ACT 2-5
山田悠里の愛車は二年前に発売されたGPZ1100である。並列4発でありながらスリムなボディ、マイルドな加速と、少ないGは乗りやすさを実現している。しかし、高いシートと横幅広いシートは女性には若干乗り辛い。そこで、彼女は独自の改造を施して、少し調整している。逆に言えば広いシートはゆったりとした乗り心地を実現する為、別に悪くはないと、彼女自身は思っている。
装着しているオプションは、ひとつ。サイドカーのみである。これは友人などを乗せる為に購入したのであるが、あまり使わないので殆ど新品同様の輝きを放っている。
そんなサイドカーも、今日は乗客を乗せて上機嫌のようだと、悠里は思っている。久しぶりに乗せた人間は、ヘルメットをかぶり、少し恐怖で顔を強張らせながら必死にサイドカーにしがみついていた。
「バイクに乗るのは初めてか?」
赤信号。ヘルメットのフェイスガードを上げて悠里は乗客に問うた。
乗客である優愛は、一回だけ頷いた。車には乗る機会はあるが、近頃の若者はバイクに乗る機会は少ないらしい。
〝これはこれで良いモノなんだがなぁ。残念だ、実に残念だなぁ〟
心の中でそう感想を述べて、悠里はフェイスガードを下げて、またアクセルを踏む。
「ひ―――っ」
小さな悲鳴のような声が聴こえたような気がしたが気にしなかった。
時刻は二二時を回ったところである。比較的道路も空いており、スピードを出しても問題無かったのでついついスピードを出してしまう。法定速度をオーバーした速度で走るGPZ1100は、警察に見付かれば一発でレッドカードだろう。無論、それも見付からなければ、の話であるが……
幾らマイルドな加速だと言っても、初めてバイクに乗る人間が体感するバイクのGは相当なものに感じるだろう。特にサイドカーは、バイクの本体に乗っている悠里と違い、地面に近い。今すぐにここから落ちてしまうのではないかと云う恐怖を感じるのも頷ける話だ。……悠里からすれば逆にサイドカーの方がかなり安全に思える気がするが、それはバイク本体に乗っているからだろう。
おん、と鈍い音を響かせて、GPZ1100は住宅地の一角に止まった。あまり音を立てて住宅地に入ると近隣の住民から苦情がきそうだ。悠里は住宅地に入る一歩手前の一角にバイクを止めて、サイドカーから優愛を降ろす。
「ここからならいけるな?」
「……は、はい……」
徒歩で三分も掛からないだろう、ここから優愛の住むアパートに帰るまで。
「ありがとうございました……」
「あぁ。もしかしたら長い付き合いになるかも知れない。その点はこちらも「よろしく」と言っておこう。
それでは、な」
エンジンをふかせて彼女はまた暗闇に消えて行った。
取り残された優愛は彼女の「長い付き合いになるかもしれない」と云う言葉に眉を顰めてしまった。
「精神病……か」
自分ではどうしようもないものだとは解っているが、どうしても、実はこの現状を回避できたのではないのかと云う念がぬぐえない。
いつ治るか解らない上に、本当に治るかどうかさえも解らない。そうなると確かに、彼女とは長い付き合いになるのかもしれない。見たまま、感じたままなら、別に悪い人には見えなかった。……少し、常識とずれた何かを持っているように感じたが……
こんなところで考えていても仕方ない。考えるのなら、せめて家に戻ってからにしよう。
踵を返して、彼女は自宅への進路をとった。
ぎぃ、と、いつも通りの鈍い音をたてて、部屋の扉は開いた。いつもと同じ部屋だと言うのに、何故か、まったく違う部屋のように見えた。
