7.夜は各々に更けゆく
後漢の党錮の禁で宦官に対立したのは『清流派党人』達らしい。
この清流派官僚は儒教を信奉、もしくはそれを隠れ蓑にして宦官と対立していました。そして清流派は三国時代の『名士』(代表格は荀彧、諸葛亮等)
につながるそうですが、
名士とはいかなる存在なのかは諸説あります。
清流官僚と名士の出身層は豪族である場合が多いですが、
厳密に言うと彼等がよりどころにしていたのは
世評(郷里社会、在地社会)や仲間内の評価(名声)であって、経済的基盤とは別のところにあった
というのが面白いところです。故に彼等は少し、豪族とは似て非なるもの、かもしれません。
この小説でもそんな社会構造を真似てみてます…でも厳密な制度知らないから
そこらへんはご都合主義。
目の前でいきなり倒れ込んできた公主を抱きかかえた李瑛は馬佩に向き直った。
「話なら後で聞こう…春月さん、彼女を運ぶから部屋を貸してくれ。」
「李瑛様…すみません。私の部屋でも良いですが、使われてない部屋が近くにありますわ。」
春月はすまなそうに言うと、ついて来るよう促した。
「おい、俺はまだお前に話があるんだよ!」
座った目で馬佩が恫喝するが、
「俺はお前に用はないが。」
サラリと受け流し、李瑛は出て行ってしまう。
まるで彼のことは木石であるといわんばかりに。
妓女達が羨ましそうに抱かれている公主を見詰めている。
そんな様子を見て腹立たしさを覚えた馬佩は、
「クソッ!」
と言ってまた物に当たり散らす。
伯勇が彼を羽交い絞めにし、取り押さえた。
「お前…いつにもまして酷い有様だな。
どうしていつも酒に呑まれるんだよ。お前。
いつもの理知的なお前はどこに行ったんだよ。」
「うるさぁぁい!お前に俺の気持ちなんか分かるかよ!
あのスカした態度!どうせ科挙で一位取ったのも李家の力のくせして。あのゴミ虫!」
「…李兄は科挙なんて受ける必要ないんだよ。あいつのおじい様は
本来三公レベル以外に許されることない『辟召』する権限を持っているんだから。
ついでに朝廷に官僚を推挙することだって出来る。」
「馬家だって推挙くらい出来るわ。」
「だとしたら、お前もあいつも似た者同士じゃないか
…李兄もお前も家のステータスのために動く孝行息子だな!偉い、偉い。」
「…お前はあんな濁流貴族と付き合って家名を穢す不孝息子だな。」
へん、と伯勇は胸を張った。からかうような声音で、
「そうだなぁ、本当にお前は孝行息子だよ。科挙も『榜眼』(二位)だし、
もう本当に立派、立派。」
その言葉を聞いた馬佩はこめかみに青筋を立て、
自分の衣服を物凄い勢いで握りつぶした。
「……万年ドべから数えた方が早かったお前に言われたくないわ。
伯家の子息だと思って手加減してやっているというのに…清流派の面汚し!」
「はいはい、良く分かってますよ。榜眼さん。」
伯勇は長い欠伸をした。
「あ…そろそろ出て行ってくれないかな。折角李兄が居なくなったから
女の子と心行くまで遊ぼうと思っているんだ。無粋だなぁ…フアァァ。」
「こ…このっ。」
「…行きましょうって、馬佩殿。」
先ほど彼を制止しようとしていた気弱そうな男が彼の袖を引っ張る。
垂れ目で頬が若干落ちている中年の男は額に汗しながら彼を連れて行こうとする。
「…離せって、裴芸殿!」
「貴方が目の敵にしている李瑛はもう居ないじゃないですかっ!
