四
大介の奈緒に対する想いは、偏屈だった彼の心を素直にさせていた。周囲の彼に対する対応にも変化が見られ、最近君は丸くなったな、というような言葉で彼の変化を表す者もあった。
それまで彼のことを敬遠していた大学の連中から声を掛けられる回数がふえてきた。奈緒への関心が多かったのは否めないが、彼に好意的な態度を魅せる者があるのもまた事実で、彼の口数が増える度、彼自身目新しい日々の訪れを認めないわけにはいかなかった。
だんだん、複雑な思想や心理から離れ、興味は余所へ向かうことが多くなった。自分が馬鹿になっていくような不安もあった。大切にしていた思考が忘れ去られ、連中と同じになっていく自分に苛立つこともあった。それでも奈緒が全て緩和してくれるような気がしていた。彼が一番馬鹿にしていた恋愛が彼の心を救い出そうとしていたことはもう彼も認めるところだった。
キスをしながら小さな胸の上で精一杯の愛情を込め動かしていた彼の手を、震える手で奈緒が静止した。大介の胸元で頭をうずめるようにして、奈緒が幼い頃の話を始めると、勘のいい大介だったからそれが自分達にとって良くないことを示しているのはすぐに察しがついた。体に醜い痣があったり、劣等感を抱くようなものがあったり、些細な悩みでこの行為を踏みとどまったのだろうと早計したから拒絶の反応をみせられてもすぐには感情的になることはなかった。
しかし、奈緒の話が進むにつれ、彼の顔は戸惑いと怒りと悲しみと、次から次に変化していき、戸惑いは混乱を招き、やがて体の全てを奈緒から引き離し、横たわりまだ話し続ける奈緒に背中を見せる格好で、何とかこの状況を理解しようと必死に頭の中を整理しだしていた。彼は物事が理解できないことがなりよりも不安でしかたない性分だったから、奈緒との関係は脇へ置き、状況を把握することだけに集中していた。そして彼の思考が全てを整理し終えたとき、彼の怒りは言葉となって起き上がり、俯いている奈緒へと容赦なく襲い掛かった。
すべて話し終えたつもりなのか、奈緒は大きく深呼吸をした後懇願するよう大介の腕にしがみついてみせた。その手を振り解くことはしなかったが、不自然な無反応さで大介は、そっと自分の手を重ねてやるでもなく、小刻みに震え続ける彼女の手をそのまま放置しているようで、拒絶よりも恐ろしい仕打ちに耐え切れず、
「ごめんなさい。わかってくれると信じてたから。大介君ならわたしがどういう状態かわたしよりも理解できそうだと思ってたから、わたしにうまく説明してくれるくらいよく」
「性同一性障害のことなら理解しているつもりだけど、でもそれは前もって分かってたなら、それなりの付き合い方も出来ただろうし、そういう相手に対する配慮もするだろうよ」
普段の自信たっぷりの口調とはかけ離れて歯切れの悪い物言いに、奈緒は現実の大介と、自分の理想のなかで作り上げていた都合のいい大介との大きなずれにいまさら気づき、今この場にいることと、彼に自分の秘密をあっさりと打ち明けてしまった自分の軽率さに深く後悔し始めていた。
大介の方では、彼女の言葉が未だに半信半疑で、まだ彼女が断わりたいが為にありえない嘘を言ってみせているだけだという思いも捨てきれずにいた。それにしても彼女の震えが尋常ではなくなってきたのを見ると、彼女の言葉を信じないわけにもいかなかった。
「本当になのか? だったら…見せてみろよ」
本気で確かめたいわけではなかった。男の体を見たとしたら奈緒に対して嫌悪しか抱けないことははっきりとしていたから、彼自身どういう心境でそう言ったのか分からずにいた。でもこのまま引き下がるのも彼の自尊心が許さなかったから、断わられたことと騙されていたことを確信しつつあるこの状況で彼女にも自分ほどとはいかなくとも、屈辱を与えてやりたかった。彼は傷つけられた心の仕返しがしたかっただけだった。でも素直にそう言ってしまえば体裁が悪い。だから一見正当に思えるような理由を探し彼女を卑しめて憂さ晴らしをしたかった。彼女の言葉が本当ならば、彼女が最も嫌がることが体に関することだとすぐに理解できたから、大介は到底受け入れられないような要求を彼女につきつけてやった。困惑する奈緒の表情に良心が咎めるのを感じながら。