一.灰被りの街
頬に落ちる雨のようなものに気付いて双葉大地は目を覚ました。
目覚めたばかりの視界はぼやけていてはっきりとしない。日の光を遮るように存在する何かが視界を覆っていたのも関係していた。手で顔に落ちたものを拭うと、確かに水滴が付いていた。雨ではないらしい、雨音はしない。代わりに、風のうねりと、誰かの息づかいが近くに感じられた。
また、頬に何かが落ちた。
温かなそれは、視界を覆う小さな影から落ちてきた。
小さな影は少女だった。学校の制服を着たおかっぱ頭をした少女。見慣れた筈の少女だった。
けれど、咄嗟に名前を呼ぶことができなかった。少女が涙を流していることに気付いたからだ。頬に少女の涙が落ちる。膝枕という格好だから自然と少女の涙は重力に落下して大地の頬を濡らす。
何かいけないことをしただろうか。大地は自問した。
少女に泣かれると大地は、自分がどうすれば良いのか判らなくなってしまう。慰めればいいのか、ただ黙って少女が自分を取り戻すのを待てば良いのか。判らなくなってしまう。
半身を起こすと、うなだれるように少女は大地に体重を預けてきた。
「咲花」
名前を呼ぶと、嗚咽で返してきた。怪我でもしているのかと心配したけれど、怪我をしている様子も無い。
少女は理由も告げずに泣いていた。
大地が無関係なら慰めてもらう為大地の側に来たのだろう。それなのに少女は大地の傍らで声もかけずに泣いていた。
大地が無関係でないなら大地に感情をぶつける為に大地の側に来たのだろう。それなのに少女は大地の傍らで声もかけずに泣いていた。
悲しくて泣いているのか、安心して嬉しくて泣いているのか、それすらも大地には判別が付かなかった。
理解が追いつかないことばかりだ。
学校で授業を受けていた筈だった。大地の記憶の中では、意識を失う少し前まで学校の授業を受けていた筈だった。それは一学年下で違う学校に通う咲花に対しても同じことはいえる筈だ。
記憶が確かなものだという自覚も在る。その証拠に大地は学校の制服を着ていた。
しかし、今では屋外にいる。地に放りだした手は確かなアスファルトの冷たさを感じていた。
此処は何処なんだ。
世界は灰色に満ちていた。
一見して街に見えた。何処かで見たような風景だった。
見慣れた風景でも決定的な部分が普段と違っていたら全く別の風景として認識される。見慣れた文字でも逆さまになっただけで目で追うのに苦労するように全くの別のものとして認識される。
其処はありとあらゆるものが灰を被ったように色彩を失っていた。
ガラスの鏡面すら鈍色になったビルの類いが巨大な墓石のように見えたし、点滅することさえやめた信号はまるで三ツ目の案山子だ。
此処には在る筈の音がない。人のざわめきが欠如していた。
此処には在る筈の人垣がない。人の存在そのものが欠如していた。
遠方のビル風が茫々と鳴く音さえ聞こる。
大地は自分が交差点の中心にいたことに今更ながら気が付いた。背中を向けていた方向を見る。
色彩を失い、今にも剥がれそうな巨大な広告が目に入る。
駅の看板。
一両分もない短い電車。
犬の銅像。
大地が何度も目にしていたものだった。
色彩はない。
全ては元からそうであるように鉄と銅を混ぜたような鈍色をしている。
けれど、目の前に在るのが記憶に在る『あの駅』の姿に違いなかったし、大地が見ている景色が『あの交差点』から見た景色と瓜二つなのは間違いなかった。
渋谷駅。スクランブル交差点。
そう気が付くと、普段見慣れてきたそれらとの違いを意識してしまう。色彩の失った灰色の街の異様さ、人がいないことの異様さにぞっとするような悪寒を感じた。
少女は大地の胸の中で声も上げずにいる。誰もいない灰色の街の中心で少女がすすり泣く声が小さく響いた。
「咲花、この街はなんなんだ。何か知っているのか? そもそもなんでお前は――」
――泣いているんだ。そう問おうとして、大地の制服に顔をつけて首をふるふると振るってかぶりを振っている姿を見た。
ダメだ、咲花は応えない。
