三
大介の前で奈緒と名乗った直之は、思い込もうとするように自分の名前をそれだと言い聞かせていた。彼と会うたびに自分が女であるという気持ちは高まり、益々色気づいてきた彼女を見知らぬ通りすがりの通行人達が見逃すことが出来ないほどで、奈緒の存在は、裕子と共に花屋の二枚看板として評判を呼ぶようになっていた。
その頃には大介と彼女が二人で出かけることは珍しくもなく、道行く男達が奈緒と自分とを見比べ納得のいかない顔をするのにも大介はいくらかは優越感を持ってやり過ごせるようになれていた。
確かに自分とでは華のある奈緒が余計に目立ち、引き立て役程度に隣で歩く自分は周囲の関心事の外にいるだろう。彼らが何故と言う風なしかめ面をするのも理解できるし、それは自分にとっても喜ばしいことだから、ただ優越感に浸っていればいいのに、どうしても自尊心の傷つけられた感覚が残ってしまう。自分はプライドが無駄に高いから仕方ないことだが、美人と付き合うには自分は経験が圧倒的に足りないような気がする。
そういう風に大介が奈緒との交際に気後れしていることも、二人の関係が手をつなぎ歩き、キスを自然に求め合う、それ以上に進ませない理由でもあった。決定的な問題は奈緒の体のことだったが、女が男に簡単にそれを許さないのは特別珍しくもなかったから、返って大介にも怪しまれずにいた。
性欲ばかりが先行したわけではなかったが、大介の、奈緒を抱きたいという欲求は、彼女へも充分すぎるくらいに伝わっていたから、奈緒にしてみれば、自分の一番触れられたくない部分を執拗に求めてくる大介の情熱が怖いくらいで、ある時、肩に手を回されるのを、ほんの一瞬だけ拒んだら、恐ろしいくらいに大介が怒り出し、それ以来彼女は彼の前では萎縮してしまって、大介もその奈緒の態度で、自分はこれからどうしたらいいのかさらに分からなくなり、二人の関係は停滞してさらにひと月が過ぎた頃、思い切って大介が奈緒を自宅に誘ってみた。
大介に対し負い目のある奈緒としては、その誘いを拒んだら今度こそ彼に愛想をつかされてしまうという恐怖心から、しぶしぶ彼の自宅へ行くことを了承した。
「キスしてもいいよな」
肩にかけられた大介の手が大きくて、奈緒はこのまま身を任せてもいいと思った。ここまで自分のことを想ってくれているのだから、もう大丈夫だろう。彼なら理解してくれる。奈緒は近づいてくる大介の顔に、少しだけ自分の方からも顔を近づけていった。ゆっくりと貼りついていくような、確認のキスの間奈緒はなすがままだったが、大介の関心は次のこと、さらにその次と、女とは違う、主導権を握った男の責任で、奈緒の肌を確かめる余裕はなかった。もう少しこういったことに経験があったならば、彼女の肌に僅かながら女とは違う箇所があることに気がついたかもしれない。もっと長く彼女の顔から目を離さなければ肌の表面にある違いにも気がつけたはずだった。
奈緒の胸に手をのせた時、大介は小さな胸だと、気の弱い奈緒に似合った体に性的な興奮がさらに高まり、途中の過程を全てとばして今すぐに奈緒に押しかかっていきたい衝動を押さえ込むので必死だった。その間も彼女は不安な中黙って彼の行為を待っているだけだった。彼女もまたこれからどうしていればいいのか分からず、置物のようにしているしか術を知らなかった。恐れの中にある期待だけを頼りにして、大介を信頼してさえいればきっといいように彼がしてくれる、と考えていた。