8.美女の涙を吸う庭
少し短いが区切りいいから投稿します。
李瑛は一人、休める所を探していた。
伯勇が年相応に悪い遊びを覚え始め、李瑛はそれに付き合わされることが多かった。
故に彼はこの妓楼にどんな休憩スポットがあるかは大体熟知していた。
「『月の庭』にでも行くかな…。」
そう一人ごちる彼は大分疲れを感じており、
伯勇のバイタリティーに感心すら覚えていた。
とはいえ女性限定で発揮されるバイタリティーなわけだが。
『月の庭』は季節毎に景観が変わる。
季節毎に咲いている花、眠っている花様々で、
来るたびに少しづつ変わっていくのだ。
李瑛はこの庭に来るのを妓楼に来る一つの目的としていた。
妓楼の軒先に掛かる六角型の宮灯や庭の池の灯篭が庭を優しく浮かび上がらせる。
まるで月のような花々がぼんやりと匂うように咲いている。
それらは清楚な美しさを放ち、まるで恥らう女性の裸身のように、白い。
白い花を好んで植えた庭、だから『月の庭』と名づいたのだろうと李瑛は思う。
また月という語は嫦娥など美しい女性を連想させるから
この庭は妓楼の庭に相応しいのではないかと思える。
茉莉花、胡蝶蘭、山茶花、白菊…。
特に山茶花が華々しい。
李瑛は手頃な岩に腰かけ、それらを堪能した。
夜風が気持ち良いので、瞼が知らず知らずに下がっていく…。
目を閉じようとして李瑛は気になる物を見つけた。
目の前に月下美人が一輪下向きに垂れ下がっている。
珍しいこともあるものだ、と李瑛は思う。
月下美人は臘月(12月)に差しかかろうとしているこの時期には中々咲かないものなのだ。
しかも開いている状態でお目にかかれることは少ない。
思わず手を伸ばし、触れる。
甘く妖艶な、傾国の美女がいそうな香りがした。
「まるで、公主様みたいな花だなぁ…お前は。」
少し寂しそうに李瑛は呟いた。
…そういえば、今頃公主様はどうなさっているのだろうか。
李瑛は心配になる。
公主については父親や祖父が話してくれたが、
普段、彼女は後宮にこもり、話し相手は妹と皇帝、身の回りの侍女位なものだという。
とてもじゃないが、外の世界に順応出来るとは李瑛には思えない。
…今頃本当にどうなさっているのだろう。すぐに見つかるとは思ってはいるが…。
もし万が一、何かあったら…。
ザァ、と李瑛は全身に冷水を浴びたような気になった。
…俺はこんなところでヤケ酒飲んでいる場合ではないかもしれない。
逃げられたショックでついつい伯勇に付き合って現実逃避してしまったが、
明日からは公主を見つけるのに尽力しよう、と彼は決意する。
その時、背後に人の気配がしたので李瑛は振り向く。
亡霊か…と思ったが…、
「…ヒッ、…り、李瑛…さ、ま?」
自分がついさっき運んだ娘…麗月がそこに立っていた。
どうしてお前がここにいるのだ、という目をしている。
動作も挙動不審だった。
李瑛は苦笑いするしかない。
…公主も、麗月さんも俺が怖いのかな?
