前編 一
先程までの、自分自身の論理にある脆弱な点を指摘されたときの屈辱感は薄れ、彼はまた次のテーマを決めるべく、興味、好奇心、不満、欺瞞、罪悪感、希望、失望――、とどこかに必ずあると信じて疑わずその題材を探し続けていた。
論文執筆指導での大学教師との面談は、ほとんど彼の無頓着さや怠慢をさらけ出すばかりで、教師の提示してくれたテーマへも彼の関心はぴくりともせず、彼自身うまく表現できないもどかしさにくたびれ、また次回の面談へと問題は持ち越されることになった。
彼は世の中に無関心ではなかったが、いざ誰かにそれを話そうとすると、それを表現することの難しさに驚かされ、それでも必死にしがみつきなんとか言語化しようと、意識と格闘し、沈んでいくそれらに喰らいつくが、表層に残った文字は穴だらけで、語順もばらばらなうえ、理屈も規則性もないもので、とてもじゃないが、現実に利用できるような代物にはならなかった。
三年生後期から、彼は周りよりも一足先に卒業論文執筆にむけ教師との接触を試みていたが、何を書いたらいいのか、肝心なところで足踏みをしたまま一ヶ月が過ぎていた。
大学から駅まで歩きながら、意識は卒論のことばかりを考えていた。突き詰めてみたい題材がたくさんあって一つに絞れないといった贅沢な悩みではないことから、彼はしまいには自分の能力に疑問を持ちさえした。
臼木大介という名前には誇りをもっていた。田舎の小、中、高と進み、順調に入学した大学での高い成績も、田舎の優等生という彼自身の劣等感を払拭してくれていたのに、ちょっとした躓きからまたあの“おのぼりさん”だった苦い過去が思い出され、大学生活でさらに鍛え、磨かれていたはずの知性や教養といった、彼の源となっていた基軸が揺らぎ、信じて疑わなくなった自己の能力について勘繰りたくなった。当惑する自分を、まだ一年もある、と落ち着かせ、路面電車の到着を待つ列の最後尾に並ぶ。
大介は、他に相談のできそうな友人も持たず、大学内では孤立した存在でいた。それでも周りの学生と同じように振舞うのは彼の自尊心が許さなかったし、彼自身それを自覚していたから、構内では余計に大介の存在は目立つようになっていた。
誰とも進んで口を聞こうともしないくせに、ディベートの場ではよくしゃべる。周りの生徒はその豹変したような彼の印象の変化にひるむのだが、彼はお構いなしに意見を述べる。反論するのは得意中の得意だった。他人の論理を叩き壊してやることが彼の劣等感を癒してくれることを知っていたから、彼は自然と嫌われ者になっていた。
大介にかかわり傷つけられることを恐れ、大抵の生徒は彼に正面を切り議論することを避けていた。大介と同質の優秀な生徒が彼に挑むこともあったが、その際も大介は姑息ともいえる手段で相手の思考を困惑させ、その隙をつき捲くし立てるよう強引に結論を下し、議論を身勝手に打ち切ってやると、さすがに見かねた教師が彼に手痛い仕打ちで反省を促すよう議論に割って入ってくることがあった。
それでも怯むことなく大介は応戦する。教師は的確に彼の反論に反論を返す。いくら優秀な頭脳を持っているといえど彼は二十歳の学生でしかなかったし、教師も若いわりに弁の立つほうだったので、教師の手厳しい反論に彼はしだいに周りから持論を崩されていき、最後は黙り込むしかなくなった。普段大介にやられっぱなしの学生は大介が議論でやり込められる姿をみて自己満足をする。
しかし、大介も敗北を認めてはいなかった。やられたらやりかえすが性分の彼は、議論に負けてもそれを自己分析しさらに自身の議論に知識や技術の強化を図ることを、入学当初から繰り返していたので、他の生徒より議論のやり方を経験によって場数を踏み、彼の能力は実践によって鍛えられていった。
