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ため息を大きくついて悲しみをすべて吐き出すさらばさらばと

作者: 片野朋起

目の前にまっすぐな一本道と、そうでない道が並んでいた時、僕はどちらを歩いてきたのだろう。真っ直ぐな道はまるで近道のように見えたけれど、それが本当に近道だったのかなんてもちろんわからない。急がばまわれなんて言うけれど、急いでいるときは誰だって近道をしたくなる。問題は、なぜ急がなくちゃいけないのか、ということだ。

 僕は、何を急いでいるのだろう?僕は誰かに何かを急かされているのだろうか?

 誰かに頼まれて生きているわけでもない。誰かのために生きているわけでもない。それなのに、なぜ僕は今ここでこんなに苦しんでいるのだろう。

「ひとりで勝手に苦しんでいるだけでしょう?」

「そんなの誰にでもありふれた痛みだよ。」

「自分だけ特別だなんて思うなよ。」

「どうして勝手に落ち込んでいるの?落ち込んでいたっていいことないでしょう?」

「ポジティブに行こうよ、ポジティブに。」

「自分が完璧だなんて思うなよ。」

「偏屈なふりをして。」

そんなことを言われるたびに、余計にひとりで孤独を感じてしまう。たしかに、ありふれているのだろう。誰にでもあるようなものなのかもしれない。自分だけが特別ではない。自分なんて、所詮、ありふれた人間だ。それでも、自分にでもできることをなんとか積み重ねてきた。失敗もした。しかし、それでも、僕は誰から応援されなくても、日々を生きてきた。頑張ってきた。日々の生活の中で、もがき苦しみながらも、自分は成長するはずだと信じてきた。

 もっと。もっとだ。

 そう言い聞かせてきた。それでも僕は思う。

「成長に何の意味があるのだろう?」

自分の成長につながる、きっと豊かな人生になる。そう信じてきたけれど、成長したら、何が手に入るのだろう?

幸せな人生?裕福な生活?

それに一体、何の意味があるというのだろう。

成長が楽しいと言う人もいる。成長のない人生はつまらないと。

それでも、友達や恋人と温泉旅行に出かける楽しさにまさるものってなんだろうとも思う。たとえば、好きなミュージシャンのライブにいくことと、自分の成長は関係があるのだろうか。なんとなくおいしそうなラーメン屋さんに入って、そこで自分の好きな音楽が流れているだけで少しうれしい。ああ、いい店に出会えたかも、なんて思う。成長なんかしなくたって、楽しい一瞬の幸せを噛みしめながら生きていくこともできるのだ。

 僕にはわからない。

毎日を楽しそうに暮らしている人が多い。そう着飾っているだけなんじゃないかと疑いたくなる。SNSやらなにやらで、普段の生活なのか、楽しげに写真をアップしては、友達、と思われる人たちからのコメントをかき集めているだけのようにしか見えない。それって幸せなのかな?幸せな人間だと思われたいだけなんじゃないかと思う。他人の自己顕示欲を押し付けられているようで、不愉快になっておしまいだ。

 仕事以外の日に外に出るだけでも僕にはエネルギーが必要だ。動き続けるうちはそんなことないのかもしれないけれど、仕事のスイッチが切れると僕は動けなくなる。基本、動いていたくない人なんだろう。あるいは、動き出すことが面倒なのだろう。

 歩き続けることは簡単だと、なぜ誰も教えてくれなかったのだろう。

 歩き続けることは、案外簡単なのである。諦めないことだって、簡単だ。今のままでいいからだ。難しいのは、歩き始め続けること、立ち上がり続けること、そして、ここぞというところで、勇気をもって諦める、一歩引くことなのだ。

