十六
大学を無事卒業し、一年後に就職を決め、入社したところはたいして大きな企業でもなかったが、それをなにより喜んでくれた奈緒の笑顔が彼のプライドよりも勝り、素直にありがとうと言えることができた。
二人は今、同じ部屋で生活をしていた。花屋でのアルバイトを続けながら、空いた時間で別の仕事もしている彼女のため、彼も自炊を覚えていた。共同作業はなかなか大介には難しい部分もあったものの、誰かのために尽くすという行為は意外にも彼の心を豊かにしていった。
彼女と心を通わせることができた後、一旦はぎくしゃくした関係になってしまい、そこから危うく別れそうにもなったが、奈緒の突然の提案が二人の危機を救った。
最初、奈緒からもう一度友達から始めないかと言われたとき、大介は悪い予感が過ぎったが、彼女の真剣な眼差しに、彼もこれまでのこだわりを捨て、もう一度彼女と真剣に向き合う為に、まっさらな関係に立ち戻ることを決めた。
彼と彼女はお互いの呼び方を変えることにした。お互いにさん付けすることにした。大介さん、奈緒さん。他人行儀に思える彼女の提案には他の呼称にはない、相手への敬意を込めた思いがあった。二人は親しい友人として再び日々を過ごすうち自然に同棲を始め、今に至った。
それからさらに月日が過ぎると、彼女の手術費を二人して、目標の金額まで貯めると、彼女は最後まで渋る彼を諫め、一人で渡航することを決めた。金銭面での負担を思ってのことだったが、彼にしては、彼女のことが心配で堪らなかった。それでも最後は説得された彼は、ようやく納得して彼女を一人で送り出すことを了承した。
彼女を送り出す当日、部屋から近いコンビニで飲み物を買い、その際に大介がレジの募金入れに小銭を全部入れたのに奈緒が驚くと、イジワルそうににやけながら、ちゃんと調べたから、これは大丈夫な募金なんだ、と言って先に店を出て行く、その後ろ姿に、奈緒は少し成長した大介の姿を嬉しく感じ、追いかけていって彼の手を掴んだ。大介も固く彼女の華奢な手を握り締めた。
空港で搭乗までの待ち時間で、テレビでは市役所に刃物を持った男が職員に軽傷を負わせたニュースが流れていた。大介は複雑そうにそれを眺め、奈緒との雑談を交わすうち、ふいに彼は彼女が戻ってきてから告げようと思い内に秘めていた言葉を、今この場で開封しようと決意した。じっと彼女を見据え、
「結婚しよう。今ここで」
彼女の手を取り、返事を待つまでもなく、すぐに頷いてみせた奈緒の表情には迷いはなかった。それは二人に確かな絆ができたことを物語っているようだった。奈緒が戻ってきて、性別が女になれば社会的な結婚ができる。二人で婚姻届を出しに行く日を心待ちにしている、と大介が彼女にキスをして奈緒を送り出した。
この二人にはこれからまだまだ困難が訪れるだろう。世間の理解を得られるにはこの二人の生きている間には解決されない様々な障害が残っていた。
それでもこの二人なら、波立つ人生にきっと立ち向かっていけるだろう。新しく強い絆を手に入れたこの二人の瞳には、これからの人生はきっと明るいものに映るはずに違いなかった。