ACT 2-3
足を止めて、ビルを見る。ここ商店街からでも見えるのは、朝述べている通りである。今では野次馬たちもその影をひそめており、テレビ局の車も少なくなっている。今では一部の報道関係の人間を除いて人は居ない状態である。
そのまま細い道を抜けて、ビルの方に歩を進めていく。そんな事をせずに、家に帰って大人しくしているのが得策なのであるが、もう歩きだしていた足を止めるのはできなかった。本能的に動いているこの足は、理性では止めようがなかったのだ。商店街から歩いて行けば五分も掛からないところにビルはある。
この辺りの商店街の道も、そこまで通った事がないのでかなり戸惑った。自分がどれだけこの辺りの地理に疎いかが窺える。知っているのはCDショップなどの娯楽施設への道ぐらいで、あとは先ほど知ったばかりの喫茶店への道だ。中心街の方に行けばまだ良く解るのであるが……
建物同士が隣接して薄暗い道を通って広い道に出た。この辺りに、先のビルがあるはずなのであるが―――
「あ」
思わず小さく呟いた。
辺りを見渡すと、丁度そのビルらしき辺りに警察や消防の車が止まっているのが見えたのである。
あれだ。
そう、あれが……例の爆破テロと疑われている場所である、ビルだ。
思わず息を飲んだ。恐怖などなく、不謹慎な事に心は躍っている。今自分は普通の人にはできない非日常なものをやっているような気がしたからである。時刻的にも、早退したにしろ普通は学校で勉強をしている時間にこうして街を出歩いている事にも、特別な何かを感じていた。
少々早足でビルのところへと歩いていく。―――ソレイジョウ。
人々の数はやはり少ない。警察などが規制しているからだろう。―――イッテハイケナイ。
息が詰まりそうな……そんな感覚だ。喉が渇き、息をするのが難しくなっていく。―――モドレナクナル。
緊張。そうこれは緊張だ。張りつめた自分の心の糸は、目の前にある物事に対しての危機と緊張を覚えているのである。―――ジブンヲステルカクゴ。
大丈夫だと心の叫びを押し込めて先に進む。何故ここまでしてこのビルのところに行きたいのかは解らないが……警察も居る、何かあれば彼らに任せよう。―――ソウシテカノジョハ……
そこに、何か得体の知れないものを見た。
「―――っ」
……それは、人間……なのだろうか。まるで自分にしか見えていないのだろうか。そんな得体もしれないものがそこに立っていると云うのに誰も見向きもしない。まるで墨汁でカンバスを汚したかのように描かれたそれは、人型をしている染みのようにも見える。
幽霊だろうか。霊感は一切ない優愛は、それを見てそう思った。幽霊なら、自分にしか見えない理由はなんだろうか?
一歩、後ろに下がってそれを見据えた。顔らしきものはなく、どのような表情をしているかは窺えない。だと云うのに、こちらを眺めているように見えるのだ。
ずるずると、影を従えてそれが移動を始めた。目標は明らかだ。優愛自身に向かってゆっくりと動いてくる。
『デアッタ』
「ひ―――っ!」
頭の中に響く言葉に、ついに不安のベクトルが恐怖へと切り替わった。
口を開いて思い切り叫んだ。それこそ自分の声で、周りの音が何も聴こえなくなるぐらい……
恐怖は彼女の感情を黒に染める。今あるのはデストルドーだけ。死にたいと云う強迫観念、ひたすら……黒い何かが彼女を抑えつける。
彼女の思考が矛盾を始める。死を望みつつも恐怖し、死にたくないと考える。
世界が回り、二回、三回、彼女の目の前を同じ景色が通過したとき。
ようやく苦しみが終わりを告げる。
それは意識がなくなると云う形で。
たまたまそこを通りかかっていた男は、奇怪な動作をして倒れた少女を見ていた。ビルに近付き、見上げた途端、何かに気付いたかのように明後日の方向を向き、また突然叫び声をあげて奇怪なダンスをしたかと思ったら倒れた。
一部始終を見ていたのは自分だけではなく、テロ現場となった為に厳戒態勢の警察、そして消防の目にも止まった。
突然起こったその出来事に驚きつつも、彼らはこの手の緊急事態に関してはプロだ。驚きよりも、冷静に事態を収拾させる為に心を冷却させる。
倒れた少女を抱えて、罵声が飛ぶ。救急車を早くよこせ、と云う叫びだった。次に、少女を抱えた男が少女の頬を数回叩いて、意識があるかどうかを確認している。しかし、彼女から反応はなかった。