困ったお人だなぁ…おい、お前達手伝え!」
「かしこまりました。旦那様。」
見れば裴芸という男の後ろには屈強なボディーガードと思しき二人組がいた。
彼ら三人で馬佩を担ぎ上げる。
「ちょっ、お前らっ!離せ!!」
「離しませんよ、馬佩殿。…伯勇殿、失礼した。」
「謝罪なら李瑛に、ですよ。
いやぁ、それにしても最初からそうして頂けると非常に助かったのですがねぇ
…それではさようなら。」
ヒラヒラと手を振って見せる伯勇に裴芸は会釈をし、彼らはその場を立ち去った。
…遠くまで響くエコーを残して。
「あのゴミ虫!濁流野郎!宦官野郎―!」
「いやぁ、李兄は馬佩から凄い熱烈に愛されているなぁ。」
クツクツ笑うと伯勇は再び、妓女達に向き直った。
「君達には勝ち目がないかもしれないね。」
「フフ、もう伯勇様ったら。」
妓女達の雰囲気が柔らかくなった。
「それにしても李瑛が居なくなっちゃって君達残念じゃない?」
「もう、本当に。」
「折角李瑛様とお話ししようと思ってたのに、ねぇ姐さん。」
姐さんと呼ばれた秋琴はそうね、残念だわぁと呟く。
「朝までお話ししたかったわねぇ。」
「ざーんねん。君達には俺で我慢して頂くしかないなぁ。」
おどけたように言う伯勇にクスクスとまた笑いが起きる。
「ええー。若様で、ですかぁ。」
「李瑛様がいいですよぅ。」
妓女達も伯勇の性格を理解しているので気軽に軽口を返す。
「さぁ、辛気臭いのはよして、君達の美しい踊りでも見せてくれよ!」
そう言って琴を引寄せ、伯勇は弾きだす。
気分転換だよ、と言って軽快なリズムを弾きだしていく。
「俺、詩は春月ちゃん程うまかないが、こういうのは得意なんだよなぁ。
春月ちゃんは知っているのか、知らないのか。」
しみじみと呟いた伯勇に、
「若様の相手は今、春月じゃなくて私達でしょー?」
「その通りよねー。」
からかうような笑い声が上がる。
「安心して。若様。春月には若様の長所アピールしといてあげるわ。」
妓女達の衣が酔いの中にあって朧げに美しく翻るのを伯勇は微笑みながら眺めた。
彼の夜はまだまだ続く。
一方、春月と共に公主を別の客間に運んだ李瑛は公主を運ぶとゼイゼイと息を吐いた。
その部屋は妓女が客をもてなす客間、寝室が連続していた。
「あの…大丈夫ですか、若様?」
「だ、大丈夫だ、春月さん。ちょっと最近重い物を担いでなくてね…。」
李瑛様は万年重い物など担いだことないでしょう?と春月は心の中で突っ込む。
李瑛は寝室に入り、公主を寝台にそっと降ろした。
丁寧に掛物をかけて、その横に腰かける。
「若様…麗月が聞いたら泣きますわよ。重いって…。」
「すまない。そういう意味で言った訳ではない。」
春月は李瑛に頭を下げた。
「本当にすみません。馬佩様があそこまで暴れるとは思っていませんでした。
あの方も普段は冷静沈着なのですが…酒に呑まれると人格が変わってしまうようで…。
秋琴には来ないように言うべきでしたわね。」
「…いいんだ。馬佩はいつも酒癖が悪いから。」
「馬佩様は貴方が来ると妓女達が自分を放ってどっか行ってしまうので、
気に入らないのでしょうね…でもそれだけ、
若様がここの妓女に好かれているということですわ。
あまり、気を悪くなさらないでくださいませね。」
李瑛は苦笑した。春月の言葉で少し硬くなった心が解れたような気がした。
「…私、念のため医者呼んで参りますわ。李瑛様も戻って下さって結構ですわ。」
そう言って春月は李瑛を部屋から追い出すと、自身も医者を呼びに行ってしまう。
部屋から出た李瑛は歩きながら今しがた運んだ娘に思いを馳せていた。
西域からやって来たという麗月という娘。
李瑛は彼女の手の感触を思い出していた。
__「やめて!」
__「どうしてこんなことするの?」
そんな言葉が脳裏に蘇る。
自分が屈辱を受けている時、止めろと言ってくれるのは伯勇くらいのものだった。
彼が屈辱を受けた後、親を始めとする周りの大人は彼に耐え忍べ、とだけ言うのだ。
だから李瑛はその言葉が嬉しかった。
ベール越しに見えた美しい目は驚愕に見開かれていたな、と思う。
「どうしてあんな情けない真似をするのか弁明くらいはしないとな…。
…ふがいない男だとは思われたくない…。」
それにまた今度彼女からは西域の話を聞きたいものだ。
