二八話 会話
女はぽかんと口を開いて呆気に取られている。何が起きたのか理解できていなかった。水中から急に飛び出してきた野者に食べられそうになっていたはずだが、気づけば野者は横たわりぴくりとも動かず、目の前には燃えるような髪をした大男が立っている。
「……メンセンのいない場所は危険だ。メンセンより強い野者がいる」
フランはそう言って、死んだ野者をメンセンの方へ投げ捨てた。放置してシロチが大量に湧くのも、泉の水が汚れるのも面倒だった。フランの目論見通り、死骸は目覚めたメンセンがすぐに片づけてくれた。
少しの間女は呆けた顔をしていたが、はっと女は我に返ると抱えていた男をそっと地面に横たえ、フランに向き直った。
「今のは、その」
「丸いの、と呼んでる。名前は知らない。水中に棲んでる野者だ」
「いえ、そうではなくて」
女は慌てて手を振ると、地面に両膝をつき姿勢を正した。それがズムグスタで最上級の礼を伝える時の姿勢であることはフランも知っていた。
「助けてくださり、ありがとうございます。前回はお礼を言いそびれていました。申し訳ありません。慌てていたとはいえ命の恩人にとる態度ではなかったこと、伏してお詫び申し上げます」
真っすぐ自分の方を見てくる紫の瞳から逃げるように、フランは目を背けた。
「別に、助けたわけじゃない」
その言葉に無理があることはすぐに気づいた。しかし、何故か素直に礼を受け取る気にはなれなかった。
「水を飲みに来たらお前らがいた。邪魔な野者をどかしただけだ」
すらすらと嘘が出てくることに驚く。それによって全く罪悪感がわかないこともフランの驚きを大きくしている。嘘は唾棄すべきものであり、嘘を吐くことは苦手だったはずであるのに、そんなことどうでもいいとすら感じているのだ。
女は不思議そうな顔をしている。紫色の瞳に嘘を見抜かれているようでとても居心地が悪かった。
フランはたまらず踵を返した。それに対して女は慌てて声をかける。
「待ってください」
「……なんだ」
「非常に図々しいことを承知でお願いします。わたしたちを二、三日の間、あなたの家に置いてもらえませんか? 一日でもいいんです。見ての通りこの人は怪我をしていて、まともに動くことができません。お礼は致します。できることならなんでも」
フランは反射的に断りそうになるのをぐっと抑えた。激しい拒否感を無理やり抑え込んだ。もし断れば一時の安寧は得られるだろう。しかし、またすぐに眠れないと呻き続けることになるのは目に見えている。
フランは自分に問いかけた。ここに何をしに来たのか。簡単なことだ。助けに来たのだ。自分にはなんだってできると証明しに来た。自分は強く、自分には価値があるのだと、示しに来たのだ。こんな漠然とした、正体のわからない拒否感に巻けるわけにはいかなかった。
「……三日だ」
「え?」
「三日経ったら出ていけ。そこの男の傷が治っていなくても。三日」
それが肯定を意味しているのだと気づくと、女は顔をぱあっと輝かせる。安堵と喜びの入り混じった笑顔に対し、フランは思わず目を逸らした。フランがした行動は自分の醜い顕示欲を満たすための行動であり、この二人の力になりたいと思ってしたわけではないのだ。そこまで無邪気な笑顔を向けられても、どうしてよいか分からなかった。
「ありがとうございます!」
「いい。ついてこい」
再び最上級の礼をして見せる女に背を向け、フランは気絶したままの男を無造作に担ぎ上げた。そして、振り返ることもせずに足早に泉を離れる。
女も慌てて立ち上がると、フランに追いすがり声をかけた。
「あの」
「お前も運んでほしいのか?」
「いえ、そうではなく、その、ジルは怪我をしているので、もう少し、その。傷が開いてしまうと」
「こいつは戦士だろう。我慢させろ」
女は何か言いたげだったが、結局何も言わずにフランの後に付き従った。
二人は黙々と歩く。フランが口を開くことは勿論なく、女も何かを問いかけるようなことはしなかった。周囲のメンセンがざわざわとざわめく中、月に照らされた薄暗い小道とも呼べない道を、粛々と歩いた。
