5.出会い
すみません。特に理由はないのですが、
春月の父を謀反に巻き込まれたとしました。
そっちのが、スッキリするかな、と思ったので。
春月は伯勇の訪れに溜息をついたが、
結局、仕方ないけど行くしかないわね。と呟いた。
「春月さん、行かなきゃ駄目ですか?
李瑛…殿もいるのに。」
公主が涙目になっている。行きたくないと目が雄弁に物語っていた。
麗ちゃん、と春月は公主の手を握った。
「…面紗をしていれば大丈夫だし、
何も言わず側に控えてくれていればいいわ。
それに李瑛殿を観察する良いチャンスよ
…この状況で行かない方が不自然よ。」
「…でも…。」
「それに…私事なのだけど…伯勇様が来た時はとりあえず対応しなければならないわ。
それは伯勇様の家が名声と財力を得ていて、
今のところ揺るぎない権力を持っているからなの。
伯家は唯の豪族じゃない。あの方は…何時でも私のことを見受けできる立場なのに、
こうして妓楼通いを続ける…。取り敢えず行っておかないと不安だわ。
本当に見受け話が出てくるかもしれない。」
憂鬱そうに春月はまた髪をクルクルいじりだした。
「どうしてそんなに嫌いなんですか…伯勇とかいう人のこと?」
「男嫌いな麗ちゃんに言われると、結構面白いんだけど…、
伯勇様が嫌いというより、伯家が嫌いなの。私。」
__過去に何かあったのだろうか?
公主は何があったのか聞きたかった。
だがそれが彼女の叔父である黄植の謀反に関わる話だったら、
お互いに傷つく話になりそうで踏み込めなかった。
「…そ、そういえば…伯勇様ってそういえば、三公の一人である伯善様の息子でしたね。
そういえばずっと前に亡くなられたおばあ様も伯家出身でした…。」
公主は思いだした。
彼女の祖母である伯貴人は伯善の父、伯毅の姉妹だった。
彼女は自身の姉と共に後宮に入ったのだ。
姉と区別するために、『伯小貴人』、『伯姫』などと呼ばれる
彼女は、後に皇帝になる黄興を、
そしてその姉『伯貴人』は黄植、黄堅という二人の皇子を産んだという。
ところで当時の皇后は宋氏だが、子供に恵まれなかった。
ゆえに宋氏は黄興の養母となり、権勢を振るった。
だがその宋氏も亡くなり、今では馬家や李家が台頭してきている…、
ということは公主も聞き及んでいた。
特にこの『伯貴人』の息子、黄植の大逆事件が春月の生家を没落させたのだ。
公主もこの事件のことは鮮明に覚えている。
面識の薄い叔父が惨たらしく処刑されたという知らせも衝撃的ながら
身近な者が多く連座したという事実が彼女の精神にこたえた。
自分を可愛がってくれる侍女の中にも黄植と親しくしていた家から
来ている者があったのだ。
母が死んでからすぐのこともあり、幼い公主は寝込んでしまった。
毎晩様子を見に訪ねてくる父が牀の傍に座り、
彼女の手を握っていてくれていたことを公主は思いだす。
その手は温かかった。が、何やら冷たい物がポツリと手の甲に触れた。
その感触に公主が目を覚ますと、彼女の父は涙を流していた。
「すまぬ…すまぬ…」とうわ言のように言いながら。
何を詫びているのですか、お父様?と問えば、
彼女の父は一言、「お前達に辛い思いを味あわせてしまったから」と言った…。
「そうですね…伯家は色んな豪族の姻戚ですから。
だから『清流党人』の長足り得、名声を得られるわけです。
…ということで戦地に踏み込みましょう!麗ちゃん!」
春月の発言で、公主は物思いから引き戻された。
「春月さん!」
公主が抗議するように顔をクシャッと歪ませる。
その愛らしさに春月はやられそうになったが、
ここで公主を行かせないわけにはいかない。
彼女の目的は彼女がどういう道を歩むにせよ、李瑛の人柄をまず彼女に
知ってもらうことだからだ。
そして李瑛以外の他の人間…世間を彼女に見せたいと考えていた。
そしてそれは彼女のためになると春月は信じている。
「行きましょう?麗月さん?」
春月は公主に流されぬよう、有無を言わさぬ空気を自覚的に纏った。
一方の公主は一体誰のことだ、とポカンとした表情をする。
「れ…麗月って私のことですか?」
「ええ、そうよ。宴席に行くのに、源氏名まだないでしょう?