これは拙い。すぐに判断した。車の中にある無線機を取ると、救急車の要請をする。「何があった?」受話器越しにそう言われたが、緊急事態である事だけを返して、救急車を五分以内によこすように言った。最後に女性隊員も連れてくるようにとも言い忘れない。
倒れてしまった少女を抱えて、気道を確認。息はしているようである。心臓の方も問題無く動いている。
意識だけがない状態である。しかし、見えない部分が存在している。
それは脳だ。
息は口、鼻から確認できる。心拍もまた、耳を胸に当てる事で、手を当てる事で、そして脈を計る事で確認ができる。
が、脳だけは別である。そこは特殊な手段を使わなければ決して覗く事のできない未知の領域なのだ。ここで完全に彼女が健康体である事を判別する事はできない。
徐々に野次馬が増えてきた。隊員にその辺り一帯の人間を黙らせるように命令を下して彼女を抱えて車の方に向かって行く。救急車がくるまで地面の上にいつまでも置いておく訳にはいかない。
……一体彼女はどうして突然倒れてしまったのか。病気を突然発症してしまったのか、元々持病があったのか。もしくはこのビルに何かを見たのか……
どちらにしろ、それはこれから一生解らない事だろう。彼女を病院に送り届けて、無事を確認するまでが、隊員である男の役割なのである。それ以上関わる事はない。
横になっている少女の様子を眺めながら、男は救急車が来るのを今か、今かと待つ。外傷はない、早いところ脳のレントゲンを撮って安全を確認した方が良い。
ため息をひとつ吐いて、何度目か解らない外を眺めたとき、不意に、腕を何かに掴まれた。
「―――っ」
振り向くと、そこにはうっすらと目を開いて力なくこちらを眺めている彼女の姿があったのである。
「大丈夫ですか?」
「……」
問い掛けには無言である。ただ、腕を掴んだまま、外の方を眺めている。心、ここに在らずと言ったような表情であり、普通ではない事がすぐに解った。
何かを言いたそうに口をあけているが、それが言葉に、音になる事はなかった。餌を待つ魚のように口を開いて、閉じて、繰り返す。永久に続くかと思ったその動作は、一分も経たない内に終わりを告げ、またその場に倒れ込んだ。
「一体……」
なんだったのか。
男にはそれが何だったのかは解らないが、やはり、彼女は普通ではない。
耳を澄ますと、特徴的なサイレンの音が響く。救急車が到着したようである。搬入の準備を始めるべく、彼は車の扉を開いて彼女を抱き抱え、救急車の方へと歩き始めた。
【接続】
…………ゆっくりと、空から落ちていくような感覚を覚えた。
目を開けると、そこは空―――のような場所であった。青の混じった黒色のそこは夜の空にしか見えなかった。実際、優愛が夜空の絵を描く時は、カンバスに黒一色ではなく、青を混ぜた色で空を描く。
そんな色をした場所にいるのだ。浮かんでいる……と、云うよりも落下しているような印象を受ける。体中に襲いかかる重力がそれを伝えている。
落下していると言っても、いつまで経っても周りの雰囲気は変わらず、地面に激突するような事もない。永久に落下し続けている。
星だろうか。
優愛の目の前に、巨大な光が見える。青白く輝く、夜空の中にある光だ。
なんて美しいのだろう。空の景色はこんなにも美しい。自分がどうしてこんなところに居て、こんな景色を見ているのか……そんな事を忘れてしまうほど、その光は美しく、輝いていたのだ。
声は出ない。何かを口にしようかと思っているのだが、それは口からこぼれても、音にはならない。代わりに泡のような何かが口からこぼれて、浮遊する。落下している訳ではないのだろうか……? もし落下しているのなら、泡は落ちるか……登るか……。しかし、泡はそのまま口の周辺で留まったままいる。
体を捻ってみる。夜空のような空間を回転してみるが、そこにある光景は何ひとつ変わらない。星のような光があるか、無いか。
再び先の方向に体勢を変えると、星のような光はまだ輝いていた。
……青白い光の周りに、虹のような輪が出てきている。若干の変化があるのだろうか。それとも単なる見間違いなのだろうか。
違う、それは見間違い何かではなく、確かに現れてきている。
体の自由が効くのは解っている。右手を、その光に向かって伸ばす。遠いところに光があるように思われたが、意外にも近かった。伸ばした手は、光の中に入り込み、飲み込まれていく。その先に何かがあるのだろうか。
手の先には何もない。ただ、冷たくもなく、暖かい。星の光は暖かい。光の中で手を開き、閉じてみる。
一体ここはどこなのだろうか?