持っていたバッグを部屋の隅に投げて、ベッドに腰を掛ける。いつもつけるCDには手を付けなかった。久しぶりに、静かな空間でひとりここに座っていた。窓の外から差し込んでくる電灯の光だけが部屋を照らしていた。月は出ていない。
そこで考えるのは、今日一日の出来事である。
精神病によって気を失って倒れた―――考えれば、考えるだけ恐ろしくなってくる。冷静になってくるからこそ、いつもの場所に戻ってきてその違和感を覚えるからこそ、恐怖とは徐々に込み上げてくるものだ。
その他の精密検査によれば、それ以外にはまったく問題はないらしい。身体の方には異常は見られず、健康そのものである。その事が、余計に自分が今精神病を患わっている事を痛感させる。
手のひらを眺めて、握り、開きを繰り返してみる。違和感はない。自分が自分であると云う確証は存在している。優愛の知る精神病とは、自分の自身の事、他にも他人の事を忘れてしまうなどの病気しか知らなかった―――と、言っても実際それは脳の病気なのである為、精神病ではないのだが―――。
このまま座って考えているとまた別の精神的な病に掛かってしまいそうで、頭が痛かった。目の前に置かれたカンバスに何かを描こうにも、そんな気分ではなかった。喩え描いたとしても、不安などを具現化した絵になりそうだと思った。
時計を見ると、時刻は二三時を過ぎた頃合だ。二二時ぐらいに、彼女のバイクに乗ってここまできて、家にたどり着いたのが三〇分ほどだったか……。ベッドに腰を掛けて三〇分、こうしていた事になる。
「寝ちゃおう……」
シャワーを浴びる事もなく、服すら着替えずに優愛は布団の中に潜り込んだ。
かち、かち、と聴こえるのは時計の針が時を刻む音のみ。最初は鬱陶しいと思っていたが、すぐに不安と一緒に眠気に取り込まれて―――
【接続】
……ああ、またあの夢だ。瞬時に思い出した。
昨日も同じ夢を見たな、と。優愛はぼんやりと思った。
視線を手元に向けると、変わらずそこには同じく異形の〝剣〟が握られていた。
続きではない。夢は、あの時とまったく変わらない。ビルの上で、また異形の剣を握って歩いている。屋上への扉を開いて、そこにある広い場所。
その向こうに居る男も、相変わらずだ。
―――いや違う。何かが圧倒的に違う。
昨日はモザイクが掛かっていたかのように見えた背景が今日は鮮明に見える。代わりに、そのさらに奥……そこにモザイクが掛かっているように見えるのだ。
ビルの向こう側にあるのは街だけだ。そこを隠す必要は本来ない。しかし、まるで何かがそこに居るかのように……
人だ。
モザイク越しからでも見える輪郭。四肢を持ったその姿は人だ。人がその後ろに立っている。いや、浮遊している、と言うべきだろう。透明なガラスでもそこにあるかのように、空中に立っているかのように見える。
すべては不鮮明な映像から、勝手に想像しているものだ。実際がどうだか解らない。
そもそもこの夢自体、優愛の想像の産物なのである。そこに浮遊している理由も、原理も、出鱈目で不条理な何かによって成り立っているものだ。
夢とは不思議なものだ。どうしてこんな夢を見るのか解らない上に、自分の想像からこのような世界が産まれるとはまったく思わない内容ですら完成してしまう。深層心理にある、本当の自分がどんなものなのかを知る。
ではこの世界は本当の自分が生み出した世界と云う事なのだろうか?
不気味なまでに深い色をした空。闇の中で、異形の剣を握っている自分。そして……戦いが始まる。
こんな世界が、自分が欲しい世界だとでも……?