妓女は妹分に自分の名前から一字あげたりするのよ。
だから麗ちゃんの麗と私、春月の月で麗月。…どうかしら?
駄目ならもっと考えるから。」
「…麗月…凄く素敵…じゃなくて、頼むから勘弁してください。」
名前は気に入ったけど、困ります!とモジモジする公主を見て春月は
うーん、強情だなぁと笑った。
「どうしてそんなに男嫌いなのかは後で聞かせて貰うとして、
…行きましょう!麗ちゃん。
黙って見てればいいだけなんだから!」
「お茶目そうにウインクしないでください。春月さん!」
泣き言を言う公主の袖を引っ張って、春月は部屋を出た。
「どーせ、俺は濁流貴族だよ…。それがどーした。」
李瑛は春月達が来る前に、
酒に呑まれて完全にダウンした。
伯勇が李瑛を部屋の壁に立てかけ、上着をかけてやる。
「どーせ、俺なんて…どうあがいたって…。」
寝ているというのに、寝言でも卑屈になれるものなのか、
と友人の滅多に見せない姿に伯勇は驚く。
「もっと毅然とした奴だと思ってたけど…、
案外ナイーブな奴なんだなぁ、李兄。」
頬をつきながら、伯勇は李瑛の横顔を眺めた。
李瑛は傍から見ると完璧人間だ。
容姿端麗、頭脳明晰、柔和で紳士的な振る舞い。
人が自分に求める物を理解し、それに応じた振る舞いが出来る大人びた少年。
貴戚の長、伯家の者にだってこんな傑物はいない。
李瑛は自身の偶像を作りだすことに長けていた。
だがその内実は脆い普通の少年なのであった。
「李兄、折角お前の為に沢山女の子呼んでやろうと思ったのに
…まぁ半分は自分の為だけどさぁ…寝てちゃあ、勿体ないぜ?」
伯勇がぼやきながら、李瑛の残りの酒を飲む。
そんな時、部屋の外から春月の声がした。
「入って宜しいでしょうか?」
パアッ、と伯勇の顔が明るくなった。
「春月ちゃん!待っていたよ。入って、入って。」
伯勇は喜色を露わに、春月の側に寄る。
まるで子犬が飼い主を見つけたように目をキラキラさせて。
「ねぇ、春月ちゃん。春月ちゃんのために詩を作ってきたから聞いてくれ!
詩は春月ちゃんには敵わないけれども!」
「あ…、ははは…若様。そんなに飛びつかないでください。
後…李瑛様はどうしたのです?珍しい。」
寝ている李瑛を見て春月は悟った。
__公主に逃げられたからきっと荒れているのね…。
伯勇から李瑛の話は良く聞いていたので、
彼が公主に想いを寄せていることも当然、春月は知っていた。
「うん。まぁ噂になっているから知っているだろうが、
公主様が逃げちゃったんだわ。公主様はどこに行ったんだろうね?」
「…あ、はは。き、気の毒に…。」
春月は顔を引き攣らせて笑った。
だがその言葉に大きく反応したのは彼女の後ろの人物。
「…そういえば春月ちゃん。後ろにいる子は誰?」
「か、彼女は…こう…いや、私の妹分の麗月さんよ!
西域人だから少し言葉が不自由なの!」
「へぇ…どこから来たの?」
「…。」
「…景族出身でギャサ高原の西の向こうから来たのね?」
随分アバウトな出身地になってしまったなと春月は苦笑いする。
無言で頷く公主。
「それはまた随分遠くから…。」
伯勇は物珍しそうに、公主をジロジロ見ている。
「その被り物も、西域の風習なんだ?