「なにを難しそうな顔してるの?」

僕を見て、妻のえいりは話しかける。

「そんな難しそうな顔してた?」

「うん、してた。なんか、明日世界が終わったらどうしますか、って顔してたよ。」

「それって難しい問題かな?」

「大問題だよう」

えいりは笑いながら洗い物を続ける。

「だって明日に終わっちゃうんだよ?何もできないんだよ?あー、なにしよう。」

「難しい顔してるよ。」

「そうね〜、どこか連れてってくれる?」

「明日?」

「そうよ、だって世界が終わる日でしょう?どんなふうに終わるのか、きちんとこの目で見なくちゃね。」

「世界が終わったの見たら、えいりはどうなるの?」

「何言ってるの?世界が終わる前に、死んじゃうんだよ?」

「え、そんな設定なの?」

「そうよ〜。眺めてるうちに私達も死ぬの。」

「僕も死ぬの?」

「そうよ〜。残念ね。」

「そうだね。」

「はあー…。」

えいりはため息をつく。

「どうしてそこで、君と一緒になら死んでも構わないよ、みたいなこと言えないのかな?」

「一緒に死んでも構わないの?」

「わたしは死ぬけど、あなたが生き残ったとして、一緒に死んでもいいよ、みたいなこと、なんで言えないかなあ」

「ごめんね。」

「いいよ。」

 他人の気持ちを理解するのは難しい。自分だって、時に何を考えているのかわからなくなるくらいだ。だからあるとき、自分で誰かの気持ちを察することを諦めた。そのかわり、自分のフォーカスを定めることにした。自分の気持ちなら、わかる、ときが多い。どうしたいのか、何をすべきか、もしくは好きか、わかる。相手がどう思っているかなんてわからない。だから、自分の判断を拠り所にするしかない。

 そう信じていた。大学生の頃だったと思う。そうすることにした。

 しかし、どうだろう。

 それだけではうまくいかないことが多い。

 自分の気持ちを拠り所にしていたけれど、誰かと一緒に生きていく以上、もうこれはどこかで相手の気持ちを察するしかないのだ。相手が自分の想定通りのことをしてくれると期待してはいけない。それがたとえ、愛する人であったとしても、どんなに親しい友だちであったとしても、相手に自分をわかれと強制することはしてはならない。それくらい、人間は個人差がある。自分の気持ちよりも先に、相手を優先することだって必要なのだ。大学生の頃は気づかなかった。大学院生になった時にも気づかなかった。むしろ、大学院生の時は、自分の発想や、失敗を恐れずに、トライアンドエラーを繰り返すことのなかから、新しいものを見つけていったように思う。僕は物理の研究をしていた。物理でも物性理論の研究だったから、自分の特性が、幸か不幸か、役に立ったところがあったのかもしれない。社会人になっても、研究開発の分野で仕事をしていたから、はっきりと意見を主張していた。言葉のつかい方なんて関係ない。伝わるかどうかだ。真実を伝えるために、まわりくどい言い方なんて不要だ。そう信じていた。

 ところが、それだけではないのだ。

 同じ物言いでも、言い方次第で、相手に伝わることが違ってくるということがだんだんわかってきた。言葉だけを見てくれ、と要求することはできない。すべきではない。相手が嫌な気持ちにならないように、そっと、言い方を変えて、相手の感情を傷つけないようにして、言いたいことを伝える必要がある。これは驚きだった。雰囲気のようなもの、たとえば、話し相手は自分のことを好きか嫌いかというのが重要な要素と認識されているっぽいと気づいたのだ。

 相手によって態度を変えるのは、動物として当然のことかもしれないけれど、このコントロールが僕にはとても不自由に感じた。面倒だなと思った。しかし、面倒ではあっても、同じアクションを起こしても、それを言い方によって良くも悪くもなるのであれば、言い方を変える必要がある。結果、自分が得をするのだ。そして、面倒くさいことをあえてするということは、相手に対する自分なりの誠意であると思うし、いうなれば、それが僕なりの愛情表現になっていたといえる。