疑問は尽きない。自分の見る夢について考える。哲学だ。
昨日と同じように、向こう側に居る男がこちらを向いて何かを呟いた。そのあと、自分も何かを口にしたが、それが何なのかは解らなかった。やはり、昨日と同じだ。本当に背景しか違わないようだ。
ならこのあとの展開も解っている。戦いが始まって、最後は何も見えなくなって終わりだ。
意思とは無関係に、優愛自身の体が動く。踊るように男の一撃を受け流し、負けずと剣を振るい返す。しかし、刃は届く事はなく、男の一方的な攻撃で、追い詰められていく。握り直した剣……最後は、昨日と同じでそれで相手の一閃を受けるところ。
……で、終わると思っていた。が、今日の夢には続きがあった。
受け止めた剣をはじき返したあとの続きがあったのである。剣をはじき返した優愛は、すぐに足を一歩前に踏み込んで、男の懐に入り込むと、剣を思い切り、男の心臓目がけて突き刺したのである。
声は出なかった。感触が……柔らかくて、硬い何かを切り裂き、貫く生々しく、瑞々しい感触を感じた。気持ち悪い、とても気持ち悪い。声を出して叫びたい。だが彼女の口から叫び声は出なかった。
男の口から、貫かれた剣と傷口の間から血が流れ出ている。剣を伝って、柄の部分から一粒ずつ、ぽたり、ぽたりと地面を濡らしていく。ぬめりのある生々しい血は、優愛自身の手も濡らしており、剣を握っている手が滑ってしまいそうだ。
ゆっくりと顔を上げてみると、そこには蒼白な顔をした男がいた。ぼやけていて、顔はこんなにも近くにいるのに解らなかった。ただ、明らかに人間の肌色よりも白く、そして生気がないように見えた。
身長は男の方が高く、彼の口から漏れてきた赤い血は、優愛の頭の上に垂れていく。唾液交じりの、粘り気のある血は髪を伝って、優愛の顔にまで到達する。
これが人の暖かさ。人の生きる為の力。それが今、こんなにも大量に流れている。生温かい、赤い液体がこんなにも……溢れて出ている。
恐怖はなかった。そう、この感情は恐怖ではなく……美しいものを見ている時に感じる。
『感嘆』―――その一言に尽きる。
自分がどれだけ壊れているか解っているつもりだ。こんなものを見て、美しいなどと思えるはずがない。理性では解っていても、本能がそれを美しいと思ってしまっている。
絵を描く自分と、音楽を聴く自分が、その時〝良い〟と感じるのに似ている。素晴らしい作品を作ろうとしている自分と、素晴らしい作品に出会った時に感じる感嘆―――クリエイターが他人の作品に何かを求める時、他人の素晴らしい部分を自分にも取り込もうとする。
美術品を眺めるような感覚。そう、優愛は目の前で血を流して、今にも死にそうな音を見て、それを「作品」を見る目で眺めているのだ。
剣を刺したまま、死にそうな男の体をここに放置して、カンバスをここに持ってきて模写したい。この血の色を出すにはどうしたら良いだろうか……、呆としながらそう考える。いつまでも男の下で剣から手を離さない自分自身を奇怪に思う。
死んでしまった男の下で、いつまでも呆然としている自分自身は何を考えているのだろうか。
夢を見ている優愛自身は死にそうな男の体を見て美しいと感じている。
それとは別に、この夢の住人である優愛は何を思ってそこに居るのだろうか?