困った。泣いている女の子を置いて周りの様子を見に行く訳にもいかない。
その時、地響きを感じた。怒号のような何かの唸り声も。
「ウソ、だろ」
頭上を見ると、109のビルの屋上から巨大な蜥蜴がトラック程もある頭部を覗かせていた。
大地たちを丸呑みにできるくらい巨大な顎を持った蜥蜴は緑の鱗で覆われた巨体をくねらせ腕と一体化した翼を羽ばたかせる。
片目に傷を負った隻眼の飛竜だ。
傷を負っていない方の眼で大地を視認すると、隻眼の飛竜は涎を垂らし、腹の虫の声を盛大に鳴らした。
「咲花、逃げるぞ! 走れ!」
咲花の手を引いて逃げ惑う。
走る。
走る。
とにかく走る。
咲花も必死で足を動かす。
背後に猛烈に追いかけてくる巨体の威圧を感じながらかけ、地下街へと続く道を目指した。
距離にして百メートルに満たない道がとにかく長く感じられた。
飛竜の牙か爪がアスファルトを削る音が間近に感じられ、その音が動悸を高鳴らせ、飛竜の咆吼が頭に血が上る程の危機感を大地に与えた。
死そのものである必殺の飛竜の巨体を背後に感じながら、大地たちは命からがら地下に逃げることができた。
双葉大地という肉体の中には自分というものがない。
親から求められる素直で活発な双葉大地。
同級生から求められる話しやすく調子の良い双葉大地。
教師から求められる真面目で勉強熱心な双葉大地。
周囲が求めるそのどれもが本当の自分だと思えなかった。かといって、それ以外の自分がこの肉体の何処を探しても在るとも思えない。何者にもなれるが何者でもない、例えるなら元の色を忘れたカメレオン。それが自分自身だと大地は考えている。
だからこそ、相手が求める最善の自分を数在る双葉大地から選び取り出すことが得意になっていた。当たり前になっていたし、それしかできないと大地自身考えている。
けれど今は、年下の幼なじみである咲花の考えが判らない。長く一緒にいた筈なのに判らなくなっていた。咲花の求める自分は一体誰であればいいのか判らない。過去に咲花の前に立っていた双葉大地がどんな性格のどんな人物なのかさえ判らなくなっていた。色を忘れたように、そう在るべき表情も忘れてしまった。
風に乗って入ってきただろう砂と埃で汚れた地下街をただ足早に進む。地下街の中は外の風景と同じように床も壁も天井も鈍色になっていた。電気も消えていて普段の景色と違った雰囲気が在る。
「咲花、大丈夫か」
平素の表情を作り切れていないだろうことを気取られないように、何とか声を発した。
「……うん、大丈夫」
咲花は短く応え、大地の胸の中に飛び込んできた。
咲花は顔を大地の胸元に押し付けて離れない。
何なんだ、今日は。
目の前の少女はこんな少女だっただろうか。と疑問を感じた。
といっても、此処数年に関していえば大地は同性の友達と遊ぶ方が多くて年下の異性である咲花とは疎遠だったことに気がつく。記憶の引き合いに出せるのも子供の頃のことでしかない。
子供の頃、良く遊んでいた頃はそういえば咲花は泣き虫で、泣き顔を誰かに見せるのを嫌がって、彼女の母親に対して今の大地にしているように胸元に抱きつくことをしていたかも知れない。その母親も、咲花の父親と共に旅行中の事故で今は亡くなっている。
咲花にとって涙を見せられる相手が長い間いなかったのかも知れない。
もっと会話しやすい距離感にしたくて、咲花を引き離すことにする。
しかし、咲花は顔を大地の胸元に押し付けて離れない。それは結構な力を入れても同じだった。恥ずかしがっているにしても、様子がおかしい。
まさかな。と思って咲花を引っぺがすと、購入して一月も経っていない学生服に鼻水がひっつき、見るも無惨に汚されていた。
「咲花、ちょ、てめぇ。――あっ、取れねえし」
咲花は咲花で、顔を真っ赤にして鼻を押さえていた。どうやら、ずいぶん前から鼻水が垂れるのを我慢していたらしい。
「咲花、まずは鼻水をちんしろ」
ポケットに入っていたティッシュを咲花に差し出すと、咲花は日光の猿のような勢いで袋ごと奪い、大地に背を向けて豪快に鼻を鳴らした。