「また、そのうち麗月さんと話す機会もあるだろう…。」
そう呟くと彼は伯勇達がいる部屋に向かうが…。
「よっしゃっ!やっと勝ったー!!次は秋琴の番ー。」
奇声を上げる伯勇に李瑛は目を丸くした。
「若様ったら。服を脱がせる罰ゲームなんて本当にスケベですわねぇ。
続けても大丈夫なのですかぁ?若様。もう一枚脱いだら…。」
妖艶な流し目を送る秋琴。
何事か、と見れば妓女達と伯勇は対峙して何事かをやっている。
しかも部屋から覗く伯勇の姿は半裸を通り越して履物一つになっていた。
対する妓女達は全く何も脱いでいない。
「いやぁ、俺対皆だからねー。確かに俺なんてボロ負けしてもうこのあり様だよー。」
まぁ、衵服(女性用下着で襦袢のようなもの)にまでなれとは言わないからー。
秋琴のその綺麗な胸…少しでいいから見せて下さい、お願いします。」
…あいつは一体何をやっているんだ…。
親友の下心溢れる発言とその乱れっぷりにベールの影で李瑛は腹を抱えて笑った。
先程の陰鬱な気分が全て吹き飛んだ。
「仕方ないですわね。
後がない若様に特別サービスして上着だけは全て脱いで差し上げますわ。
それにしても続けるのですか…?本当に裸になってしまいますわねぇ。」
彼女は上着を脱いだ所で胸から着る裙が残っていた。
「美女達の前で裸になるなら本望だよ。」
「そういうことなら…若様の御体すべて拝見いたしましょうかぁ。隅々まで。」
ジュルッと音が出そうな顔で身を乗り出す秋琴。
「僕はいいけど、秋琴はちょっと損するね。」
「大口叩いてられるのも今のうちですわ。」
ベール越しにちらりと碁盤が見える。
どうやら彼らは囲碁で勝負しているらしい。
しかも伯勇の多面打で。
「………。」
無言で李瑛はその場を立ち去った。
親友の屈辱の瞬間を見ないでおいてやろうという配慮だった。
それに何だか伯勇はイキイキしている…滅茶苦茶。
それに水を差すのは無粋というものだ。
適当にそこらを散歩でもしようか、と李瑛は考えた。
公主はというと、彼が去ってしばらくすると目を覚ました。
どうやら自分は別の部屋に運ばれたらしいことに気づく。
起き上がろうとして…傍らに人がいることに気づく。
その人物の顔を見た瞬間公主はビクッと肩を震わせた。
「緊張しちゃったのかなぁ?まぁ初日だからねぇ。」
そう言ってこちらを見詰めるのは妖怪の如き顔相の楼主だった。
「ヒッ……楼主…様。」
「あんた、医者の不養生、紺屋の白袴ってやつだね。
医者がぶっ倒れてどうするんだ。」
「…すみません。」
「あんたはもっと図太くなったほうがいいわね。大体のことは聞いたけど、
男に絡まれるなんてこと妓楼じゃ日常茶飯事よ!
ベール越しとはいえ、あんた随分綺麗な顔しているんだから自分に自信持ちなさいよ。
お前如きが見れる顔ではないわ位言ってみる度胸がここの女にはいるわよ!
そうねぇ…この私みたいに図太くよ。」
自分を指で指し示して笑う楼主は確かに世評から隔絶して生きている生き物といえよう。
公主は苦笑いして…春月が運んでくれたのか、と考える。
「あの…私、運んだ誰?」
いきなり外人口調かと勘繰られなければ良いが…と公主は冷や汗をかく。
自分が西域人であるという設定を忘れそうになっていた。
「李瑛様よ。」
…え、じゃあ、私が倒れた時、支えてくれたあの腕は…。
力強い腕の感触があの時、したような気がしたが…。
「…。」
「あんた幸せねぇー。李瑛様は物腰柔らかくて、妓女達にも優しく接するというのに、
肝心なところで靡かないのよ。そんな彼に抱いて運ばれるのは珍事だわよ。
そういう李瑛様は私の友人の孫なんだけどねぇ。彼、いい子よ。
おススメするわ。李瑛様はねぇ顔もいいけど、頭もいいのよ、なんせ状元様なんだから!
でも浮いた話一つないの…つまらないわぁ、さっさと結婚して孫見せて欲しい…。
馬佩だって妾に子供産ませたっていうじゃない!
あんたでもいいわよぉ?李瑛様の子供産んでくれるなら!」
李瑛のことになるとこの楼主は饒舌になるらしい。
ガッツリ李瑛を推してくる楼主に公主は顔を引き攣らせた。
「…あ、えっと、おススメ、いらない…。
李瑛……様は貴方、友人の孫?…貴方の友人って…」
貴方の友人って李靖様?と聞きそうになって公主は更に汗をかく。
来たばかりの西域人がなんでそんなことを知っているというのか?