「ねえ」

僕はえいりに話しかける。

「僕ってさ、やっぱり、扱いづらいよね?」

「すごく。」

えいりは即答する。

「どういうところが?」

「もう何回も言ってるけど、まだ聞く?」

「うん、聞きたいね。改めて認識しておかなきゃ。」

「なにを?」

「自分の至らなさを。」

「そうね。」

彼女は笑いもせずに答えた。少し冗談を言ったつもりだったのに、不発に終わった。

「プライドが高い男って、ホントに一緒にいて疲れるわよね。」

「僕、プライドが高いかな?」

「高いよ〜。」

「少しは改善されてない?」

「でもやっぱり、自己主張が強いタイプじゃない?世界中、どこにいっても自己主張強いタイプの男だよ。」

「そうかな。」

「間違いないわ。私もプライド高いけど、あなたのプライド傷つけないように、気をつけているんだから。」

「配慮ありがとう。」

「ねえ、ふざけてる?」

「ごめん。」

少し頬をふくらませる。ちょっといまふざけないでよ、と目で僕に訴えかけてくる。ノンバーナルなコミュニケーションにはチャーミングさが重要なのである。

「相手の気持ちを考えての行動って苦手でしょ?」

「うん、僕は苦手だね。」

「みんながあなたの前にひれ伏すと思ったら大間違いよ」

僕はちょっと吹き出した。自分のことをプライドが高いと自覚することなんてほとんどない。それでも、彼女にそのことを指摘されてから、ああ、これはもしかしてプライドやら自己主張やらが邪魔しているのかななんて思うことが多々あったのだ。何事も自覚が重要だ。自覚していなければ、そこになにもないのと一緒。そして、彼女のために自分を育て直すという意味での成長は、もちろん、彼女への誠意だ。しかしそれを言葉で伝えてはいけない。押し付けがましいからだ。伝わらなくてもいい、という健気で謙虚な気持ちは、決して相手に伝わることはない。言葉にした段階で、もうすでに矛盾をはらんでいるからだ。ノンバーバルコミュニケーションでは、伝わらなくてもいいという優しさがすでに根底にある。

「ねえ、聞いてる?」

「ああ、ごめん、聞いてるよ。」

「自分から話しかけておいて、その対応はないんじゃない?急に上の空になることもあるし、あと、途中で人の話を遮ることもあるでしょう?あれ、やめたほうがいいわよ。」

「うん、それも言われてから自覚するようになった。」

「そうでしょう?やってるでしょう?」

「確実にやってる。」

「失礼な態度なのよ、それは。」

「うん、やられたらいい気はしないよね。」

「違うわ、嫌な気持ちになるの。」

「うん、ごめん。そうだね。」

「なんでそんなふうになったのかね?」

「たぶん、途中で相手の言いたいことがわかっちゃうんだよね。それで、その次の話がどんどん聞きたくなってね。」

「はいはい、あなたは人よりも、頭の回転が早いですよ。」

「そう思われちゃうよね。嫌なやつだね。僕は。」

「そう、嫌なやつなの。」

「断言するね。」

「断言するわ。」

そう言うと、彼女は少し笑った。機嫌が戻ってきたみたいだ。女の人がいる家の中では、女の人の機嫌が絶対的に支配しているのだということは、最近になってわかったことだ。男女平等なんてことはない。男尊女卑なんて、もってのほかだ。女の人の機嫌が良ければ、家の中のことは、たいていうまくいく。不思議だ、とか、おかしい、とか、自分の立場を、なんてものを主張するのは、僕がきっと未熟だったからだろう。今もその点、あまり大差ないけれど、それでもやはり、女の人の機嫌とか、気持ちとか、そういったフィーリングがとても大切だと思う。ご機嫌取り、というわけでもないが、人によってはそう思うこともあるだろう。言い方をかえれば、好きな女性が喜んでいる姿を見ることができるのだから、それ以外のことなんてたいしたことではないとも言えるだろう。男を苦しめるものは、女性である、だなんて偉そうなことを言うつもりはない。生きていて幸せを感じる瞬間は、女性と過ごしていると、それ以外の時と比べれば、頻繁に感じるようにプログラミングされているのかもしれない。それは遺伝子レベルでプログラミングされており、きっと何かにさからったところで、そう、論理的に論破できても(ほとんどのケースでそれは不可能だ。どういうわけか、女性のほうが口はうまいと相場は決まっている)、それがすなわち幸せに直結するとは、とうてい僕には思えないのだ。ライフイベントとして、受験や就職、そして結婚とあるけれど、結婚のハードルはひときわ高いようにも思われる。受験は不合格になっても、行くところがあればそこからまた人生は続く。行きたいところに就職できなくても、入社できたところで、頑張ればいい。しかし結婚に関しては、失敗した後の人生の過ごし方が大きく変わってくるのかもしれない。結婚一発目で成功している夫婦が多いのか、失敗したと思っていても、後戻りできないくらい盛大に披露宴を挙げてしまったか。惰性、という言葉があるけれど、人間関係における惰性はできるだけ避けたい。重荷になるならば、すぐに切り離して身軽になって、自分の行きたいところに行くべきだ。何も、今の僕が身体中に重荷を背負っているわけではいけれど。