人を殺してしまった恐怖、罪悪感に押し潰されそうになっているのか、それとも同じように剣が突き刺さって血が流れている男を奇怪で美しいオブジェクトだと思っているのだろうか。
次の瞬間、ゆっくりと、男の体が倒れ始めたのを見て、夢の中の優愛は一歩後ろに下がった。水の上に倒れたかのように、ばしゃり、と音を立てて倒れた男の肢体。うつ伏せに倒れた男の体に突き刺さっていた剣はさらに深く、肉体に食い込み、何とも言えない気持ち悪い音を立てた。
男はまだしぶとく、生きていた。時折痙攣をして、げっぷを、口から出している。排泄物が流れて、この辺り一帯に悪臭を漂わせる。尿と血が混ざり、優愛の足元に流れてきた。
人が死ぬとは、汚い事だ。
それが当たり前。
だって生きているのだから。
初めて人が目の前で死んでいく様を眺めながら、優愛はどこまでも無言だった。夢の住人である優愛も、夢を見ている優愛自身も何も感じていなかったのだ。
痙攣する体が治まり、微動もしなくなった時、ようやく男は死を迎えたのだろう。剣を男に突き刺してから既に一〇分以上が経過している。その途端、その死体は既に優愛にとって美しいと感じるものではなくなってしまった。死体は、もう完成されてしまっているものだと……思ってしまった。
産まれてから、死ぬまで。そのプロセスが美しく、死に間際がもっとも美しい。それを、この数分で味わった。
目の前の男に興味がなくなって、ようやく頭を上げた。そこに浮遊していたはずの人影は既になく、ビル群だけがそこに広がっていた。まるで、戦いを見届けて去って行ったかのようだ。
このあとどうするのだろうか。夢を見る優愛は、ふと、夢の中の住人である自分自身の事を案ずる。
ここは普通のビルの上である。明日になれば―――いや、明日どころではなく、警備員がこの辺りを少し通っただけで死体がばれてしまう。殺人と云う、現代社会では決して許される事のない罪を犯してしまった彼女は、どうやってこの場を切り抜けようと言うのだろうか?
自分自身だと言っても、夢の中の自分は自分の意思とは関係なく動く。物語と一緒で、読者である人間が干渉するのは叶わない。
夢とは、一種の物語で、本のようなものなのかもしれない。優愛はそう思う。
その物語の主人公である優愛は一歩、足を前に出して行動を開始した。死体から一歩後ろに下がっていた彼女が再び死体に向かって歩を進めたのである。
どんな手段でその死体を隠すのか。ここでの出来事を無かった事にするのか。サスペンスを見るかのような気持ちで自分自身の動きを眺める。
……かつ、と乾いた音を響かせて歩く彼女。そのまま死体の上を通り抜けて、過ぎ去ってしまう。死体に何かをする訳ではないらしい。それともその下準備をする為に別の場所に仕掛けをするのだろうか……
そう思っていた。彼女はきっと、死体をどうにかして隠そうとする。どんな手段を用いてでも、喩え、それが苦し紛れの策だったとしても、必ず自分の非を隠そうとする。何を言おう、この優愛自身がそう言っているのだから間違いなどあるはずがない。
予想に反して、何もする事なくビルの端の金網のところにまで来ていた。
そこでは何もできないはずだ。優愛の腕力では大の男を連れてそこから跳び越える事はできない。仮にできたとしても、落として何になる? 死体を大衆の目前に突き落とせば、どこから突き落とされたか瞬時に解る。警察にも通報されるだろうし、優愛の存在もすぐにばれるだろう。そうなれば最後、彼女の逃げ場所は一切なくなる。
他の手段があるに違いない。優愛はそう思う事にした。夢の中の出来事だと言うのに、こんなにも焦っている自分は何なのだろう。
金網に手を掛けて、その向こう側のビル群を見つめる。そこからしばらく動かない時間があった。死体のある後ろを眺める事もなく、ただ、ただ……
何をしているのだろう。何を考えているのだろう。自分の事なのに解らない。
では先ほど思った、自分の内心は自分自身がよく知っていると言う考えは、間違いと云う事になる。
自分自身ではない、夢の中の住人。もうひとりの神代優愛は、ゆっくりと金網に手を掛け、足を掛けた。登って向こう側に行こうと言うのだろうか。先の戦いで、肉体疲労は凄まじい。時々足を滑らせて地面に落ちてしまう。そうなる度に、また金網に足を掛けて登るのだ。
四度のトライ&エラーがあった。その後に、彼女は金網を越えて、その先の踊り場に降りた。
まさか。いや、そんな。自分に限って、そんな事は……一番解っている。神代優愛と云う女は弱い。とても弱いのだ。
だからそんな行動に出るとは思っても見なかった―――ぐしゃ。