今、彼が問題にしようとしているのはまさしくそのことだった。今までの学生生活で得た経験を文章にして纏め、大学生活の集大成にしたく、早めに卒論に取り組むことを決めていたのに、いざその経験を文章に纏めるとなると思うようにはいかない。脳内では素晴らしく論理の歯車が噛合い、一点の隙間もないと練り上げられた彼の自慢の卒業論文の概要は、先程教師によりあっけなく却下された。教師は彼の取り扱うテーマが難しすぎることを理由に、もっと易しいものに変更することを提案した。
それは彼にはとても屈辱的な提案だった。教師には自分の度量を計るだけの能力がないからだと、大介は自分のいたらなさには触れようとはしなかった。
路面電車を待つ列から視線を移し、街を往来する人々のなかにも関心を惹かれそうなものがないか、むさぼるように目を配らせる。
人々が行き交い、その景色を次々に変化させているなかに、同じ場所にいて同じ行動を繰り返す一定の人物があることに、大介の目は止まった。
街頭でティッシュ配りをしている若者がいた。若者はそれぞれの目的の為に進む人々を立ち止まらせるわけではなく、その進行に合わせただ彼らの視界にポケットティッシュをそっと差し出し、強引に握らせるでもなく、相手が受け取ろうが拒否しようが、あえて無関心で通り過ぎるような態度をみせる人があっても、若者はひたすら同じ行動を繰り返している。
おそらく風俗店か何かの広告だろうと大介は考えた。人通りの多い街頭でも風俗店の取り締まりはまだまだゆるかったし、ああいった活動も違法と見なすべきではないのだろうか、と素朴な疑問が浮かび、同様に街頭でのティッシュ配りはどうなのだろうか、と次の疑問が湧いてきた。確か、街頭でのビラ配りは警察の許可が必要だったな。そうするとティッシュ配りも同様に許可を受けているに違いない、けれどそれを卒論と安直に結びつけてしまうことは躊躇われ、題名をつける段階で止めてしまった。
ティッシュやビラ配りを大切な卒論のテーマに掲げるのは自分の格を下げるようで、彼の自負心がそれを扱うことを阻んだ。もっと、教師達を唸らせる、自らの才能を誇示できるようなものでなければいけないと彼は思い定めていた。とにかく大介は自分が他の凡庸な生徒達と自分がいかに差のあるかを生徒達にではなく、もっと権威のある教師達に対し示したかった。
大介の後ろにも列ができてきた。路面電車は一両に乗れる人数が、地下鉄に比べ少なく、会社員や他の学生で混雑する時間帯ではなかったが、息苦しさを味わいながら電車に乗ることを嫌い、大介はビラやティッシュでも貰って次の電車を待つ間の暇つぶしでもしてやろうと、そちらの方向へ歩き出した。
ティッシュを配っている若者の風貌で彼は満足し近づき、若者の差し出したポケットティッシュを乱暴に奪い取り、若者が舌打ちをしたのが大介の背後から聴こえると、蔑むようにティッシュの広告を見やる。大きく電話番号があって、CGで描かれた女が気持ち悪い。だいたいどうしてこの手の広告は、こうも下品な色使いなのだろうか。彼は派手な色ばかりを寄せ集めた、いやらしさの凝縮されたようなラベル印刷に、細かい文字で多くの情報が載せられていることから、自身の興味を惹き出そうとしたが、ポケットティッシュのサイズが6Wだというくらいしか思い浮かばなかった。これくらいのだと一枚あたり五円以下で製作でき、こういった連中御用達の専門店があることを彼は知識としては知っていたから、その原価をおおざっぱに算出してみたが、そんなことはレポートのネタにすらならず、ノートに走り書きしたまま、ほったらかしになっていた。
若者はダンボールのまま持ち出して来たらしく、二箱を立て積みにして片手で数枚を掴み、もう片方の手に三枚ほどトランプを広げて見せるような扇状で通行人の掌の位置より若干高めにちらつかせる。すれ違いざまに、うまいこと通行人がそれを掴み去る。通行人の歩く速度は保たれたまま、彼らに邪魔にならないよう工夫をしていることが窺えた。