「ありがと」
振り向いたかと思うと、声を聴かれるのも恥ずかしいといいたげに小さく感謝を口にした。
咲花は大地のポケットティッシュをさも当たり前というようにポケットにしまおうとする。
「だー! 返せ! せめて、てめぇが汚した制服拭かせろ」
閑話休題。
「で、だ」
咲花は頭に疑問符を浮かべる。何、とさえいう。
――何もヘチマもないだろう。
泣いていた理由を切り出したかったが、なんというか、泣いていた事実さえ忘れている咲花に、今更それを訊ねるのは気が引けた。
「咲花、この街はなんなんだ。何か知っているのか?」
「知らない。学校にいた筈なのに、気がついたら此処にいて。心細くしていたら近くに大地君がいるのに気付いて」
それで今に至るということか。
思い出したのか、またも咲花は目元に涙を浮かべて、大地の胸元に向かって抱き付こうとしてくる。
「や、め、れ」
「あーうー」
抱き付こうとしてくる咲花を手で拒絶する。いつまでも小学生や中学生の頃の距離感でいられると思うなよという意味合いを込めてのことだったが、咲花は何処か楽しそうだ。
状況がさっぱり理解できないことは理解できた。周囲の状況をもう少し確認する必要が在りそうだ。
「咲花、何か役立ちそうな物持ってるか? 携帯とか。ちなみに僕はポケットティッシュと財布くらいしか持ってないんだけれど」
ズボンのポケットから言葉に挙げた二点を取り出して見せる大地。財布の中身は千円に満たない額が入っているだけだった。他に、上着のポケットに生徒手帳とハンカチが入っていたが、今役立ちそうなものは何もなかった。
「私、元々携帯持ってない。財布も鞄の中」
「拗ねるな。今役に立つ物を持っていないのは僕も同じなんだから」
「持っているといえば、一つだけ肌身離さず持っている物が在るけど……」
「何だそれは」
「これ!」
咲花が胸元から取り出したのは、手のひらに収まるような小さな十字架のネックレスだ。
大地にとっては見覚えの在る物だった。
敬虔なキリシタンだった咲花の両親が、娘に残した形見の品だ。
咲花は両親に甘えたい盛りの頃にその対象を失い、以来十字架を両親のように思い、とてもとても溺愛している。
今だって、ただ取り出すだけで良いのに、取り出した十字架に頬ずりをしている。
「エミエルぅー、お前は本当に可愛いねえ」
エミエルというのは十字架の名前らしい。
咲花も大地と同じように、今役立つようなものは何も持っていないようだった。
「公衆電話使えないよな。電気通ってないくらいだから。まずは食料調達して、人を探そう」
考えたくはなかったけれど、現在の状況を脱するのに数日はかかる気がした。それも楽観した考えで、正直いえば、何日かかるか想像もつかなかった。食糧確保は必要に思えた。
立ちどまって解決する問題とも思えなかったので、歩みを進めることにする。
地下の構造は大地が知っている渋谷駅の物と同じだった。電気が通っていない為に道は暗く見知った景色とは大分違っていたが、段々過去に通ったことの在る道が判ってくる。
最初の頃は日の光の届かない処を避けて歩いているだけだったが、目標を定めて歩くことができるようになっていた。
地下街を歩いていて気が付いたことが二つ在る。
人が通った跡が在ること。そして咲花のことだ。
地下街には、換気の行き届いていない篭もった空気に満ちている。しかし、自動ドアが割られていたり、砂やほこりにくっきりと何人かの足跡が残っていたりと、人が通った形跡が残っていた。足跡が最近の物かどうかを判断する能力は大地にはなかったが、何処かに大地以外の人間がいるというのは間違いなかった。
もう一つは、咲花の意外な一面について。咲花はまだ中学生の女の子なので、もっと暗闇に対して怖がっても不思議ではなかったけれど、あまり怖がる仕草を見せずに大地に付いてきた。暗闇の奥に在る売店を大地より先に見つけたのも咲花だった。
「これで食料が手に入るな」
幸運なことに、誰かが荒らしたような様子はない。
