五
極度の震えに逆らえず、奈緒は気持ちとは裏腹に、胸元に手を遣りボタンの一つを外そうとしている自分に気がつくと、まるで知らない内に他人の手がそうしているのを見つけたような驚きで自らの手を胸元から遠ざけた。
「止めるのかよ」
大介の言葉でまた体の震えが蘇ってきたような錯覚に陥り、自分のことを愛おしい眼差しで見つめてくれていた彼とは違った、徹底して冷ややかな表情と言葉とで自分を追いつめようとしている男が目の前にいるだけだということが実感されてくると、学生時代の、誰からも理解されることのなかった疎外感と失望とが瞬く間に彼女の僅かな希望を打ち砕いた。
やっぱり自分の考えが甘かった。そんなに簡単に自分の悩みを理解し受け入れてくれる人などが容易く見つかるわけがないのに、どうして彼に打ち明けてしまったのか、それを思うと自分のいたらなさが悔しくて自然と目頭に涙が溜まってくる。
「泣けばいいなんて思ってるなら、俺には通用しないから。はっきりと理由をお前の口から言わない限りは終わらせない。俺を騙してたんだから説明するくらい当然だろう。何でもいいから説明してもらわないと納得がいかないと思わないか? お前が俺の立場でもそう考えるはずだろう?」
自分の言葉にうんざりしていた大介だったが、怒涛のごとく湧き上がる怒りの感情に翻弄され、彼本来の理屈っぽい考えはなりを潜め、どうでもいいようなことばかりを口に出し奈緒を責め続けていた。
奈緒がどうして自分との付き合いの最中で、本当のことを告げようとしなかったかは容易く想像がついていた。自分という存在を失うのではないかという葛藤が奈緒の中で何度となく繰り広げられていただろうことも、彼女の臆病な性格を考慮すれば、どれほど自分に対し罪悪感を感じていただろうかも、その光景すら目に浮かべるのは難しくなかった。
けれどもこれほどまでに彼女のことを理解しようと努め、彼女の為に皮肉っぽい性格を抑える事をしてきた自分がまるで馬鹿みたいに映ってしまうのが、もうとっくに気を許し、心の大半を彼女の為に費やしてきた自分の純情さを改めて自覚させられてしまい、それがどうしようもなく恥ずかしくて、また悔しくて顔を赤らめるくらいでは間に合わないくらいの屈辱が、彼女を責め続けている間だけ忘れられるので、彼の感情が強く求めているようで、大介自身、自分の感情がこれほどまでに強固でおそろしく融通の利かないことを知ると、今まで学んできた知識なども何の歯止めにもならないことが彼の自尊心を刺激しさらに奈緒を責めたてる理由となっていくようだった。
彼女なりに精一杯泣くのを止めようと、自分の感情に強制的な抑えを試みていたが、大介の目にはそうは映らず、まだ泣きじゃくり続ける彼女を鬱陶しく感じ始めていた。彼女の口から洩れるのは悲しみの嗚咽ばかりで、彼女の泣くしぐさは今の彼には怒りを刺激するだけのものでしかなく、無言で彼女の体が震えているのを睨んでいるだけでは間が持たず、口を開けば彼女をなじる言葉ばかりが先に出て、それでまた自分に腹が立ち、また彼女への怒りが増していき、彼の怒りと彼女の悲しみはひとつの流れとなっていつまでも一室の空間を漂い続け、落ち着く場所もないように思われた。
いつまで経っても決心のつかない様子に痺れを切らし部屋を出て行った大介は、その後も奈緒と会うことだけは止めなかった。彼自身まだ未練があったし、奈緒の方でも大介の誘いを断わることは考えもしていなかった。無言の贖罪という意味でも彼に会うのが正しいことだと信じていたし、会うことで幾らか気分が紛れることも理由のひとつになっていた。
しかし、会えば大介は終始不機嫌で、不安げな奈緒が明るく振舞えば余計に大介は腹を立て、奈緒が怯えた表情に戻っても気が晴れるわけでもなく、臆病な奈緒の態度に苛立たしさを感じずにはいられなかったから、言葉で彼女を責めたてることもよくあった。その際に何度も彼女が女の体であったならこんなことにはならなかったのにという、どうにもならない事実を恨み彼女をまた責めた。
奈緒は彼が自分の体を恨んでいるのであって、内面は変わらず認めてくれているということだけは理解できていたから、奈緒としても体さえ女であれば大介の怒りも治まるものだということが、彼女の悲しみを増やす結果となっていた。