若者はまるで道行く人達に対しものであるかのように振舞っている、と大介は考えた。他人の邪魔になるような強引な配り方では逆の効果を生むことになるから、目線を合わせようとしないのも受け取る側への配慮からなのだろう。だからといってティッシュを配る彼が自分よりも劣っている存在であるという認識は以前大介の内に保持されたままあった。
あいつはノルマを達成する為に経験から学んだに違いない。どんな奴でも毎日のように同じ事を繰り返していれば、行動が洗練され、より合理的になっていくことはなにも不思議なことではない。これはおれの扱うテーマとしては相応しくない。だいいちなぜおれが、風俗店のティッシュ配りしかできないような情けない奴を真剣に眺める必要があるのか、さっき貰った労働組合のビラだっておれをある一方向に突き動かすような衝動を与えてはくれやしない。気を遣うこと自体が馬鹿げている。
そうおおざっぱにけりをつけ、大介は他に興味を惹かれる題材のないか、もう少しその辺りをぶらつくことにした。
デパートの、路面電車に近い道路脇では街頭募金活動が行われていた。またこの手の連中か、と大介はポケットの財布を引き出し、手に握れるだけの小銭を、彼が財布を取り出した時から待ち構えていた中年の女が抱えている箱の中に落としてやった。大介にしてみれば、それはまさしく落としてやるという行為でしかなかった。うるさく付きまとわれることと、募金をしないことの罪悪感から逃れるための個人的な理由からの行為は、それでも、ありがとうございました、と女に言わせ、チラシの一枚を手渡される程度には感謝された。周辺にはのぼりが立ち、ポスターが鮮やかに貼られ、チラシもカラー印刷されたものを、同じたすきを掛けた募金を呼びかける協力者なのだろうか、五、六人の年齢も性別も異なる人たちが、立ち去ろうとしていた大介の足をにわかに引きとめた。
この活動も当然許可がいるんだよな。あのティッシュ配りのバイトみたいに……。所轄の警察に許可証さえ貰えばおれでも募金活動ができるものなのだろうか……、非営利目的の活動を強調する為にNPO法人を立ち上げる必要があるのか、そうじゃない。募金活動自体は誰にでもできるはずだった。適当な趣旨さえあればそれで済む。しかしそれで人が集まるのだろうか……、募金してくれる人もそうだが、活動を支えてくれる協力者を集めることが第一だ。ちがう、目的だ。活動の正当性を銘打ってくれるもの、人、障害をもった人間――。
大介が立ち止まり思案する間も、呼びかけの声は絶えることなく続けられていて、彼は片手に握ったチラシを注意深く覗き込んだ。
それは心臓移植を海外で行う為の資金を募る目的が掲げられ、チラシの中央に大きく、幼い女の子の顔写真がテカテカと映っていた。光沢のある用紙が女の子の顔をよけいに印象づけた。
よく聞く話だったし、普段の大介ならば興味の対象にもせずに捨ててしまうチラシが、今日は彼をそうさせなかった。
日本では十五歳以下のこどもは臓器移植を法的に行えず、善意の募金に頼るしかない、といった内容が書かれてあり、あすなちゃんを救う会の所在地、両親と代表者名、連絡先のアドレス、振込み先の口座、一億円の目標額が設定されてあった。
比較的世間に冷淡な態度をとっていた大介でも、募金詐欺という言葉を耳にする機会が多くあるほど、それは様々なところで疑問視されていたから自分のテーマにはならないと脇に捨てておいたものが、漠然とだが形になりそうな気がしてきた。
踏み出すべきか、留まるか、一線を越えてしまえば恐ろしく苦難の道がある。教師の言葉通りそれは自分には大きく、難しすぎるものであることは確かだ。しかし今までの人生で考えた、ありとあらゆる難解な論理に挑戦してきた自分は、もう考える時期はとっくに過ぎていて、これからは行動の時期が訪れている。考えるだけでは思考に落ちる一方で、そこから現実の世界へと実践の場を移すことがより自分自身を磨き上げることになる。もう考えるだけの時期は過ぎた、と彼は繰り返し、唐突に、街頭に立つ、たすきを掛けた中年の女めがけ歩み寄って行った。
「すみません。少しお伺いしたいことがあるんですが、よろしいでしょうか?」
