十三
悠人と打ち解けたことにより新たに浮上した感情に翻弄され、まだ家へ帰ることをしたくなかった彼は、遠回りになる帰り道を選び歩き続けていた。歩くほどに近づく帰路への不安を抑える為に、幾つもの問題の中から一つを摘んでは悩みを繰り返し、また答えの出ないうちに別の問題が彼の頭を擡げさせていく、といった具合だった。
駅一つ分歩いた後、北朝鮮に拉致された日本人を救う会と名乗った団体ののぼりがそのまま放置されているのを一瞥し、それはつい最近偽の団体であることが判明したばかりのものだと分ると、のぼりを両手で握り締め、そのまま人通りの微かに残る、公園入り口付近に立ち、まばらな歩行者を相手に演説まがいのことを始めだした。
「皆さん、ごらんください、これを。ご存じのとおりつい最近活動の中身が明るみに出、この辺りで活動を行う姿を見かけなくなった、偽りの活動団体ののぼりです。しかしながらこんなものはわたしにとってはどうでもいいことです。こんなのは最初から疑ってかかるのが基本なのですから。ちょっと注意して彼らの活動の内容を眺めていたらまず騙されることはないでしょう。それは疑わしさが先に立つ、ということです。分りやすい活動だからなのです。わたしが皆さんにこれからお話ししたいことは、一見真っ当で誠実な活動にみせてその実、皆さんの善意を金に換算することしか頭にない、極めてあくどい人間達の所作でも、比較的賢い部類に入る人達の考えさえ狂わせてしまうような、連中の狡猾な仕業についてです」
彼の荒々しい雄叫びにも似た叫び声は、深夜が迫ってきたこの時間には不釣り合いでしかなかった。通行人も時間的に酔っ払いの戯言程度に関心を示し、足も止めず通り過ぎる者ばかりで、むしろ遠ざけるように早足で彼の前を去っていくのを、大介は気にも止めず、
「わたしには今、ある問題を抱えた友人がいます。彼女はある病気を煩っている為に、本来なら健康的な日常を謳歌しているはずの時間を苦悩と自責に費やしている日々を送っている、同情に足る人物です。
わたしは何とかしてこの若年の友を救ってやろうと思ってやまないのですが、わたしも彼女同様無力な若者の一人でしかないことを最近思い知らされることばかりで、いっそ自分達に全く関係のない人々の助力でも受けられるものならばそうしよう、と思い至り今こうして皆さんの前で、このようなつまらない演説まがいのことをしているわけですが」
いつの間にか足を止めた数人の聴衆の中の一人が、彼の話を怪訝そうな表情で聴いていたが、突然じれったそうに声を荒げ、「で、一体いくらほしいんだよ。乞食」と吐き捨てた。その瞬間大介の怒りが彼に対し敵意の言葉を発しそうになったのを、寸前で堪え、怖いくらいの作り笑いで、その男を見据えると、「そうです。その通りです。わたしは皆さんから僅かばかりのお金を恵んでほしいのです。はっきりといいましょう。彼女には外科的な手術が必要なのです。その確実な成功を望むなら、三百万円が妥当なところでしょう。
皆さん、わたしはその全てを皆さんの厚意でまかなおうというのではないですよ。彼女には働いて百万円を用意して貰います。わたしもなんとか百万円を工面しましょう。そうです。皆さんからは百万円の金額を寄付していただこうというのです。一億円の百分の一、一人千円ずつ頂けましたなら千人で目標額達成となります。もちろん一口千円以上でも構いません。そうなればさらに早い段階で募金活動が達成されることでしょうから、あの時募金した金はどうなったのか、という忘れた頃に思い出すという期間もないまま、皆様自身が行った募金活動の結果が記憶も新しいうちに見られることになりますし、そうなれば善意の行いをしたという満足感もより高いものになるでしょう。
これこそが達成可能な金額設定であり、お互いを満足させる募金活動であるとは思いませんか、皆さん。
しかしわたしは要求しているのではありません。あくまで皆様次第の施しをお待ちするという形を崩すことは決してありませんから強制することも致しません」
唐突な彼の言葉に通行人の若い女二人組が足を止め、彼に話しかけた。
「強制したら募金にならないなんて当たり前でしょう。それに手術って何の話をしているのか分らないから、もっと具体的に順を追って話した方がいいと思いますよ」
「いいでしょう。これはある一人の、身体的に問題があったばかりに周囲の人間の理解を得られないまま苦しんできた若い女性を救う為に皆さんからの施しをお願いするための、わたしの個人的な募金活動なのです、というところまではすでにお話したとおりです。あなたが聴きたいのはその病名、ということですね。彼女は性同一性障害という難しい病気にかかっています」
聴衆の女性の表情がこわばったのを大介は見逃さなかった。うまくいけばこの二人組からはいくらかの金がもらえそうだと、足を踏み入れたばかりの、彼なりの募金活動の手応えを感じ取った気がしていた。