ちょっと顔を見せてくれないか。」
「駄目です!彼女は痘瘡にかかったことがあるから、顔を人に見せたくないんです。
後宗教上の理由からも見せられません!」
二回目だからサラサラ嘘がつけるようになってきたな、と春月は思った。
「そんな勢い良く否定しなくても…。
まぁ春月の妹分なら俺の妹分だ。よろしくな。えーと、麗月ちゃん?」
人好きのするスマイルで伯勇は手を差し出した。
「…。」
公主は彼の褐色の手を見て、どうしたものか考えていた。
無言の時間が流れ、なんとなく公主は気まずくなった。
「…えーと、麗月ちゃん?もしかして言葉が分からないのかな?」
そう言うと伯勇はおもむろに彼女の手を掴んだ。
「ヒッ、な、何を…!!」
あまりに突然で公主はつい声を上げてしまった。
「…あ、言葉少しは話せるんだね。握手だよ。握手。分かる?」
公主の動揺などお構いなしにブンブンと手を振った。
「伯勇様…女性の手を無暗に握るのは宜しくありませんわ。」
呆れたように春月が言うと、伯勇はニヤリと笑った。
「…握手ってのは色々と便利だよな。春月ちゃん。
綺麗な女の子の手を…大義名分の下握れる!」
ソロリと公主は彼の手から手を抜いた。
「麗月ちゃんの手は綺麗だね。白い魚みたいだ。
もっと触らせてよ。」
彼なりの冗談なのかケラケラ笑う伯勇。
「そういうことを言うから貴方は残念な人なのです。伯勇様。」
ジトリとした目で春月は伯勇を見詰める。
暫くすると伯勇は春月を側に座らせ、
春月に自前の詩を披露し始めた。
「…宴を開くに東君(春の神)、客舎に来たり、杯を傾け、互に祝う梅蕾開くを…。」
「いや…いいんですけど…まだ冬ですよ?梅ってまだ咲いてないですよね?
どうせならタイムリーなものを…。
それに二回も『開』という字使っているではありませんか。ルール違反です。」
「…あ、そうだった。字は直すとして…、春月ちゃんは俺の春の女神だからいいんだよ。
春の詩で。」
「何言っているんですか!」
両者はああでもない、こうでもないと詩の話を始めた。
一方の公主は寝息をスースーいわせて寝ている李瑛を眺めている。
__ああ、そういえば李瑛というこの男は李貴人様の兄だった。
長く涼やかに切れ込んだ目は閉じられ、高い鼻梁が横を向いている。
彼の妹…李柳女…李貴人は公主より一つ下だったが、
それはもう妖艶で美しくしっかり者だった。
引き籠りの公主とは違い後宮を纏め上げ、年下にも関わらず、
まるであちらが姉のようだった。
顔の造作は兄妹だけあって似ていると公主は思う。
容姿だけ見れば、綺麗な男だった。
それに加え、科挙の状元ならば女性に困ることはないだろう。
自分が逃げ出したことに少し罪悪感を抱いていたので公主は安心した。
彼には是非、他の女性と幸せになって欲しいものだ。
春月と伯勇は詩作に耽り、完全にアウェーになった公主は
何もすることがないので、ボンヤリと李瑛を眺めていた。
すると…、
李瑛の目が薄っすら開かれたので公主は慌てて目を逸らした。
「…ん?伯勇?春月さん来ていたのか…。」
「春月ちゃんはとっくに来ていたよ。酔っ払い。…気分はどうだ?」
李瑛は自分の頭に手をやって答える。
「…ちょっと流石に飲みすぎたか…でも気分が良くなった。」
「それは良かった。ところで李兄が起きたからさ、
他の子も呼ぼうと思うのだけど?」
伯勇の傍らにいた春月がササッと立ち上がった。
石のように冷たい声で言う。
「そういうことでしたら…私は失礼しようかと思います。
李瑛様も起きたことですし、若様方に水を差すわけには参りませんから。
それに他の妓女達も若様達とお話ししたいでしょうし…。」
「いーや、春月ちゃん。他の女の子はコイツの為に呼ぶんであって、
俺は春月ちゃんと話したいわけだから、行ってはダメだ。」
春月の袖を引き、座らせた。
春月は一瞬不満そうな顔をした。
「ところで…あの…貴女は?」
李瑛が不思議そうに公主を見た。
春月は今日三回目の説明をし始めた。
ギャサ…とは文成公主のチベット名らしいのですが、真偽不明。
雲揚は一応禎の都です。
劉邦の「大風歌」の「大風起き、雲飛揚す」という冒頭の一句からつけました。
後、漢詩は作者さっぱり分かりませぬ。
調べてみたら詩経、楚辞など上古の詩の形から唐代の詩まで
色んな形があって奥深いですね…詳しくなりたい。