「ねえねえ。」

えいりは話しかける。

「この前、商店街を歩いてたんだけどね、あそこ、お店開いてるんだね。」

「どういうこと?」

「いっつもお店が閉まってて、どうやって生計立ててるんだろう、て思うようなお店、あるじゃない?」

「あるある。」

「なかでもね、ああ、ここはもう閉店してるんだな、店じまいしちゃったんだなって思ってたお店があったの。」

「うん。」

「でもね、そこ、やってたのよ。」

「何屋さん?」

「わからない。」

彼女はくすくす笑った。つられて僕も笑った。

ふいに、僕は思った。

 僕達を連れて来てくれた小さな船があるとすれば、それはもう、もしかしたら家になっているのかもしれない。また必要になれば、僕はその家を解体して、また船を作るだろう。いつでも、どこへでも行ける。大切なことを見失わないことは難しい。けれど、何を大切にしているんだっけとたまに思い出す。そういえば、大切にしているものってあったっけ…。

 彼女が洗い物をしている間、僕はパソコンのディスプレイに向かっていた。僕は新聞をとっていない。新聞の有料記事とネットに落ちている無料の記事の差分がいまいちないと思われたからだ。ネットには各個人のどうでもいい感想とともに、事実が並んでいるから、真実を知るためだけにアクセスするのは、今となってはそれなりにリテラシーが必要になった。一方、新聞だってそんなに大差ないのだから、利用する価値がない。両者とも、嘘ばかり並べているのだから。真実だって書かれているのだろうけれど、それは目を凝らしてしっかりと探す必要がある。そしてそのしっかりと見定めた情報は、今僕が生活しているところ、あるいは普段の業務にはあまり関係のないことだって多い。世の中、広く見渡して、各分野から貪欲に情報をかき集めることだってそれなりに価値はあるだろう。しかし、僕は自分が働いている分野に関してだって、かなり広大かつ膨大な広がりを見せているから、その分野だけの情報を集めることに精一杯だ。僕はエレクトロニクス分野が仕事だから、その中の経済状況というか、どんな技術が世間で広く使われているのか、ということには注意を払っている。しかし、どこかで殺人事件があったとか、覚せい剤やら麻薬やら、有名人の誰と誰が熱愛発覚とか、そういうことまでトレースしていない。

 みんな、暇なのかな、と思う。

 自分だって、他人にひけらかすことができるほど、素晴らしいことをしているわけではない。それでも、大衆というのは、どうでもいいことにつっかかりすぎているきらいがあると常々感じる。誰が誰のことを好きだとか、嫌いだとか、馬が合うとか、合わないとか。仕事を進める上で大切な要素のひとつになることもあるのだろう。しかし、プライベートで誰が誰と付き合っているとか、アプローチしているとか、どうだっていいだろう。下世話なことばかりに興味を持っているような気がする。誰かが傷ついたらい、不幸な目にあったりしていると、それに追い打ちをかけるかのようなテレビのワイドショー。大衆向けって、誰に向かっているのだろう。そもそも大衆って、一体、誰のことを指しているのだろう。

