表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/26

 前回での失敗を踏まえ、大介は集団のなかで独演会をやるような方法は現実的ではないという結論に至り、自分の意見に同意を求める者でも、見据える先がいくつもあって、発言の仕方は多角的であることを疎かにしてしまったのは、あの会見で知らぬうちに自己陶酔に落ちていたからで、その原因は見知らぬ連中を相手に議論をすることに力が入り過ぎていた為に、追求してやりたい感情を抑えきれなかったことで、次はもう大丈夫、前の会見で大体雰囲気はつかめたし、今日は自分の邪魔をする記者達もいない、直接事務所に乗り込むのだから、きっと『あすなちゃんを救う会』の連中は驚くことだろう。自分に対し口を堅く閉ざすに違いない。だからまず、謝ることから始めてみよう。申し訳なかったという気持ちを卑屈に見えない程度に表し、まず連中の良心に付け入ることさえできれば、少しくらいなら対話ができるだろう。

 大介の態度に余裕があり、楽観的な考えが覗かれるのは、もしそこがダメになってもいいような、次の相手が見つかっていたからだった。

 路面電車から眺める景色から、デパート前の駅を二つ離れた場所のアーケード街入り口に、同じ拡張型心筋症の心臓移植費用を募る活動が行われているのを見つけ、その後すぐに救う会の活動内容までも調べ終えていた。その救う会はドイツでの移植手術を行う予定になっていて、今月から活動を開始したばかりだった。事務局の場所も下見していた。贅沢なカラー印刷が貼られまくっていて、スーツだけは上品な役員ども……、とそこまでを思い出し、そんな口調を連中の前でしたらどうなるか分かっているだろう。相手を感情的にさせた時点でこちらの負けになるのだ。これは非情に丁寧に扱わなければ叶わない類の反対活動なのだから、あくまでも冷静に、言葉を慎重に選びすぎるということはない。連中と同様の、相手の同情に付け込むやり方を徹底することが必要なのだ。

 しかし、そこにはまだ手を触れないでおき、当面の相手である、もうそろそろ視界に入ってくるだろう、『あすなちゃんを救う会』事務所へ向け一歩一歩、着実に大介の足は動いていた。

 今日は、もし話ができそうならば、海外でのドナーについて語りたいと考えていた。日本ではなかなか手に入らない臓器を、海外では比較的すぐに買えるからくりを連中の前で披露して、自国と他国の関係、とくに臓器の需要と供給の問題から、イスタンブール宣言を引き合いに、海外の、日本人に対する臓器移植への非難を聞かせ、そうすれば法改正のことを持ち出してくるだろうから、こちらは命の対価について言及してくれよう、と彼は気を取り直し、そこで満足してはまた同じ過ちを犯すことになる。反論をひとつ返したくらいでいい気になることのないよう、念入りに出掛けにも、鏡の前で何度も自身に言い聞かせておいたのに、すぐに自尊心を誇示しようとしてしまう彼の歪んだ劣等感を、大介自身が嫌っているようで、彼の精神は自己顕示と自己嫌悪に分かれつねに戦いをしているような不安定で傾きやすい軟弱な神経に、彼の思考はもうとっくに個人の手には負えないほど肥大されたものになっていた。

 大介は立ち止まり、空想の中で自分の額を連続して殴りつけた。拳と額のぶつかる音が現実のものと錯覚するくらいはっきりと聴こえてきた。道路を挟んだ向かいにある新築マンションの工事の音だった。金属のぶつかり合う波長が脳を激しく揺らし立ち眩みを起こさせ、大介はその場にしゃがみこんで、しばらく目眩に耐えながらそう考えた。

 ――アメリカやドイツなどの海外での心臓移植手術をするという行為は、日本人の彼、彼女らの命を救うと同時にその当国(アメリカ、ドイツ)の同病の患者を押しのけているという点を除いて語られるべきではない。日本人の難病に苦しむ人々が、自国ではなく、他国に救いを求める発端が、そもそも臓器の順番待ちという問題を回避するためのものだからだ。

 日本にどれくらいの難病を抱えている人々がいようと、それは他国の生命を無遠慮に脅かしてもよいということにはならない。海外にも移植のための、臓器提供の順番待ちをしている人々がいるという事実とアメリカでのいわゆる5%ルールについて救う会のメンバーが公然と語ろうとしないのと、高額の治療費の大半を占める、デポジットという保証金制度の返金について誰一人詳しく募金者への説明を行わないでいることは、募金者の善意に対し、施しを受ける側として果たして誠実な対応といえるだろうか。臓器を海外で容易く手に入れる行為に反し、日本から他国への臓器提供が閉ざされたものとなっていることと、日本では、同じ日本人への臓器提供者がすくないことから、民衆の漠然とした宗教観、遺体への蹂躙といった遺族の蒙昧な観念、臓器移植法改正案に対する日本宗教連盟の脳死に対する見解、日本小児看護学会の見解、それらを広く情報として徹底的に広めることが今できる最善策だ。やめる訳にはいかない――

 彼はすでに人間ひとりにできることの限界を遙かに越えた領域にもがき苦しんで、身動きが取れなくなる寸前の状況に気がついていなかった。個人では抱えきれないほどの問題に挑んだ代償が彼の神経を削り、時々現実を置き去りに、理想の、彼に都合の良い展開を望んでしまい、その空想に悦に浸っている自分がいることを、一過性の健忘症にでもかかった人みたいに、理想に住んでいた時間の自分の記憶を忘れていることにまだ気がつけないでいた。彼の議論は行き詰る手前まで来ていた。

