ACT 2-4
黒い光景の中に、黒い光が差し込んできた。黒の光とは、この世に本当に存在しているのだろうか、と、どうでも良い事を考えつつ、自分が今どうなっているのかを、ようやく気にし始める。
ここは一体どこだろう?
黒い部屋だ。視線を動かして部屋の中を眺める限り、そこには何も無い。窓すら見えない。ここにはたったひとつのベッドしかないのだろうか? 自分が横になっているのはベッドで、部屋にはそれしかない。
部屋が暗いせいもある。明るくなれば他のものもあるのかもしれないが……
体中の状態を確認してみる。痛みは無い。動ける。首も動く。全身に異常な場所はひとつも見当たらない。
ゆっくりと体を起こして、部屋を見渡す。やっと暗闇に目が慣れてきた。設置されているものの輪郭が解り始めて、ベッドから降りて靴を探す。
靴は見付からなかったが、代わりにスリッパを見付けて、スリッパを履く。
扉を見付けて、そこから外に出られるのだろう。違うのだとしても、少しは違うところに出られて、ここがどこなのか解るかも知れない。
軽く頭が痛いが、それ以外は健康体そのものである。脚がふらつく事もなく、すんなりと扉の目の前まで歩いて来られた。扉はどうやら引き戸のようなものになっているらしく、金属製のパイプの取手に手を掛けて横にスライドさせる。
廊下らしき場所。奥の方には光が見えており、それが廊下を照らしている。
あそこに誰かが居る。光があるところには誰かが居るだろう。ゆっくりと、その光の方向へと歩いて行く。
そこでやっと理解したのだ。ここが一体どこなのかを。
ここは病院だ。光が漏れていたのは、ナースステーションであった。ここで彼女たちは病人たちにいつ何が起こっても対応できるように二四時間体勢でここに居るのである。光が溢れているのも、それが理由である。
今まで暗闇に目が慣れていただけあり、光が少し目に痛かったが、それもすぐに慣れる。人の体とは、環境に順応できるようにできているのかもしれない。
……ナースステーションの呼び鈴を鳴らすと、奥の方から年配の女性が出てきた。すぐに驚いたような表情に変わって、後ろに戻って別のナースたちもやってきた。
一体どのような状況になっているのか解らない内に、元の場所に戻して来られた。ここは病室だったらしい。しかも個室で、他の人間のベッドはひとつもなかった。
それもそのはず、ここにはベッド以外の設備も無く、単なる狭い部屋にベッドとテーブルがあるだけの簡易な場所だったのである。話によれば、目眩や、貧血など、比較的症状の軽い人間を寝かせておく為の病室らしい。
このような場所に運ばれてきた理由が良く解っていない。自分に何が起こったのかもまだ理解していない。最後の光景は、あの、爆破テロのあったビルなのだから。そこから何があって、どのような経緯を経て自分がここに運ばれて来たのか、そこまでは覚えていない。
ベッドの上に腰を掛けて、眠そうな目を擦りながらやってきた男の医者が自分の顔にライトを当てて、幾つかの質問をしてくる。それに対して淡々と答えていくと、医者はひとつ頷いた。
「大丈夫みたいだね」
笑顔でそう口にした。
「あの……私どうしてここに……?」
タイミングを見計らって用意していた質問を言葉にして出す。
「まぁ覚えていないのも無理はないだろう。それについては、彼女に言ってくれるかな?」
そう言って後ろから現れたのはスーツ姿の女性であった。如何にも、キャリアウーマンと言った印象を受けた。
長髪をなびかせ、眼鏡を片手で上げると、女性は医者の代わりに椅子に座り、周りに居るナースたちはそれを見て部屋から出て行った。この女性は一体何者なのだろうか……
「あの……」
「本業はカウンセラーなんだけどね」
不安そうにしている優愛の事を気にしてか、微笑しながら女性はそう口にした。
持ってきたバッグの中からスケジュール帳のような、小さなメモ帳を取り出すと、その中から一枚の紙―――名刺を取り出して、優愛に手渡した。
「……心理カウンセラー、山田悠里さん?」
「本業はね。まぁその話は良いわ。もし縁があれば、教えるかもしれないわね」
苦笑しながら悠里はそう言った。
心理カウンセラーの人間がどうしてここに居るのだろうか。この女性に訊いても、自分がどうして病院に運ばれたのか解るはずがない。
「心配になるのも無理はない。キミは多分、自覚症状はないんだろうから」
「自覚症状? ……あの、私なにか、病気なん、ですか?」
自分で解っていない病気ほど恐ろしいものはない。考えてみれば病院に居るのだから、自分の身に何かあったとしか考えようがない。
では一体自分の身になにか? もしそれなら、どうして医者からではなく、この心理カウンセラーの肩書を持つ女性からそれを聴かなければならないのか……
「病気と云うよりは精神疾患だな。
PTSDって知ってるかしら?」
「PT……なんですか? それ」
聞き覚えの無い言葉に恐怖を覚えつつも、精神疾患と云う言葉には少し安堵する。身体的に取り返しのつかない病気ではなく、精神的な方のものであるのなら、まだ何とかなると云う軽い考えである。