大地は鈍色に光るガラスのケースから鈍色のペットボトルを取り出す――と、次の瞬間には霧散した。
力も入れていない、ただ掴もうとしただけなのに飴細工のように簡単にひび割れ、煙となって消えてなくなった。
この手の中にはペットボトルが確かにあった。けれど、何の形跡も残さず消えてしまった。
容器が脆かったという問題ではない。中身ごと空気の一部として消えてしまった。
隣にあったエナジードリンクを掴むと、同じように鈍色の煙となって霧散した。
別のメーカーの飲料水も同じだった。
飲料水どころか固形携帯食料やスナック菓子も、手で触れると瞬時に形を崩し空気に消えていった。
信じられない。
この世界は僕たちの知る世界じゃない。
飛竜から極力離れたかった為、自然と足がハチ公口の反対側である東口へ向かっていた。
無傷の自動販売機や誰も手をつけていない食料品街が目に入ったけれど、鈍色の個体は触れた瞬間に消えてしまうことが判ったので、近づく必要がない。
大地たちがこの世界に持ちこんできた物、例えば着ている制服やポケットティッシュは元の世界の物と変わらない色彩を持っている。それらは触れることができる。
けれど、この世界に持ち込んだもの以外は全て、鈍色をした別の何かで、大地たちでは触れることさえできない。
「待ってよ、大地君。速いよ」
「悪い、咲花」
状況に混乱していて、咲花に対する配慮を忘れていたらしい。
いつの間にか早足で歩いていたようだ。
「これから、どうするつもり?」
「人を探す。可能なら食料を分けてもらってこの街を出る」
「人をどうやって探すつもり? 都合良く食料なんて手に入らないよ。それに、この街を出たらその後どうするつもりなの? 地上に出たらドラゴンさんだっているんだよ。無謀だよ」
「……どうやって、って訊くなよ。……その後どうするつもり、って訊くなよ。行動しないと、今何か行動しないと、いつまでも僕は立ちどまってしまう気がするんだ。暗い地下道で誰かが助けてくれるのをただ待ち続けて、都合良く誰かが来るのを待ってしまうのが判っているんだ。自分が焦ってるって判ってるんだよ。考える時間も必要だって判ってるんだよ。でも、一度立ちどまると全ての現実投げ捨てて逃げ出したくなるんだよ。だから行動しなくちゃ。足をとめたら自分が壊れてしまう気がするんだ」
異常な状況に簡単に適応できるなんて人間は嘘だ。
大地にとって、ドラゴンなんて架空の物でしか在り得ないし、異世界に突然来てしまうなんて現実的ではない。
異常な状況で、常に正常な判断ができる人間なんていない。
人は異常な状況の中では普段と違った異常な行動を取ってしまう。嘆く者もいるし、周囲に当たり散らす者もいる。自分には無関係だと現実逃避する者もいるだろう。そうやって自身の精神という天秤を安定させようとする。
精神を安定させる為の感情として、大地には焦りが現れていた。
咲花にとっては嘆きだったのかも知れない。今は冷静に見えるが、人前で泣くなんてやっぱり普通じゃないと大地は考える。
状況がおかしいと、対象のない怒りも芽生えるし、苛立ちもする。
咲花が大地の考えを否定したのも、それらの感情からだといえるし、大地が年下の少女に弱音を吐くような普段はいわないことをいったの原因は同じ処から来ていた。
「とにかく、頭に血が上ってるよ。冷静になろうよ。作戦立てようよ。自分でかってに状況判断して、一人で走って行くってひどいよ。私もいるんだから一緒に話し合って決めようよ」
「年下の女の子、しかも『あの』咲花にそんなこといわれるとはなあ」
「『あの』、ってどういう意味?」
『あの』泣き虫の少女が、いつの間にか自分を支えようとしてくれている。そう思うと、大地の心の中にくすぐったいような今までにない気持ちが浮かび上がった。
「咲花、悪かった。心の何処かで自分一人で解決しようって考えてる部分があった。二人いるんだから二人で乗り切ろう」
「そうだよ。地上にはドラゴンさんがいて逃げ場ないし、水もなければ食料もないんだから二人で協力しなきゃダメだよ」