できれば、そんな世界からは距離をおきたいと僕は願っている。自分の掲げた理想に愚直に向かっていく、そんな真っ直ぐな生き方を忘れたくない。

 しかし、そうもいかなくなったかもしれない、と感じる。

 僕はえいりと一緒に生活を始めている。そこには、言葉は悪いけれど、大小数々な妥協が存在していた。今まで、いかに自分勝手に生きているのか、ということも感じることが多かった。そうか、だから僕は友達が少なかったのかな、あの時、あの人にもしかしたら傷つけてしまっていたのかな、なんて考えることも増えた。遡って謝ることはできないし、今から謝りに行くほど大きなこともなかったけれど、そんなふうに自分を省みることはもしかしたら少なかったのかもしれないなと感じた。オラオラと生きてきたつもりはない。しかし、自分の信じる道を歩くことに固執していたところはあっただろう。それが、これからは誰かと一緒に生きていこうと決めたのだ。女性は幸せになりたくて結婚するだろう。男の場合はどうだろう。少なくとも、僕の場合、なぜ結婚は幸せでなくてはならないのか、という疑問がつきまとった。うまくいかなくても、うまくいかない人生を歩もうと考えたのかもしれない。自分の成長が何に結びつくかもわからない。けれど、僕が彼女にアジャストすることによって(あるいはそうしようとすることによって)、彼女が幸せを感じるのであれば、自分の身を削る価値はあるかもしれないと予感したのだ。重く考える必要もないし、弾みというものも人生にはあるだろう。勢いだって、時には必要だ。常に正しいと信じる方向に進んだとしても、それが間違っていた可能性だった十分あるのだ。ただ、人間は自分が時間やお金をかけたことに価値を見出したがる傾向がある。海外旅行がその一例だ。何十万円という大金をはたいて旅行に行くのだ。楽しくないことなんてあってはいけない。必ずそれは素晴らしい体験である必要があるのだ。自分がお金をかけて、時間をさいてそこに注力するからには、それが他人から羨ましがられるようなものでなければならない。そんな圧力を僕は感じる。

 本当はどっちだっていいのだ。

 お金を使って失敗したって、お金がなかった頃に戻るだけのこと。多大な時間をかけて取り組んだことが失敗したって、次は前回より、少しはうまくいくヒントが得られるだろう。それで万事オーケーだ。大金を使ってみて、そのお金の価値がわかるというものだし、使ってみて、大して価値がないということに気づくことだって可能だ。貯金なんて目に見えないし、普段はあっても使わないわけだから、あってもなくてもどっちだっていい。友達は財産だ、なんて言葉があるように、財産なんて大したことではないのだ。失ったお金と時間は取り戻せないかもしれないけれど、これからのお金と時間を掴みに行こう。そんな楽観的な希望的観測が、生きる望み、というものだろう。

「ディスプレイばかり見てないで、私の方も見て。」

えいりにそう言われた。冗談めかして言っている。結婚する前、彼女は、あなたにずっと見つめられているディスプレイに嫉妬するわ、なんて話したことがあったことを思い出した。

 また僕がひとりで勝手なことを考えていたから、彼女はひとり取り残されていた気分になっていたのだろう。たまにあるのだ。自分がどこかにトリップしてしまうときが。プログラムを書いている時もたまにある。気づいたら三時間、なんてこともあるし、三十分くらいしかたっていないと思ったら一時間たっていた、という具合だ。僕みたいな凡人はそれくらいが関の山だけれど、似たような経験をしたことがある人だっているはずだ。勉強に集中していて、気づいたら想像よりも時間がたっていたこともあるだろう。僕が高校生の時、数学の先生は、気づいたら一日数学していたということを話されたことがある。嘘だろ、と思っていたけれど、今の僕ならその気持ち、少しだけわかる。少しだけ。