「まぁあまり聞き覚えの無い病気だからな……。いわゆる『心的ストレス性障害』ってものだ」
「ストレス……?」
「そうだ」と、言って、悠里は優愛の胸に向かって人差し指を向ける。
「ストレスで気がおかしくなってしまうって病気だな。まぁ、ものによってはオマエのようにパニックに陥って気を失うとか云う人間もいる」
「パニック? 気を失う……」
そこで少しずつ自分の置かれている立場について解り始めてきた。
「私、そのPT何とかで倒れたんですか?」
「その疑いがあるって事だ」
腕を組んで、悠里は優愛に対してどのような状況にあるかを口にする。
曰く、優愛はビルの目の前で突然パニック状態になった。その後、気を失い、現場に居た救急隊員によって救急車に運ばれ、病院にたどり着いた。当初こそ、何かしら急性の病気だと思われたが、検査の結果何も発見されなかった。結論として、ストレス性によるパニック状態だと結論付けられたらしい。
俄かには信じがたい。しかし、現にこうして病院に運ばれて来ている事を考えると、納得せざるを得ない状況である。
「何もそれを責めているワケではない。現代社会においては増えつつある症状だ」
わざとらしく、演技をしているかのように悠里は席から大袈裟に立ち上がると、部屋の中を闊歩し始める。その様子を優愛はただ眺める。
「この世の中は今ストレス社会だ。わたしがキミのカウンセラーをする事もストレスの要因である。何せ、どうでも良い他人の為に、どうでも良い話をして、気を落ちつけなきゃいけないんだからな」
「……」
「そう怒るな。仕事と云うものはそうなってしまうものだ。最初はやる気に満ち溢れていた新米社員ですら、その内その仕事内容に不満と退屈を感じて手を抜く事を覚えてしまう。そして日々行っている仕事に〝やりがい〟ではなく〝退屈〟を覚えてしまうんだ。ストレスを感じるって事だ」
「私とこうやって話す事は仕事だから、山田さんは退屈だと思うんですか?」
別に怒っている訳ではない。優愛自身、そう言った人間である事を自覚している。
優愛は人との付き合いをあまりしない。それを面倒だと思うからだ。そしてとても寂しいと思うからだ。故に彼女に対して文句を言えるような立場ではない。
「うむ、そうだな。まぁ、我慢してくれ。これも仕事だ。キミにとってはとても真剣な事かもしれないが、わたしにとってはどうでも良い」
何とも正直な人間だ。自分だけではなく、今までやってきたすべての患者に対応する時もこのような態度なのであろうか。
腹の内が知れない。ここまで性格を見透かせない人間は初めてだ、と優愛は思う。この人間は普通の人間と違って、今見せている面とは違う面をまだ隠している―――何故だか解らないが、そう思ってしまった。
「私はどうしたらいいんですか……?」
そのような状態に置かれてしまった自分。しかし、それは自分ではどうしようもない症状である。
「何も。
ただキミはいつも通りの生活を続ければ良い」
「……」
少しの表情の変化を感じたのか、悠里は苦笑して、優愛の肩に手を乗せる。
「心配するな。その為にわたしが居る。それにひとつの約束事さえ守ってくれれば、大丈夫だろう」
約束と云う言葉に、首を傾げる。
「そうだ。これからキミには日常生活に戻って貰う。変に病院に居るとまたストレスが溜まる可能性もあるからな。まぁ通院と云う形に落ち着くだろう。なんなら、今日これから、今すぐにでも家に帰る事も可能だ」
それを聴いて安堵のため息を吐く。入院などとなったらどうしようかと、心ではずっと心配していたのである。
「学校などに通うかどうかはキミの自由だ。わたしから話して、しばらく学校に休みを貰う事も可能だろう。キミの意思次第だ」
その提案は受け入れかねる。学校は、自分が絵を描く為の絶好の環境である。それを手放す事はしたくない。それに、そうなれば両親に何と言われるか解ったものではない。ただでさえ、現状を報告するのですら心が重いと云うのに……
「その辺りは任せる。わたしは干渉しないよ。医者としては最悪だが、キミも、報告すべき事と、そうじゃない事の判別が付くぐらいの年齢にはなっているだろうしな」
「……」
「わたしが約束して欲しいのは、今後、一切、あのビルに近付かない。それだけだ」
「あのビル……。爆破事故のあった場所ですか?」
「そうだ。
キミがおかしくなったのはそこなんでな」
なるほど、そこにストレスの原因があると、悠里は言っているのだろう。優愛は納得する。
直感的に、あの場所に向かった。そしてあの場所で、自分はおかしくなって、病院に運ばれた。……考えれば考えるほど、あの場所のせいでこうなってしまったと云う念と同時に沸き上がってくるのは、逆にあそこには何があるか、と云う事だ。
自分をそうまでしておかしくする何かがあった。そう考えざるを得ない。
その考えに悠里も、ふむ、とだけ言って一定の理解を示してくれたようである。が、それでもあの場所に行く事だけは反対した。そう、それが彼女から、優愛に渡された「約束」なのである。
「解りました……」
ビルには近付かない。
約束した。
それを聴いて悠里はニコリと笑った。