「口に出すなよ。背水の陣で志気が上がるのは物語の中だけだからな。きっと」
そうだ。大地はひとりじゃなかった。咲花と協力して現状を打破することにしよう。
「まずは作戦を練ろうよ。此処から逃げ出すことと、誰かしら人と接触するのは必須にしても。暗闇の地下鉄を歩くのは危険だし、地上にはドラゴンさんがいるよ。ドラゴンさんが興味を失って外へ飛び立つのを待つのが鉄板じゃないかな」
「ドラゴンじゃなくて、正確には飛竜な。食料や水の問題も在るし、夜になるまで此処で待つことになったら、今度は野犬や別の敵の心配をしなければならない。食料ないのに長期戦は避けたい。強行かも知れないけど、建物の中や間を進めば、飛竜の死角になるし、逃げ切れるんじゃないか」
「建物の中だと、その飛竜さんに建物ごと壊されたら生き埋めになっちゃうよ。それに、逃げた先に何が在るのかも判らないのに、外に出るなんて無謀だよ」
「それだ!」
「え?」
「今、『逃げた先に何が在るのかも判らないのに』っていっただろ、その通りだ」
「え? え?」
「ドラゴンから逃げるも必須。人と接触するのも必須。となると重要なのは情報収集だ。地上に上がるぞ」
「でも、飛竜さんがいるよ」
「外に出る訳じゃない。ビルの上の室内から、状況を確認する。今、飛竜は僕たちを見失っている筈だし、飛竜に気付かれずに相手の位置を確認することが可能だ。逃げるべき方向も判るし人がいれば視界に入るかも知れない。行こう、咲花。君がいるおかげで、最善の行動が取れるよ」
大地たちはかけた。目指すはとにかく上。
ビルの内部から地上が見渡せれば、それで良かった。とまっているエスカレーターを階段代わりに昇り、上を目指す。
途中から、ガラス越しに外の風景が目に入った。
飛竜は元いたビルの場所にも、大地たちが最後に飛竜を見た地下街の入り口にも姿を見せなかった。
遠くに飛び立ったんだと楽観した処で、楽観が脆く崩れる。
飛竜の咆吼が耳に入った。室内からでも確かに感じられる質量。
『今もお前を狙っているぞ』
飛龍の咆吼が大地にはそう聞こえた。
エスカレーターをさらに登っていくと、ビルで死角になっていた外の風景が目に入ってきた。
結論からいうと、灰色の街は無限に広がっていた訳ではなかった。
向こう五キロといった処だろうか。途中でプツリと街が途切れていた。
その先にあったのはのっぺりとした闇色の平面。
けれど、闇色の平面は何処までも続いている訳ではない。
森が遠くに見えた。日本にはない切り立つ山も見えた。
大小様々な円の形で、大地たちのいる街とは違った世界が広がっていた。空飛ぶ城も視界の端に在る。
森や山には本来の色彩があった。異質なのは、鈍色に色彩を失って闇色の地面に生まれたこの街の方だ。
大地と咲花が迷い込んだのはそんな世界だった。
「大地君、彼処」
咲花が指を差す方向に目を凝らすと、何か動く物に気が付く。大地たちがいる建物からそう遠くない距離にアスファルトで覆われた地上を歩く二つの影が在った。
ビル群の濃い陰と距離で顔までは判らないが、見間違いようがない。
人間だ。
飛竜を警戒しながら灰色の街を動いているのが判る。
目的は判らないが、この街から離れようとしているようには見えない。向かう先は逆で、渋谷駅の中央部を目指しているように見える。或いは横断しようとしているのかも知れない。飛竜のいるこの街を何故通るのかは不可解だけれど、これはチャンスだと大地は思う。
うまく合流できれば、情報が手に入るし、食料や水だって手に入るかも知れない。
飛竜の姿が見当たらないのが気になるけれど、例の二人組がいつまでもこの街にいるとは限らない。
「咲花、合流するぞ。異論はないな」
声をかけたが、咲花の表情は暗く返事はなかった。
異世界にいると実感せざるを得ない景色を、まざまざと見せつけられた為かもしれなかった。
「とにかく彼らの処へ向かおう」
今度は転げるように地上を目指す。