やがて少し開けたところに到着した。広場の中央には家がある。ラウローラ造りの天幕型の家。フランが三年前に作った手作りの家だ。多少形が崩れているが、昼間あれほど乱暴に扱われたのだから当然のことだろう。
フランはジルを家の前に下ろすと、周囲のメンセンに向かって一振りの蹴りを放った。広域干渉によってなぎ倒されたメンセンたちは共食いをはじめ、やにわに広場は騒がしくなるが、フランは気にせず家の形を整えた。
女は一連の動作の意味が分からなかったが、家の周囲の空き地が少し広くなっていることに気付いた。メンセンたちを共食いさせたかったのではなくて、広場を少し拡げたかったのだろうか。そんな女の疑問に答えるように、フランは頷きながら呟いた。
「これで朝まで持つ」
満足し家に入ろうとするフランを、しかし女は呼び止めた。振り返るフランの眼をまっすぐに見つめ、女は今日幾度目かの願いを口にする。
「ジルだけでも泊まらせていただけませんか。椅子か何かで構いません。私は外で寝ます。図々しいお願いだとは承知していますが、どうか、どうか」
深々と頭を下げる女に、フランは一瞬言葉が詰まった。自分の無力さを自覚したうえで、ここまで堂々とした態度をとることができる理由がわからなかった。媚びているのとは違う。同情を誘っているのともまた違う。毅然とした態度で、しかし真摯に、真っすぐにフランへ願いを口にするのだ。
フランはそれを断ることができなかった。
「……好きにすればいい」
「ありがとうございます」
女は男を抱え上げ、静々とフランの家に入る。そして、少しの間立ち止まって家の中を眺めた。
狭い家だ。一つの寝台と一脚の長椅子。壊れた椅子の残骸。後は二人の人間が立っているだけでもう空いた空間はない。天井も低く、フランが背伸びをしたら手が天井に引っかかってしまう。フランはこの家で不便を感じたことはなかったが、たとえあったとしても、野者の骨格をそのまま骨組みとした家ゆえに、これ以上大きくすることはできない。
女は気絶している男を長椅子に寝かせ、その脇にちょこんと座った。長椅子は何かが乗るたびにぎしぎしと悲鳴を上げたが、幸いなことに足が折れたりすることはなく、女はほっと溜息を吐く。
フランはそんな女を気にせず寝台に寝ころび、すぐに寝息を立て始めた。
女はこれから事が始まるのではないかと覚悟していたので、フランが寝始めたのを見て拍子抜けした気分になった。同時に、安心と羞恥で顔を赤くする。なんでもするとは言ったものの、フランから何かを要求されたわけではないのに、相手がそうしたことを要求してくると決めつけていた。その思考に羞恥し、フランを勝手に見積もっていたことを羞恥し、自分の身に何もなかったことに安堵し、改めて今生きていることに安堵した。
女は目じりに浮かんだ涙をこすりつつ、フランが完全に寝入るまで待った。
それから半刻ほどたっただろうか。女はフランが寝たと判断し、物音を立てないように男の怪我を確認した。幸いなことに、男の傷は大きいが内臓には届いていなかった。出血は既に止めているので、一晩かけて逆干渉をかければ命の危険はないように見える。女は胸を撫でおろすと、男の傷口に触れ、逆干渉を行った。
しかし、女がゆっくりと撫でさすっていると、なんとなくフランが起きているような気がしてきた。もしそうであれば、隠す意味もない。そう開き直り、女はフランに話しかけてみた。
「あの、お名前を伺ってよろしいでしょうか」
フランは身じろぎした。女は起きていると確信する。
「言いたくないのでしたら構いません。なんとお呼びすれば良いかだけ教えていただけませんか?」
ざわざわとメンセンがざわついた。群生地にまた何かが迷い込んだのだろうか、とフランは思考を逃がそうとしたが、ざわつきはすぐに消える。
やはり寝ていたのかと女が錯覚するほどの時間の後、フランは答えた。
「……フラン」
「フラン様ですね」
「様は要らない」
「では、フランさん、とお呼びさせていただきます」
フランの返事はなかった。女はそれを許可と判断することにした。
「フランさんはなぜこのような場所に?」
「大した理由はない」
