ。急ごしらえの××××にしては良いと思いませんか?」

「楽器か」

「そうです。ちょちょちょっと作ってみました」

 カナリアは自慢するようにそれを両手で掲げた。フランは元の形状を知っているわけでないので見た目に関して評価はできなかったが、鳴らされた音はとても綺麗だと感じた。

 何かを思いついたのか、ジルがカナリアに話しかける。それを聞くとカナリアも顔を明るくし、何度も頷いた。そして、カナリアは気合を入れるように袖を捲ると、手にした楽器で曲を奏で始めた。

 ぽん、とジルが跳ね起き、そのままくるくると踊りだす。剣をすらりと鞘から抜き、太陽の光を反射させながら踊る。軽やかな足取りに、弧を描く腕。表情はとても愉快そうであり、時折する跳躍は躍動感にあふれている。

 フランは困惑した。フランが敬意を抱くほどの戦士が、まるで道化のように踊っている。カナリアも手にしている楽器は即席だろうに、その巧みさは詩人のようだ。この二人がそうした類の仕事をしていたわけがないのに、本職だと言われても信じてしまいそうな芸だった。

 曲が一段落して動きを緩めた二人に、フランは上ずった声で問いかけた。

「お、踊るのか」

「踊る」

「戦士だろ?」

「戦士? 戦士、踊る。商人、踊る。王、踊る。当たり前」

 ジルは不思議そうな顔してそう言うと、再び踊り始める。それは慣れていて、楽しそうであり、自分の意思で、踊りたいから踊っているのだということが伝わってくる。

「楽しいですよ。フランさんも適当に踊ってみては?」

 カナリアもそう言って笑う。

 二人はとても軽やかだった、とても自由だった。眩しいほどに。

 フランの中で何かが崩れていく感覚がするが、それは決して嫌な感覚ではなかった。

 フランは少しの間の後、苦笑しながら言った。

「いや、いい。見てるだけでいい」

 それは誘いを断る言葉だったが、二人は気を悪くした様子もなく、そのまま奏で、踊る。

 しかし、唐突に音楽が途切れた。見るとカナリアが手を抑えていた。弦に血がついている。弦で指先を切ったのだ。

 フランは慌てて立ち上がるが、それ以上にジルが劇的な反応を見せた。

「××××!」

 ジルは火がついたようにカナリアに駆け寄ると、その肩を抑え、手を見つめる。カナリアは圧されたように何かを言うが、ジルがそれを聞いている様子はない。何かを立て続けにまくし立て、威嚇でもするかのようにカナリアへ怒鳴る。

 見かねたフランは話しかけようとし、踏みとどまった。ジルから殺気を感じたからだ。ジルはまるで近づけば斬るとでも言わんばかりに、全方位に対して殺気を飛ばしている。

 豹変。そう言っても決して過言ではない。先ほどまでに陽気に踊っていた男が、今は手負いの野者のように殺気を振りまいている。

「××××」

「××××!」

「××××、××××」

「××××!」

 カナリアは必死に何かを言い聞かせているようだった。しかし、ジルは強い声でそれを遮り、怪我の様子を食い入るように見つめる。

 そうして場が緊迫した空気で固まり、どれほどたっただろうか。フランが痺れを切らしそうになった頃、漸く怪我が大したことないことに気付いたのか、ジルは落ち着いた様子でフランに話しかけてきた。

「フラン、薬? ない」

「その程度、逆干渉で治るだろう」

「願う。治療」

「自分でさせろ」

「? 逆干渉?」

 どうにも話が噛み合わなかった。フランはカナリアに通訳を求めようとしたが、カナリアはやや顔を伏せた状態で押し黙っている。

「カナリア」

 フランがカナリアに声をかけた途端、ぐらりとカナリアの体が揺らいだ。そして、そのままジルの体に力なく体を委ねた。


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