「麗月さん、目が覚めたんですね。」
努めて朗らかに李瑛は訪ねる。
「…え、ええ、さっきは…その…ありがと。」
公主はしどろもどろになって答える。
何か避けられているような気がしないでもない李瑛だった。
「気にしないで下さい。運んだだけですから。
それよりも俺の厄介事に巻き込んでしまって申し訳ない。
馬佩は俺が濁流派の子息だから気に喰わないのでしょうね。」
静かにそういうと彼は月下美人を再び見つめる。
「…その、貴方、悪くない…馬佩、無礼…。」
「まぁ、多分あいつもプライドが高いだけなんだけど…。」
「どうして、あんなこと?」
「服を脱いだことですか?伯家に泥を塗らないため…そして家族に迷惑を掛けたくないからです。ふがいない男だとは思わないで下さいね。」
ニコリと李瑛は笑った。わざと明るそうに振舞っていると公主には分かった。
自分達を清流派だと言って気取る官僚、豪族の派閥が
最も忌み嫌うのは、彼らが濁流と呼んで蔑む宦官やその取り巻きの家系だ。
李瑛はその濁流の長たる大長秋、李靖の孫。
恐らく、伯勇と李瑛が親交を結ぶことについて清流派の面々は苦々しく思っている筈なのだ。そして伯勇は清流派最大の家門であり、貴戚の家系。
両者は本来敵対的な関係にあって然るべきなのだ。
馬佩の批判は清流派にとっては至極全うなもので、
あの場で伯勇が暴れ出したりして、馬佩を傷つけたりするものなら
批判は馬佩ではなく伯勇に向くのは自明の理だった。
李靖や李貴人は公主の父に可愛がられ、その結果李家は台頭している。
とはいえ、いつその地盤を失うかも分からず、清流派官僚、貴戚達に
に対抗できるか、出来ないかギリギリの線だというわけだ。
このご時世、清流派官僚、豪族達も権力争いで失墜していく家は多いとはいえ。
月下美人を弄る李瑛を見て、
公主は何故だか、もどかしくなった。
屈辱に耐える、というのは自分を貶めることだ。
それが出来るこの男の精神はきっと強いものなのだろう。
自分だったら、爆発していたろうと公主は思う。
ついさっきまで男への悪感情で支配されていたことを
公主はついつい忘れて、言う。
「自分をもっと、大切にする。自己主張大事。」
「…ええ、でも酔っ払いにつきあって無駄な争いをするのは無益なことです。
…それよりこの花を見てくださいよ。」
「その花は…。」
「月下美人ですよ。麗月さん。」
この花が咲くのは年に3、4回、
しかもこんな時期に咲くとは珍しいのです、と李瑛は笑う。
「綺麗…。」
公主は艶やかに闇夜に浮かぶ白い花に魅入られる。
思わず微笑みが出るが、その直後に何故自分は苦手な男という存在と一緒になって
花など見ているのだろうと疑問に思う。
公主は李瑛の方を見るが、
李瑛も公主の方を見ていた。
二人の目が合う。
「…!」
「え?麗月さん何か言いたいことでも?」
「…な、なんでもない…。そっちこそ。」
公主は少し眉を顰め、ソロリと彼から目を離した。
「あ…今、麗月さん笑ったような気がして…思わず見入ってしまいました。」
李瑛がフフッと笑って見せた。
「…わ、笑ってなど…いません。」
「いや、笑ったよ。ベール越しだろうが、表情分かるんだよ。
麗月さんの笑顔が。いい表情だった。」
「なっ…。」
愉快そうに彼女を見詰める李瑛に公主は頬が上気していくのを感じた。
李瑛の顔をまじまじと見つめる。
涼しげな美しい目が自分を見詰めている。
何故だか公主は彼の目の前にいることが恥かしくなってきた。
彼は公主が思っていたのとは違う、男だった。
春風のように穏やかな、優しげな男。
…男なのに。何故普通にこの人とは話せるのかしら。
公主は黙り込み、李瑛から体を逸らした。
「…どうしました?」
「…この庭、綺麗、凄く、綺麗。」
公主はどうにも落ち着かない自分の心を持てあまし、
花を見ることで心を落ちつけようとした。
「うん、確かに魂を抜かれるほどこの庭は美しい。
でもあまり魅入られるのは危険かもしれないよ。
…この近くには若くして死んだ妓女の墓がある。
方角的にこの庭は霊道らしい。」
「え…。」
その時、夜風が一陣吹いた。
公主は全身の血がサァッと引いて行くのを感じた。