 それでも彼はなおも続ける。まだ事務所までは少しある。扉の前に立つまでは何度でも考えを反芻してやるつもりでいた。日本人の倫理観、宗教観と臓器移植への世間の関心が広まらない現状を生んだものの正体を、情報という形をつけて“見せて”やる必要があるのだ。それと、特定非営利活動法人を利用し利益を得ようとする団体の存在にも触れなければならない。それを考えると彼は孤独に包まれる。それは恐怖という感情の吹いてくる方向が、その団体を追求することにより、自分自身を危険に晒すことになるという、彼の悪い想像。それが現実に起これば、自分は死んでしまうかもしれない、といった彼の命が殺されてしまうことへの怯えが、彼の行く道に立ちはだかっていた。

 軽く飛び越えてやるつもりだったのが、いざ対峙してみると、それのもつ脅迫的な力に、大介は、その問題を表立って口にはできないでいた。誠実に語ろうとすればするほど彼は苦しくなってくる。

 明け方近くまで彼ただ一人での議論を続けていた為寝不足気味で、体も丈夫なほうではないこともあり、今立ちくらみを起こし、しゃがみこみ、目眩に耐えている間も議論は彼の意識とは関係なく続けられ、ようやく立ち上がり、ついに貸しビルの一階にある事務所まで辿り着いた。

 大介がガラスの扉に透けて、室内にいる役員の目に入り、彼らは先日の会見にいたあの学生だと分かると、大介が勝手に扉を開き室内に入ってくるのを警戒しながらも、その手を休めようとはしなかった。

「こんにちは。先日は失礼しました」

 大介の声に、素早く反応する者はなく、彼はもう一度、役員に挨拶を繰り返した。

 奥の席に座っていた、べっこうのフレームの眼鏡をした男が、もったいぶった態度でゆっくりと腰をあげ、彼のもとへ近づいていき、なにか、とだけ言った。

 大介は、先日の失礼を詫び、自分はあんな感情的な対話をするつもりではなく、一部のくだらない連中の為に、自分が本当にやりたかった議論ができなくなったことを男に説明し、もし可能なら先日の会見をやり直せる場をもう一度用意してはもらえないかと、率直に尋ねた。

 男は、会見での大介の態度を持ち出し、あんな失礼なことを訊く奴は今までに知らない、しかも難病のこどもを抱えて苦しんでいる両親の前でする質問ではない、と彼を非難した。

 大介は、もちろんその通りだと、男の意見に頷いた。

「ですが、わたしの質問の正当性も考えてください。あの三つの質問は、募金したわたしたちの知る権利の範囲内にあることで、きわめて単純な疑問なんですよ。わたしだけではなく他の支援者だってそう思っているはずですよ」

 男は役員の代表であることが先日の会見で分かっていたから、大介は事務所に入って初めに会話を交わす相手がその男であったことを幸運な出来事だと考えていた。いきなり本題に入れそうだったので、今そうしてまどろっこしい手続きを省き、会の代表である男と一戦交えてみたい、強気な態度にでたが、代表は忙しいというのを理由に大介の身勝手な要求に冷淡な返答を浴びせた。そういった反応は予想済みだったので、彼はそれでも食い下がりなんとか、少しの時間でも構わないから、せめて先日の三つの質問にだけでも答えてくれないか、と要求を絞って頼んでみた。

「あの時君が、わたし達に何を質問したのかもう覚えてもいない」

 喰いかかるような、代表の口調に一瞬ひるみはしたが、大介はもう一度あの時と同じ質問を代表にしてやった。

「だからといっていきなりその質問に明確に答えろと言われても困るよ。日を改めて来てもらえればこちらもそれなりの準備をしたのちに、回答の文を用意できるんだが……」

「そうですか、わかりました。ではいつ頃来ればよろしいでしょうか?」

 いや、けっこう、と代表が彼の言葉を嫌い、君ひとりの為にわたし達が活動の手を止めることはできない。それは、君が勝手に解釈すればいいことだから、他のほとんどの支援者はわたし達の活動に対し寛容な態度をとっているから、と大介の質問はあくまで例外的なものであるとでも言いたげな様子が見て取れた。

 大介は、やっぱり一度与えてしまった警戒心を解くのは並大抵ではないと理解し、『あすなちゃんを救う会』への彼の活動はここで終わらせることに決め、代表に頭を下げ室内を出た。

 構想は間違っていなかった。ただ予測が甘かっただけで、それも一度失敗を経験したから、次はそう簡単に崩れたりはしないだろう、と大介はまた達観し、急に眠気が襲ってきたために、いつものようなしつこさを発揮できなかったことも反省し、議論をする為には体力が必要であることも発見した。

 とりあえず家に戻って睡眠をとるのが先決だと彼は考え、簡単に引き下がることにした。それでも意識とは無関係の議論は引き続き彼の脳内でなされ、目眩は頻繁に起こるようになり、ここまで疲れることは今までになかった体験に、改めて集団を相手に議論をしようとすることが、学生レベルのディベートの比ではないことを認めざるを得なかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