十五
使い慣れた洗面台に立ち、鏡に自分の顔を写しながら、軽く伸びてきた髭を一本掴み、思い切り引っこ抜いた際の痛みを噛みしめ、大介はこう思った。
自分の知らないところで奈緒もこうやって髭の処理をしているのだろうな。もし手術が済んだところで、この作業は一生涯続けていかなければならないのだとしたら、それは本当に女の身体を手に入れたことになるのだろうか。本人が納得しているのならば、他人の俺が異を唱える必要もないが、彼女達にとって女になるというのは、男性器を取り除くということだけでなく、もっと精神的にも重要な意味を持つことなのだろうということは何となく分ってきた。
女の身体のメンテナンスは死ぬまで行わなければ簡単に失われてしまう。そのリスクを考えると、手術を受けるというのは割に合わないような気もするが、当人にしてみればその覚悟もあってのことだし、もっと幼い頃から延々考え悩み続けてきたことだろうから、疑問をぶつけてみるという行為も無粋というものだろう。
今更ながら奈緒の本心をまるで知らないことを痛感した大介は、これまで自分の中で都合のいいように彼女のことを歪めて理解していたことに思い当たると同時に、どうしても奈緒ときちんと話し合う必要のあることを感じていた。
奈緒は、今もこの部屋を訪れてくれる。その気になれば話し合いの場を持つ機会はいくらでもあったのに、未だそれを果たせないでいるのは自分に意気地がないせいだと自責したところで何も解決はしない。彼女の前で自分の考えを話し、金銭での応援をしたいと申し出た時に、奈緒がそれを拒否したら、という結果に彼は異常なまでの恐怖を抱いていたから、その時、いつかのように彼女を怒鳴り出したりしないか、自分の発作的な怒りを理性で押さえ込めるかどうか不安があった。
断られるのが怖いという自分の弱い心を心底では認められていないため、大介は煮え切らないまま奈緒のことを眺めているだけだった。
彼女が自分のもとを去らないことも不思議で仕方なかった。愛というものを信じきれていない彼には、女性のそういった心理を正しく理解できるまでの成長は未だ得られていなかった。奈緒が友達の少ない自分に気を遣っているのか、あの夜のことで、未だに引け目を感じ続けているからとしか考えが及ばなかった。
身体のメンテナンス、という言葉を自然と使っていたことに苦笑して、機械的な響きのあるこの単語をあえて使用していた自分の深層にあるものに辿り着いた心地がした。
それは、奈緒はやっぱり本当の女にはなれやしない、という残念な彼の本心だった。大介が奈緒のことをもう一度抱きしめたいという想いを実行に移せないでいたのはこのせいだった。
彼はどうしても奈緒のことを他の女性のようには見られないでいた。自分が抱きしめようとしているのは男である、という凝り固まった思考が変わらない限り、二人が正常な気持ちで男女関係を築ける時が訪れることはないだろうことは確実だった。
おもむろに、ほとんどこちらからかけることのない携帯電話を開き、少ない電話帳の中から奈緒へと連絡を入れた。二言三言で奈緒も理解したらしく、通話時間は短く切れた。
普段よりめかしこんで奈緒がやってきたのは、事態の好転を予想していたからではなく、ただならぬ大介の声色に本能的な防御の姿勢をとったためだった。
今日は夕方からコンビニのアルバイトがあるから、と前置きをして奈緒が大介から少し離れた場所を選んで座ったのは、その部屋でのいつもの定位置からずいぶん外れていた。大介が意気込みを表すように場所を動き近づくと、彼の悲壮感漂う表情が、彼女の警戒をより強くした。
「……あの、話って……」
彼女の言葉を遮るよう頷き、
「どうしたらいいんだろうか、俺は」
彼女のつっぱった表情の顔に僅かな緩みが生まれ、自然と身も乗り出し気味になる。それでも、大介が話し出すまでじっと用心深く奈緒は彼を見つめ続けていた。
「お、俺今金を貯めてる。ちょっとだけ纏まった金になったと思う。でもまだ全然足りないから、休学して一年働こうと思ってる。そうしたら百万くらいには届くはずだ」
ダメ、と語尾を強めて奈緒が彼を叱りつけた。
「それは絶対ダメ。それじゃあ何のために大学に入ったのか分らなくなる。大介君は頭がいいんだからちゃんと四年で卒業しなきゃダメだよ。今はすごく就職するのが大変だっていうから、あ、大介君ならどこでも働けると思うよ。でも……やっぱりわたりのために大学を休むなんてしてほしくない。わたしは大丈夫だから、自分の将来も大事にして……」
一度言葉に詰まると急速に弱々しくなり、最後には口だけ動かし、呟きにもならないほど彼女の勢いは落ちていった。
大介は怒られたことよりも、奈緒が自分の将来を案じてくれていたことが嬉しかった。大介の中での彼女は、自分の悩みにいつでも打ちひしがれ、とても他人への気遣いどころではない、可哀相な人。
それは弱気な男が好みそうな女性像で、唯一自分の思い通りになりそうな関係を築けそうな相手。そんな風に今まで奈緒のことを見ていた情けない自分。
大介の目の前が、自分の本心を正直に照らし出した現実の彼を、彼女の目前に晒し始めると、これまでと違った角度で奈緒を見ている自分がいることに気がついた。
しっかりと自分を見つめ続ける彼女の眼差しはとても心根の弱い人のできる表情ではなかった。どんな困難な日々にも心折れず、前を向き、歩き続けてきた十代の少女――。
彼女は誰かに大介に対しても手助けを要求したことはなく、痛々しいまでに孤独な毎日を過ごしてきたことを、こんなに近くで見ていたはずの自分なのに、と大介は浅はかな目で物事を決めつけてきたことを恥じた。自分に対しこれほど怒りを覚えたこともなかった。彼女の前で自分の頭を壁にでも打ち付けてやりたかった。
こんな自分では、本当の意味での顔向けは奈緒に対して今はできないと彼は考えた。
「ごめん、やっぱり大学はちゃんと行く。でもバイトも続ける。金はお前の手術費に使ってほしいんだ。必ず俺がお前を女にしてやるから」
それもダメ、と言った彼女の目には、その言葉とは不釣り合いな涙と複雑な表情があった。彼が躙り寄り、奈緒の肩をそっと、でも力強い決意のある両腕で抱きしめると、抵抗もみせず彼女が身体を預けた。低体重の奈緒を受け止めるのは、肉体労働で鍛えた彼の腕力なら容易いことだった。
でも、彼女の精神の全てを受け止めるのは、男の腕力ではなく、男としての心意気だと、彼は両腕の中で小さく身体を震わせる奈緒のぬくもりに誓った。
「二人で力を合わせるやり方ならいいんだよな。俺とお前で働けば納得してくれるよな。二人の為にお金を貯めるなら、問題はないだろ。二人で生きていこう。いいよな、これだったら」
少し戸惑いを残し、彼を見上げると、穏やかで生気のある顔つきで自分を見つめくれる大介の微笑みがあった。
それを見て、ようやく奈緒が満ち足りた表情でしっかりと頷いてみせると、時間も忘れ、二人は抱き合って、交際を始めてから初めて心が通い合ったことを、ずっと確認し合った。




