九
近頃は再び明るさを取り戻しつつある奈緒の、魅力的な肢体の溌剌さの前では、大介の子供じみた不愉快などは新芽の萌芽を妨げる害雑草ほどの破壊力も持ち得ずに、肌に心地よい彼女の涼風のごときか弱く和やかな微笑みは、さすがの堅物でもその疑いと嫉妬ごと一掃されてしまい、つられて笑顔になるしか仕様がなかった。
奈緒が自分の手を離れ、自分の不機嫌も相手にされなくなると、大介の心情には見放されてしまうという焦りが起こり、彼女を繋ぎ止めておく考思を巡らせる時間が増え、さらに奈緒の前で押し黙ることしか出来なくなっていた。
彼は密かにアルバイトを始めていた。主に短期の肉体労働だった為、一つの部屋に奈緒と二人きりになっても、ひ弱な体に急激な疲労が襲い、彼は自身の鬱積した感情に構う気力もなく、ただ次の日の朝までひたすらに眠り続けた。
アルバイトを週三で続けるうちに彼の中で健康的な思考の芽生えが起こった。今までまともに見つめることが出来なかった奈緒の目にしっかりと視線を合わすことを恐れなくなり、奈緒の考えにもっと耳を傾け、彼女の些細な行動の違いにも気が回るようになり、精神的に一段成長を遂げたようで、彼女の行いを尊重し、余計な干渉を控えることを自戒した。
奈緒も大介の心情の良い変化には目を見張るばかりで、彼が付き合い始めの穏やかさを取り戻してきた理由を探るよりも、ただ彼が自分を再び大切に思ってくれるのなら、こちらもまた彼に尽くさなければという考えが先に立ち、花屋以外のアルバイトをしていることを彼に話しては、いらない気を遣わせてしまうと思い、彼が毎日のようにどこかへ出かけていることにも気がつかない素振りを決め込んだ。
いつものように講義をさぼり肉体労働で目一杯心地よい疲労を作った帰り道、大介は奈緒の為にと洋菓子屋で、彼には食べ慣れない、奈緒の好きそうなフルーツのたくさん入ったタルトとその他を二人分買ってみた。まだ奈緒の手術費には足りていなかったから無駄な出費を控えていた彼ではあったが、たまには二人で甘い物を食べながらの会話もしたいという思いが彼にはあった。
大介の予想外の優しさに戸惑いつつも、関係が良い具合に修復されているのに、幸せを感じた奈緒は珍しく腹を空かせる大介を待たせ、時間を掛けて料理を作った。
いつもなら、不機嫌な大介を怒らせまいと料理も手早く、出来るだけ彼を待たせないようなメニューばかりを選んでいた。
それでも、大介が味に対して文句を言うことはなかったが、料理が思った時に出来てこないことに対しては驚くほどの反応をみせた。
「腹が減ったときに飯がないと余計に腹が立つんだよ」と言われても、奈緒には彼がいつ腹を空かせるのかなど分るはずもないから、彼は単に我侭を言いわたしを困らせたいのだとしか考えていなかった。
そんな時期を思い返せば、最近の彼の顔には健康的な血色が見て取れて、陰気くさかった頃に比べ、若者らしい行動的な雰囲気があった。
冷蔵庫に冷やしておいたケーキの箱から冷気が煙のように揺れ、箱を開けると色彩の溢れんばかりの品揃えが二人の眼前にお披露目されると、二人は自然と甘ったるい笑顔を互いに確かめ合い、二人の関係性に絆を取り戻したことを実感できるようで、その笑顔を手放せずにケーキの些細なところを褒め合っては、笑顔をつくるきっかけを探るようにして笑い合うのだった。
テーブルの上に散らかった食器や包装紙を嫌がりもせずに片付ける大介を、出来ることならこのままずっと今日だけが続けばいいのにと名残惜しく、奈緒も食器の片付けに立ち上がる。その後ろを追うように大介が食器を持ってついてくる。テーブルの下に置かれた奈緒の携帯が大きな振動を繰り返した。二人きりの場ですら奈緒はマナーモードを解除しようとはしないことに大介は疑いを捨て切れなかったが、今日だけはそんなことは止そうと考えをそれ以上進ませないよう努めた。
大介に申し訳なさそうにおどおどしながら携帯を取ろうかどうしようかと、その場をなかなか動こうとしない奈緒の態度につい威圧的な声音で、
「取ればいいだろ、なんで遠慮することがあるんだよ」
命令に従うように奈緒がテーブルの下へ手を伸ばす。携帯を開くと彼女の顔が曇ったのをみて、大介はさらに不機嫌が増していくのを自覚した。大介の方を一瞬振り返り奈緒が部屋を出て行こうとした。
発作的に彼は、隣の部屋に向かおうとする彼女の肩を掴み、
「ここで電話しろよ。別に困ることでもないんだろ」
「……でも、うん……」
そう言いながらも奈緒が少しだけ彼の手を振り解く仕草をみせると、彼は怒りにまかせ彼女をその場に叩きつけ、彼女の手からこぼれた携帯を掴んだ。相手の声が男であることを確かめ大介はそのまま彼女に変わり話し始めた。
「誰だよ、お前は」
体を強く打ち付けられた奈緒は、横たわった姿勢のまま、大介の息巻く声だけを怯えながら聴いていた。大介が相手の言葉を聴いては腹を立て怒鳴り、またしっかりと携帯を耳に当てすぐに勢いをつけ電話口に罵倒するを繰り返すのを止めることは奈緒には到底出来そうにもなかった。それでも泣き出すことだけは絶対にしてはいけないような直感が、恐怖に耐えることを彼女に強要しているようだった。