いつかボロが出てしまいそうだと公主は思う。
楼主は懐かしいわねぇ、と呟く。
「元々私は後宮の宦官だったのよ。李靖は…いや、今は李靖様だけどねぇ、
今でこそ皇后の殿閣を取り仕切る大長秋様だけど…私と同期だったのよ。
まぁ大長秋っても、今は皇后いないから、
実質彼は孫娘のお世話係ってだけだけどねぇ…。
いいおじいちゃんだよね。」
成る程そういうことか、と公主は得心がいった。
公主の父、黄興は皇后を立てようとしなかった。
公主の母である麗銀容を皇后にしようと考えていた節があったそうだが、
麗銀容が死んでからはその意欲は更に減退し、結局名家の娘を貴人として複数人立ててはいるが、皇后になったものは一人もいない。
恐らく特定の外戚に権力を握られるのを疎んじたか…。
その中でも有力な貴人が李貴人…皇帝が寵愛する宦官李靖の孫だ。
李靖は後宮を管轄する長として、後宮全体、特に李貴人の世話をしているのだ。
だが…と公主はそこで引っかかるものを感じた。
宦官李靖は李貴人と李瑛とは血は直接的に繋がっているのだろうか。
宦官は子を成せない…成せたとしても、それは取ってしまう前。
どういうことなのだろう…と考えを巡らしていると、楼主がクスクス笑いだした。
「あの…何笑う?」
「いやぁ、本当に李靖様は凄いなと思って。
同期だったのに、麗銀容と寵を競いながら、彼女が死んだ後も
あそこまで行くんだからね…本当に大したもんだよ。
確かに元々可愛い顔してたけど。」
「ブッ…ゲホゲホッ。」
思わずむせ返ってしまった公主。
何を言われたか理解が追いつかない。
「あの…寵、競う、意味、分からない。」
「ああ…案外言葉通じると思ったけど、難しかったかな?
皇帝とぶっちゃけ、寝るってことさ。」
自分の頭を鈍器で殴られたような心地がした。
父が大切にしていた『女体図鑑』らその他諸々の如何わしい本を思い出す…。
それらはまだ立てかけてあった。
だが…その裏には男相手の体技の説明本、四国演義のスピンオフ、二次創作(男同士のもの多数)が出るわ、出るわ…。
『周輸愛公明』は同じ四国演義のファンとして許せなかった…。
「……不潔。」
顔を顰めて泣きそうになっている公主を見て、楼主も顔を顰めた。
「おや、それは宦官を侮辱しているのかねぇ。
宦官は男でも女でもない。だから後宮に入れ、皇帝の側近くに侍り、家族のように彼らに接する。皇帝にとって宦官は時に家族より近しい存在になる。
中にはそんな宦官を抱きたいと思う皇帝がいても不思議じゃないだろう?
なんせ皇族なんて家族の愛に飢えて、どこか欠落している連中が多いのだから。」
「…だとしても穢い。」
「まぁねぇ。確かに不潔感はあるけど、私達だって…中には自分から宦官になる奴や罪人から宮刑受けて宦官になる奴もいるけどさぁ…なりたくてなる訳じゃないんだよねぇ。
貧しい奴が家族を養うために、なったりするわけだ。
儒教を信奉している生まれの違う貴戚(皇帝の血縁)をはじめとする清流派や
豪族出身者が多い在野の名士には分からない話さ。
西域人のお嬢さんなら分かるだろう?」
「…分からなくはないけど、皇帝、不潔。宦官侮辱してない、ごめん。」
「…まぁ、皇帝陛下には感謝しているよ。
今の皇帝陛下が私達を引き立てて下さっているんだからさ。」
自分の顔は今とても引き攣っているのだろうと公主は思う。
混乱する頭を冷やさなければ…。
父親への嫌悪感が湧き上がってどうしようもない…。
「もう、大丈夫、ありがとう。春月、どこ?」
「春月?ああ…あんたが倒れてさ、医者を呼ぼうとしてたから私が面倒を見るって言ったのさ。伯勇様はあの子がいないと面倒くさいからねぇ。さっさと戻したの。」
「…そう、ですか。」
「もう大丈夫なら少し、外の空気でも吸っておいで。
今は特に仕事ないからね…。そうだ、『月の庭』にでも行っておいで。
とても綺麗な庭でね…私も気に入っているの。」
楼主は微笑んだ。
「この楼は『月の庭』を囲むように出来ているからすぐわかるよ。」
周瑜と諸葛亮に土下座…。