 なぜこんな話になったのだ。

「ごめん、なんか、考え事しちゃって」

「わたしもそういうときあるけど、仕事のときも、ディスプレイばかり見ているんでしょう?家に帰ってもディスプレイばかり見て。」

「そうだね。」

「目が悪くなるよ。」

「気をつけるよ、ありがとう。」

 そうやって僕はまた顔をディスプレイに戻す。メールも書くし、買い物もするし、文章も書くし、調べ物もする。ネットの世界がバーチャルな世界であるなら、現実の正解とバーチャルな世界は、僕にとって全く違いはない。一緒のものだと考えてもいいだろう。

 こんなこと、他人には言えない。理解してもらえないだろうし、話したところできょとんとされるだろうし、話したいとも思わないからだ。こんなふうに考えるのが、僕のよくないところなのかな。他人に期待していない寂しさにうつるのかもしれない。冷たい人間だと思われるだろう。

 誰かに会ったからといって寂しさは消えない。ドラマを見ても、その主人公と同じ経験はできない。では、何をするのか。自分で考えるしかない。考えて、悩んで、自分で切り拓くしかない。寂しさと戦えばいい。戦うしかない。外に助けを求めても、自分を救うものは現れない。生まれ変わるしかない。そして、生きているうちは、生まれ変わることが可能なのだ。自分で自分を救える人間に生まれ変わるのだ。死んで生まれ変わるなんて悠長なことを言っているのだったら、死んだつもりで今すぐ生まれ変わればいい。死ぬまで一緒にいるのはほかならぬ自分である。自分の頭のなかで生み出した理想をなるべき小さくしないように現実にしてみよう。少しも楽しくなくても、生きてチャンスを待つ内に、何か起こるかもしれない。僕達には、それを必ず見つける能力を持っているはずである。

 僕は立ち上がると、冷蔵庫へと向かった。えいりは洗いものを終えて、一息つこうとしてうるので、冷たいものでも飲もうかなと思ったのだ。惚れて通えば千里も一里、千里通えば惚れてくる、なんて言葉がある。好きな彼女のために自分を彼女に捧げているのか、彼女のために自分を変えていく内に、彼女のことが好きになったのか。卵が先か鶏が先か。そんなこと誰も教えてくれやしない。どうだっていいからなのか。大切なことは、いつだって、誰も教えてくれない。学校で先生も教えてくれない。両親も教えてくれない。知らないからだ。そして、知っている人は、黙っている。静かに、穏やかに、日々を過ごしている。余計なことを話すことは、下品だと心得ているのだ。