「この庭の花々は彼女達の涙で育ったからこんなに儚く美しいのだろうか、
そしてこの月下美人は美女の魂なのだろうか…って冗談ですよ。
麗月さん?」
李瑛は公主がガクガク震え出したのを見て、心配そうに伺う。
「…本当に、本当に、冗談?」
「霊道なんて迷信だから…多分。そんなに怖かった?」
「こ、怖かった、やめて。」
「そんなに怖がるなんて思わなかったんだ。ごめん。
でも君が現れた時一瞬思ったんだ。儚く死んだ美女の霊なんじゃないかって。」
あまりに、美しかったから、と宣う李瑛の言葉に公主は言葉を失う。
「…ちょっと…貴方、疲れてる。寝る。」
「そうだな…寝ることにするよ。
でも、もう少しだけ…月下美人が閉じかけている…。」
暁の紫がかった青い空になりつつあった。
「明日になったら、公主様を探さないとな…。」
そう言って岩に腰かけ、李瑛は呟く。
ギクリ、と公主は肩を震わせる。
どうして李瑛は自分を探すなどと言うのだろうと公主は思う。
会ったこともない自分に。
「…公主様、何故探す?」
「聞いたのか?俺が逃げられ男だと…。」
「春月、から。」
「そうか…まぁ…兎に角、好きだからさ。」
二カリと李瑛は笑った。
君みたいに美しい人だといいなぁ、と冗談めいた口調で軽口を叩く。
「答えになってない、公主、あなた嫌い。」
「仕方ないさ。
でも…公主様と会ったら俺は自分を好きになってもらえるよう、努力するさ。
今日はヤケ酒に走ってしまったが、今日は今日。明日は明日。」
公主は思いだす。春月と伯勇達を訪ねた時、熟睡していた李瑛を。
酒にのまれていたのは自分が失踪したからなのか、と公主は思い至った。
『自分』は彼にそこまで固執されることをした覚えはない。
それとも自分は自分が知らないうちに彼と会ったことがあるとでもいうのか。
「公主、会ったこと、ある?」
「いや…ないが…。」
じゃあ、何故探すなどと言うのだろう。
逃げた女のことなぞ捨て置けばよい物を。
この結婚は李家と皇帝家の繋がりを作る政略ではないというのか。
恐らく…他の男と同じように
自分の見てくれについての評判でも聞いたのだろう、と公主は推測する。
…私に理想を抱いているようだけど、実際に会ったらどう思われることやら。
公主は苦々しく思った。なんだか物足りないのだ。それでは。
もっと自分の本質を愛してほしいと贅沢なことを思う。
色々考え込んでいたら、月下美人がいつの間にか萎んでしまっていた。
夜の僅かな間だけ、華麗に咲き誇り、朝日を見ない花を見て、
公主は少しだけ、切なく思った。
「李瑛、花、萎んだ。」
傍らを見ると李瑛目を閉じていた。
どうやら寝ているらしい。
「…李瑛…貴方って変な男ね。さっさと別の女性でも探せばいいのに。」
眠る李瑛に語りかけると公主はそっとその場を立ち去る。
公主は楼主の元から辞した時、
父親を始めとする男への気持ち悪さで心が一杯だった。
だから…李瑛を見た時は彼に気づかれないよう立ち去ろうと思った。
しかし話して見れば…この男は全く恐ろしい人間ではなく…。
「少なくとも黄籍とは違うようで安心したわ。」
それにしても視界に入るだけで嫌だった男という存在と何故こうして
自分は向かい合って長々話したのやら。
多分あの男が醸し出す雰囲気に余裕があるからだろうと公主は一人納得した。
「もし…父様が考えを変えなかったら
…あの男と結婚する羽目になるのかしら…。」
出奔という無鉄砲な行動をしたが、いつまで市井に紛れて暮らせるやら、
彼女には想像もつかなかった。
自分が公主である以上いつかは戻らなければならない日は必ず来るだろう。
人間には、与えられた地位に見合う責任が押し付けられるものだ。
そして公主の場合、それは婚姻だった。
いっそ、独身を貫く気楽な女官にでもなりたいと何度思ったことか。
彼女達には彼女達の苦労があるのだ、と公主はその度に自分の心に蓋をした。
「…まぁ、いいか。今はこの状況を楽もう…。
李瑛という男も…まぁ黄籍ほど気持ち悪くないわね。」
公主は李瑛のことを頭から追い出し、春月のいる伯勇の部屋へ向かった。
公主が去った庭には微かに日の光が差し始めた。
九月の上旬は家にいないから投稿しません。
遠方に働きに行きます…働きたくねぇ。