大介がチラシの文字を指差し女に近づくと、彼女は善意の募金をくれた彼に親しさを込めた笑顔で、彼の指差す文字を読む。
「この、拡張型心筋症というのはどういった病気なんでしょうか? 難病と書かれてありますが……」
中年の女は大介の意図を見抜いたのか、親しみの顔を止め、構え直した態度で彼と向かい、
「先程は募金ありがとうございます。ところで、あなたは特定疾患という言葉はご存知でしょうか?」
大介はおそらくその女よりもそのことに詳しいと予測立て、あえて病名を尋ねた。そして予想通りの質問が返ってきた。これからが本番だ。脳機能をすみずみまで活動させろ、戦いだ、議論に今足を踏み入れたのだ。何をしても、どんな手を使ってでも自分の勝利を第一の目的とするのだ。
「はい、特定疾患、123疾患あるんでしたよね。原因不明、治療法の未確立、慢性的に続く後遺症、高額の医療費、それから――」
「よくご存知ですね。それならその質問はもう済んだようですからわたしはこれで――」
大介が女をそこに釘づけするよう威圧的な声で、「まだですよ。これからです。この、あすなちゃんですか、可愛らしい子ですね。このチラシの文を読むとぼくもつい、なにか協力をしたく、さっき、ほら募金しましたよね。ですから、募金をしたぼくの権利を主張するわけではないですが、ほんのちょっとだけ、ぼくに時間をもらえませんか?」
近くにいた他の同じたすきを掛け募金を呼びかけていた仲間が、女と大介のやり取りを不振に思い寄ってきた。
「どうかしたか?」
活動の中心人物らしき、大柄で品の良さそうなべっこうフレームの眼鏡をしている男を、大介はおそらく四十歳後半だろうと値踏みしながら、男と女のやり取りに割って入った。
「募金活動中に失礼します。ぼくは、先ほどこのあすなちゃんを救う会への募金をした者です。学生です。小さな、尊い命を救うという活動に大変感動しました。ですからもっとこのことについて深い理解を求めたく、ぼくはあなた方の話が聞ければと、声をかけさせてもらいました」
男は、それなら今度会見を開くのでそこに来てもらえば、より詳細な、大介の興味を満足させる言葉が聞けるはずだと言った。
そうですか、と彼はテントの横長のテーブルにある用紙に目を向け、
「あれを見せてはもらえませんか? 募金したのも何かの縁だとは思いませんか? 場合によってはぼくもあなた方の仲間になれるかもしれませんし――」
「いや、役員は8名と規約で決めてあるし、ボランティアの数も足りている。君の厚意はありがたいが、わたし達で、十分活動を進めることはできるので結構だ」
渋い表情の男をそれ以上不快にさせる必要もなかったが、
「そうですか、それでは仕方ないですね。あの、目標額の一億円って、内訳どうなってるんですかね? 何事も社会勉強なもので」
下手にでた、媚びた態度で大介は、男の顔を見上げた。
男はもう彼の意図を見抜いたらしく、会計報告の内訳はホームページに公開されていて、募金額の状況も、随時更新してあるので、そっちを見てくれと明らかに攻撃的な態度になり、紳士的な態度を崩し、募金者である大介にさえ不服そうな様子でいるのは、彼らも昨今の募金詐欺に影響を少なからず受けていることを物語っていた。
そういった理由から、男達が、特に会計報告の問題には必要以上に過敏な反応を示すのも致し方ないと、大介は男の攻撃的な物の言い方にはふれずにおいた。
もう、大介の周りを取り囲むように、たすき掛けの男女が居て、その輪を申し訳なさそうに腰を低くして彼は抜け出していった。
大介のためか、募金を呼びかける人達に近づいていく者が先ほどよりも減ったように思われた。悪いことをしたかと悔やむ心もあったが、それよりもはやく『あすなちゃんを救う会』のホームページが見たくてたまらなかった。自分の仮説を正しいものにしてくれる証拠があれば、またあの連中に近づいていける。そうすればおのずと議論はなされるはずだった。