「まだ若いのにお強いですね」
「そうか」
「この家具は手作りですか?」
「店売りには見えないだろ」
女はくすくすと笑う。フランとしては冗談を言ったつもりではなく、ともすれば馬鹿にしているとも取れる笑いだったが、不思議と気分が悪くなることはなかった。非常に穏やかな声だった。とても今日死にかけたとは思えないほどに。
それから、女は訥々と質問をした。女としては眠気を紛らわすためだけのもので、反応がなければすぐに止めるつもりだったが、フランが律儀に答え続けたため、それは長く長く続いた。
「そちらの服も」
「作った」
「メンセンの皮には見えませんが……」
「丸いのの腹だ。さっきの野者だ」
「あれが。道理で見ないと思いました」
「ここ以外では、いない」
「海の方にはいるかもしれませんね」
「知らない」
「行ったことありますか?」
「ない」
「行きたいと思いますか?」
「別に」
「綺麗ですよ」
「そうか」
「薄緑色で、半透明で、空の光を反射して、それがどこまでも続いてるんです」
「そうか」
「いつか行ってみてください」
「行くかはわからない」
「そうですか。どこか行ってみたいところはありますか?」
「ない」
「見てみたいものとか」
「ない」
「好きな場所とかありますか?」
「質問の意味がわからない」
「ほら、高いところが好きとか、ナガクスの陰が好きとか、せせらぎの聞こえる川辺が好きとか」
「……静かなところが好きだ」
「なるほど。じゃあ北の方は良いかもしれません。雪が降った日の夜は――雪って知ってますか?」
「知らない」
「寒いと雨が凍って降ってくるんです。白くて綺麗なんですよ」
「知ってる」
「どっちですか?」
「知ってる」
「見たことあります?」
「ない」
「じゃあ一度北に行ってみてください。月の出てる日の夜は、積もった雪がきらきら光って綺麗で、雪が音を吸うのでとても静かなんです」
「そうか」
「寒いですけど」
「それは好きじゃない」
「好きな食べ物はありますか?」
「ない」
「そう言えば、ここってなんでこんなにメンセンが集まっているんでしょうね」
「知らない」
「何かメンセンが好むものがあるんでしょうか」
「……そうかもな」
「何か知ってますか?」
「答える気はない」
「正直ですね」
「嘘は悪だ」
「××××」
「……?」
「歌詞です。音楽は好きですか?」
「好きじゃない。嫌いでもない」
「私は大好きです」
「そうか」
「歌を歌うのはいいですよ。どうしようもなく叫びたいときとか、歌を歌うと気が紛れます」
「叫べばいい」
「確かにそうですけど。ただ叫ぶのも芸がないとは思いませんか?」
「芸が必要か?」
「ええと、慣用表現で、ヌルハ語で言うと」
「いい」
「あっ、はい。まあ音楽はいいですよ。体にいいです」
「気休めだ」
「心と体はつながっています。心が休まるということは、体にもいいんです」
「そんなわけがない」
「そんなわけあるんです」
「そうか」
「面倒くさくなりましたか」
「ああ」
「すみません」
「謝る必要はない」
「この家、雨の日はどうしてますか?」
「どうもしない」
「雨漏りとか」
「問題ない」
「なるほど。濡れるのは平気ですか」
「平気だ」
「まあフランさんくらい強ければそうですよね」
「問題ない」
「××××」
「歌うとそいつが起きるぞ」
「すみません」
「俺は、別に」
「フランさんは逆干渉を使えますか?」
「使えない」
「そうですか。よくわかりませんね」
「方法が分からない。寄せられない」
「寄せ?」
「なんでもない」
「まあ本当に人によるみたいですね。私もなんで使えるのかわかりません」
「そうか」
「そうです」
「そういうこともある」
いつまでも続くかのようなだらだらとした会話の中、いつしかフランは眠りに落ちていた。どこからが夢だったのか判別できないほど自然に、穏やかに眠りについた。だから、フランはその光景が現実かどうかはわからなかった。女が悲しそうに泣いている姿を横になったまま眺めているという光景が、夢だったのか現だったのか。フランには判断できなかった。