上に登ったと思ったら、今度は下か。右往左往ならぬ上往下往だなと独りごちる。
急がなければ、二人組が何処かへいなくなる前に。
かといって、不安も在る。
助けてくれ、と声をかけたとして、彼らが友好的であるとは限らない。
下手したら、身ぐるみはがされることだって考えられる。
立場を逆転して、仮に大地が家族と車でドライブ中に空腹のヒッチハイカーが現れたとして、助けるだろうかと考える。持っている水や食料が欲しいといわれて、相手の要求にただ応えるという訳には行かないだろう。
世の中ギブアンドテイク、与えられたらそれ相応のものを返さなければならない。
今の自分たちに何か相手の要求に応えるだけのものが在るだろうか。
悩んでいる間に、地上一階に着いてしまった。
足音も、ツーブロックと離れていない距離に聞こえる。
「まずは、相手の目的を知ろう。もしかしたら、利害が一致するかも知れない」
口に出したものの、一致するような利害なんて思いつかない。
ただ単に、助けを求める相手を選り好んでいるだけだ。もう次はないかも知れないドライバーなのに、うまくヒッチハイクされる為に慎重になっている。
相手の会話が聞こえてきた。
男女のペアーだ。
女性の方は声が若く少女の声質と思って間違いなかった。
一方、男の方は声をかける少女に対して短くしか応えない。
何かを探している様子だ。飛竜しかいない灰色の街で何を探すっていうのだろうか。
足音を殺して、姿を確認できる場所へ移る。
頭に王冠を乗せた背の低いロリータファッションの少女。
そして、黄色いパーカーを着た金髪の青年。
少女の方は、王冠の他にマントも羽織っていて小さなプリンセスといった見た目だ。
かといって青年の方は、王子にも騎士にも全く見えない。短く切り揃えられた金髪が印象的な寡黙な男だ。黄色いパーカーには何か英字のデザインが施されている。
何処かの雑誌から出てきたといわれたら納得してしまう、そんな雰囲気の二人組だった。
けれど。
少女は気が強そうだし、男の方は間違いなくヤンキーだ。
人が良さそうには見えない。
かといって、声をかけない訳にもいかないし。
逡巡して、助けを求めるつもりで背後にぴったりついていた筈の咲花の方を見ると、遠くの隅の方で丸まっている。
「そんなにヤンキー嫌いか」
思わずツッコミを入れていた。
「誰だ!」
鋭利な声が反響する。
金髪の青年に見つかったらしい。
誰何の声に対して、応じない訳にもいかない。
咲花に、座っていろとジェスチャーを伝えて、大地一人で立ち上がる。
両手を頭より上に上げて、敵意はない、と示している時点で、自分のことながら恥ずかしく思った。
「敵ではありません」
敬語なのもどうかと思ったし、出てきた言葉も無味無臭で、さらに恥ずかしさが積もる。
少女の方は必要以上に驚いている様子だった。
それ程までに、この街に誰かがいるとは考えていなかったようだ。
「混乱するかも知れないけど聞いてくれ、実はこの世界に迷い込んで右も左も判ら――」
「静かに」
鋭利な声が大地の心に突き刺さる。
他者の言葉を快刀乱麻に切っておきながら、目の前の金髪は別の方向を見ている。
目を合わせたくないくらい僕の話を聞くのは嫌か、と大地は不満を感じた。
しかし、少女の方も真剣な眼差しで同じ方向を見ていたので、そもそも関心がこちらにないのだと感じた。
二人組の関心は別の方向、中空の一点を見据えていた。
中空に黒い円があった。
円は少しずつ拡張していく。立体で構成される世界に生まれた異質な平面は一定の面積になると拡張をやめた。こちらの世界に鈍色の非定型な泥状の何かを押し出すと、音もなく消えた。
泥は選ぶように色を持つ。緩慢な所作で盛り上がると安定した姿を形作り始め、胴体から四肢を生やした。見覚えの在る形だ。
「矮小竜」
ロリータファッションの少女がつぶやいた。
なるほど確かに彼女のいうように模られた泥の塊は竜の形をしていた。フェアリーというには大きすぎる象程の大きさの竜。鱗などは生きている爬虫類のそれだった。