目が覚めたらここに居たと云う事は、これは現実なのだろうか?
そもそもどうしてこうなったのだろうか……。確か、あのテロが起こったと言われているビルのところに向かって、自分はどうなったのだろうか。
解らない。ずっと考えても解らない。いつの間にこんなところに来てしまったのか、自分はどうなってしまったのか。解らないのだ。
だがこの場所の居心地は良い。他人と云うよく解らないものが居るあの世界よりも遥かに楽で素晴らしかった。ひとりだと思っていた。だが、この世界はひとりだと言うのに、何故か暖かい。とても暖かいのである。
星がある。人の代わりに、星が自らの寂しさを温めてくれている。そう思う事にした。
だが同時に、星から手を離せば何故かとても寂しい世界に変貌した。この胸にくる寂しさ……それを知っている。
そうだ、それは大切な人が死んでしまった時に感じる深い悲しみと、寂しさ。そんな感情が胸に込み上げてくるのを感じる。
ここはとても悲しい場所なのだ。それを、星が温めてくれている。温もりを与えてくれている。きっとそんな場所だ。
悲しみと暖かさが紙一重で存在しているこの世界では、他人が存在していない。だが、星がその代わりをしてくれている。意思を持たない彼らが、まるで意思を持ったかのように、ここにいる存在に対して「他人」の代わりとなる温もりをくれるのだ。
このまま永遠にここに居るのだろうか。それを恐れている訳ではない。述べたように、ここに居るのは悪くない。だが不安でもあるのだ、ここがどこなのか、解らない事が不安なのだ。
星の光から目をそらして、また別の方向に視線を向ける。
……と、違う星が見えた。先ほどまでは小さな光に過ぎなかった星が、こんどは大きな光を放ってそこに見えたのである。
人、だ。
その光の向こう側に人が見えた。ひとりではない、複数の人間だ。
反対側にあるのは、暖かい星の光だ。
優愛は口を閉じた。そして……人が居る光に手を伸ばして見た。
「―――ッ!?」
刹那、強烈な力によって優愛は引きよせられる。先ほどの星の時とは違う。冷たく、寂しい感覚が胸に襲いかかる。
が、強い力だ。
とても、強い力だ。
腕を掴んで離さない、そのまま引っ張られる。口から漏れた叫びは泡となって停滞する。落下している感覚を覚えていた体は一気に浮上感へと切り替わる。バンジージャンプの感覚に似ている。落下後、体にくくりつけられていたロープに引っ張られるのに似ている。
引きよせられる。人の居る星に……
そうだ、ようやく気付いた。ここの正体に。
ここは恐らく、どこかの境目なのだろう。
人の住む世界と、星の居る世界。このふたつの世界の狭間に、優愛は居たのだろう。
それは夢と現実の境目なのか、生と死の境目だったのか、それとも本当にまったく違う世界同士の狭間だったのかは解らない。恐らく、それを知る術はこの世には無いだろう。
名残惜しそうに、優愛はその狭間の世界を眺める。その向こう側に存在している、暖かな星に対しても視線を向けた。
「さようなら」
それだけ述べた。
【切断】