「何飲みたい?」

「何あるっけ?」

「ミネラルウォーターとオレンジジュースとスポーツドリンクがあるね。」

「ミネラルウォーターがいい。」

「ビール飲んでいい?」

「えー、一本だけだよ。」

「オッケー。」

「ビールっておいしいの?」

「おいしいよ。」

「あんまり飲み過ぎないでね。」

「気をつけるね。」

「飲み過ぎると身体に毒よ。」

「致死量以下の毒ならセーフだよね?」

「そんなこと言うと、飲ませないよ〜?」

「ごめん、ごめん。えいりは飲む?」

「ビールはいらない。」

「アルコールはビールしかないね。」

「それじゃ今度、ワイン買っておいてね。」

「わかったよ。」

「うん、それじゃ今日もお疲れ様。」

「うん、おつかれさま。乾杯。」

「かんぱーい。」

翌日。今日も休みの日。2人でどこかにでかけることもあるけれど、今日は特にプランもなかった。そんな日があってもいいのだろう。休みの日には、みんな予定を入れたがる、と僕は感じている。休みの日なんだから、休めばいいのに。休みの日に活発に動いて、月曜日に会社で会うと、休日の疲れからか、全然仕事に身が入っていない人だっている(本当は仕事が邪魔なのかもしれない)。そういう論点で言えば、僕は人生楽しめていないのかな、なんてことも思う。きっと、それは正しいだろう。生きていること自体がもうそれで挑戦なの、だなんて女の子が言えばかわいく響く言葉も、二十代の社会人が言うと、無気力な人間に映るものだ。言葉が大切なんじゃない。中身が大切なんじゃない。重要なのは、誰が言うのか、なのである。特にプランはなくても、ただ、ゆっくりと家で本を読んでいるだけでも、不思議とお腹はすくものである。寝ているだけでもお腹はすくのだ。食事をするためにはお金が必要で、お金を得るためには働く必要がある。働くといえば昔、といっても十年くらい前の中学生か高校生くらいのときだったけれど、ある本にはこう書いてあった。

「働くというのは、(はた)にいる人間を(らく)にしてやることなんだ」と。傍にいる人間も一生懸命働いている今の環境は、もしかしたら恵まれているのかもしれないな、だなんて思うのだった。

 そう、そういうわけで、お腹がすいたので、とんかつを食べに行くことにした。

 家の近くには、チェーン店でもなく、有名店でもなく、ただ、個人経営のとんかつ屋さんが存在していた。いつか行ってみたいな、と前から思っていたのだ。とんかつを食べに行きたい時にとんかつを食べにいける、そんな経済力だけあればいい、高望みはするもんじゃないよ、というフレーズがどこかの有名な漫画で登場したそうだ。誰もが到達できそうな目標を、達成できれば十分とハードルを下げることで、読んでいる人を気持ちよくさせようとしているのかな、と僕は感じてしまう。そうか、そんな人生で十分かな、と読んでいるときには思っても、実際のところ、それで満足する人はほとんどいないのだ。毎年海外旅行に行きたいし、おいしいご飯も食べたいし、週末はどこかにでかけたいのだ。最低限の生活が確保されることが前提で、そのうえでどれだけ他人にうらやましがられる人生を過ごせるのかが重要になってしまっている。他人の目を気にせずに、自分の思想や信条を持って、それに従う。それが、幸せな人生につながるのかもな、だなんて、ほのかに感じる。

 「ねえ、ここのとんかつ屋さん、いつ見つけたの?」

「うーん、なんかこの辺を散歩しているときに、見つけたんだよね。」

「いつ散歩したの?」

「このあたりに引っ越してきた時かな。」

「そうなんだ。結構アクティブなの?」

「少し歩いただけだよ、ほら、僕、引きこもりがちだからさ。」

「そうね。そうだったわ。人間関係に難ありでした。」

「人間関係に難はあっても、自分でおいしいお店を見つける才能はあると思うんだよね。」

「どうせ調べるんでしょう?」

「調べるだけじゃないよ。調べたって、どこがおいしいのか目利きをする必要があるから。その点、僕は優秀だよ。行ったところはほぼ間違いなくおいしい。ふらっと入ったっておいしいんだ。もう、美食の神が僕の背後によりそってるよ。」

「ぞっとするわね。貧乏神も一緒に連れてきてるんじゃないの。」

「紙一重だよ。お金もまあまあ使っちゃうとき、あるかもね。」

「今、なんて?」

「なんだろうねー。」

どうでもいい会話を続けながら、僕たちは食事をした。とんかつを食べる。どんな話をしていたのかなんてどうでもいい。そんなものに意味はない。ただただ、僕は彼女といられればよかった。そんな気がしていた。永遠の愛なんて、あってもなくても僕たちは生きていくのだ。ただ、ああ、この人とだったら一緒に不幸になってもいいのかな、なんて思うことが一瞬ある。彼女も不幸になるかもしれないけれど、僕も一緒に不幸になる。お互いを嫌いになってしまうことへの恐怖を心の片隅に置きながらも、僕は彼女を愛する一瞬の記憶をたよりにして、この先、生きていくことができるだろう。

「おいしいね」

ぼくはえいりにとんかつを食べながら話しかける。

「もとくん、こういうの好きだよね。」

このまま、とんかつを食べ終えてしまうのが、もったいないと思った。


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