「悪いのですけれど、私達は貴方たちに関わっている余裕は見ての通り在りません。今のうち逃げておくのが得策です。仲間を連れて逃げなさい」
咲花がいるのを知っているような口ぶりに驚いている間もなく、拳大の火球が大地と少女の間を遮り、続く火球が大地たちを襲う。余裕を見せながら避ける少女と金髪の青年。十個程飛来してきた火球が大地の左脇腹と右脚をかすめた。
矮小竜がやってるのか。
見れば、矮小竜の目の前の空間にいくつもの火の玉が生まれている処だった。
両足を地に付け、踏ん張るような姿勢で火球を生み出す。大地は固定砲弾を連想したし、より身近なものでバッティングセンターに在るピッチングマシーンを連想した。
あんなもの、一度狙われたら近づけないぞ。
二人組は大地から離れた方向に在る壁へと一旦退却する。
大地も二人組をみて、手近な壁になるものを探す。
思ったより右脚へのダメージが大きかったらしく走れそうにもない。転がるようにして矮小竜の死角になる処へ逃げる。
「大地君、脚!」
「咲花、無事か」
ずっと矮小竜の死角にいた咲花は無事なようだ。
「そんなことより、大地君の脚が」
「へ?」
顔を青くして泣き出しそうになっている咲花の視線の先を目で追うと、大地の右脚に行き着いた。
かすめていたと思っていた火球による一撃が右脚の肉をえぐり、骨を露出させていた。
「遠距離攻撃なんて正道に反します」
ロリータファッションの少女がむくれたようにつぶやくと、火球の一部がそのすぐ脇を通過した。
「……ベル、無駄口叩くな」
金髪の青年は左手を右手の手首の辺りチェーン状のブレスレットに手をかけ、力に任せて引きちぎった。
「……『解放』『束縛蛇』」
ブレスレットとしての役目を全うできなくなった鉄の塊は、地面に落下し切る前に光を放ち消失した。
代わりに現れたのは蛇だった。矮小竜の近くに黒い円形の平面が生まれ蛇が現れた。
矮小竜の体の周りに細く異様に長い蛇が出現すると、矮小竜を締め付け、火球を放出する魔法の術式を中断させる。
今度はベルと呼ばれた少女の方が、鞄からトランプのようなカードの束を取り出すと、絵柄を広げて見て、一枚取り出した。絵柄には装飾麗美な馬上槍が描かれている。
「『出現』」
平面であるカードが絵柄そのままの巨大な鉄の槍を立体の世界に吐き出し消失した。
吐き出された大型の槍は重力に従い、見た目そのままの質量を地面にぶつけ、重たげに転がる。
馬上槍、質量も大きさも大の大人程は在りそうだ。
金髪の青年がまるでフェンシングの最も軽い武器フルーレを持つかのように軽々と馬上槍を持ち上げ握りしめると、流れるような動作で地面と水平にし、両手に持ち替え、拘束した矮小竜の方へと身構える。
熟練された達人による刺突。
力強い踏み込み、正確無二のタメ、安定した槍筋。
突進した勢いそのままを堅い鱗で覆われた矮小竜の首へ突き立てる。
「『解放』『冷徹な連撃』」
槍が消え、代わりに先程の槍の倍はある巨大な氷の槍が三つ空中に生まれた。
一撃一撃が必殺となる氷の槍が一斉に矮小竜に襲いかかる。
必死の抵抗で火球を作ろうとするが、蛇に邪魔されそれも叶わず、矮小竜は息絶えた。
「すごい、何者だアイツ」
魔法を使う竜、呪文と共に現れた蛇や槍にも意識が行かず、ただただ金髪の青年の姿に意識が奪われていた。
「大地君、意識をちゃんと保ってて」
状況は変わらない。右脚はすぐに治るようなものに思えないし、実は左脇腹の方が右脚よりずっと悪い。
咲花の前なので平素の振りをしているつもりだ。深刻な事態に頭がついてこられていないとは大地自身気付いていなかった。
僕は此処で死ぬのかな。ふとそう思うと、涙がでてきた。
頭が追いつかないだけで、感情は正しく今の状況を感じ取っているようだった。
咲花は片手を取り出し大地の手を握ってくれた。
もう片方の手は祈りを捧げるように、或いは神に助けを求めるように十字架をぎゅっと握りしめている。もしかしたら、咲花自身も自覚のない所作なのかもしれなかった。
「咲花が死ぬ訳じゃないだろうに」
「大地君が死んじゃったら、自分が死んじゃうよりずっとずっとつらいよ!」
軽口しかいえない自分を呪った。
大地は咲花にこんなにもつらそうな顔をさせるつもりはなかった。
咲花は幼い頃に両親を失っている。近しい人間を失うことの悲しさを幼くして経験せざるを得なかったのが咲花だ。その時期を良く知る大地が、同じような経験をさせる側になるとは思いもしなかった。
「大地君には生きて欲しい。あんな経験、二度目は耐えられないよ。大地君を助ける為だったらなんだってするし、この命だって惜しくないんだよ。本当だよ」
大地は気管に入り込んだ血液を口から吐き出す。
意識が遠のき、死の実感が今頃になって嗚咽となって表面にでてきた。
「大地君!」
咲花の叫びと共に、その手の中の十字架が光を発つ。少なくとも死にゆく大地にはそう見えた。
目を閉じることにした。覚悟を決めたと取ってもらって良い。
不思議と全身の痛みが和らいでいった。
痛みが完全に消え、感じる感覚が咲花の手の温もりだけになると、その温もりが全身を覆うような錯覚を覚えた。
大地は、死ぬってこういう暖かなものなのかと考えた。
考えた後、さらにじっと考え、ズボン越しに床の冷えが気になるようになり、咲花が大地の名前を呼びながら胸元に抱き付いてくる感覚で確信した。どうやら生きているらしい、と。
嬉しそうに大地に抱き付く咲花の姿が目に入った。
手で脇腹をなぞると確かに在った筈の傷が消えていた。右脚も動かせるし、痛くもない。
「どうなってるんだ?」
「エミエルだよ。エミエルが奇跡を起こしてくれたんだよ」
咲花の手には十字架が握りしめられている。そんなの、魔法以外では説明つかない。
「咲花、お前、魔法使いだったのか!?」
力の限り首を横に振る咲花。何処か怪しかったが、そんな筈ないかと大地は考えを改めた。
「回復魔法!?」
突然の声は背後から来た。ベルと呼ばれていたロリータファッションの少女だ。
少女は大地たちと目が合うと、こほん、とわざとらしく咳払いを一つした。
「お怪我は在りませんか?」
危険は過ぎたので取り敢えず様子見に来たという体で、ベルはいう。
とても、野次馬根性が働いて声を荒げて駆け寄ってきた人物とは思えない。戦闘前に見せた大地たちを軽視していた事実も思考の何処かへ行ってしまったようだった。
「怪我はしてたけど、この通り治ったよ」
「おおー! すっげー!」
少女の柔らかな指が脇腹をなでる感触にしばし耐える。
ベルの言葉遣いが、先程までの深窓の令嬢然していたものではなくなっていた。八重歯も見せて無垢な笑顔を浮かべるベル。
もしかしたら、こっちの方が『素』なのかも知れないと大地は考えた。
目が合うと再度、こほん、と咳払いをするベル。
「お困りのようなのでヒントを」
取り繕うように、ベルは続けた。
「もしも貴方がこの世界に来たばかりの初心者でこの世界のことが知りたいのでしたら道玄坂を登った処に在る教会を目指しなさい。其処にいる神父なら暇を持て余している筈ですから、もしかしたら貴方たちの力になってくれるかもしれません」
「ベル、行くぞ」
「待ちなさい、LA。……私達はこの街でしばらく竜殺しをしています。最終目的は飛竜の肉体から取れる極上の宝石『竜の心臓』ですけれど、当分は様子見をするつもりです。またお目に掛かる日までごきげんよう」
ピエロを連想させる慇懃な手振りで頭を垂れると、ロリータファッションの少女は軽快な足取りで金髪の青年の後ろをついていく。
金髪の青年は背中を向けて去っていた。まるでパーカーに書かれた英文字『LA Don’t ♡ U(LAはお前が嫌いだ)』を大地たちに見せつけるかのように。
もう出来上がっているものなので、短期間に、ずらずらとあげていく予定です。
感想やアドバイスなどありましたら是非。
また、下記URLで別企画進行中です。創作活動興味ある方はお声がけください。
http://kakikichi.com/neta/
以上。