ACT 2-2
「きゃあああああああああああッ!」
廊下に甲高い声が響いた。何事かと多くの生徒が声を上げた女子生徒のもとによってきて、すぐにその理由を察する。
階段から誰かが転げ落ちて倒れているのだ。しかも動く気配もなく、倒れたままでいる。階段の上からその倒れている少女を見ると、まるで死体のようにも見える。
「どいてどいて!」
すぐにその騒ぎを聴きつけた教師たちが現場に駆け付けた。事の次第を見ていた生徒のひとりが、倒れている彼女―――神代優愛と同じクラスだった為にすぐ担任の教師に連絡をしたのだ。それと同じく、複数の教師たちが、優愛を取り巻く。
女性の教師が優愛の体を触って、外傷がないかどうかを確認する。
「……どこも怪我はしていないようですね。気を失っているだけみたいです」
「とにかく、保健室に運びましょうか。しばらく立っても意識が戻らないようだったら、すぐに病院に連絡を」
「はい!」
男性教師のひとりが彼女を持ち上げて、もうひとりの背中の上に乗せると、ゆっくりと階段を降りていく。そのさまを、多くの生徒たちが眺めている。転げ落ちていた光景を見ていた生徒たちは固唾を飲みながら、あとからになって事の次第だけを聴いた生徒たちはざわめきながら、その光景を見ていた。
優愛が目を開いた時、鼻を突くような臭いがした。その臭いを、彼女はよく知っていた。この臭いがすると云う事は、自分が今どこにいるのかも理解した。
視線を下にやると、案の定、自分は白い布団の中で横になっている。夏には少し熱いぐらいの布団だが、幸いこの部屋は空調が効いており、快適であった。
ここは保健室。体調の悪い人間がくるべきところ。確かに自分はここに来ようと思っていたが、いつの間にここに来て、こうしてベッドの上で横になっているのかまったく思い出せなかった。気が付いた時にはベッドで横になっていたのだ。
ゆっくりと体を起こすと、背中が少し痛んだ。相変わらず頭痛もあるが、先ほどよりは幾分かましになった。
ベッドを覆っているカーテンを開けると、音に気付いて保健室の先生がこちらを向いて、心配そうな顔をした。
「大丈夫なの?」
最初は何の事か解らなかったが、気分が悪くなってここに来たのだから、そう問うのは当然だろうと思考するのに時間が掛かった。
「……はい、大丈夫です」
述べたように、先ほどよりも体調は良い。大丈夫だろう。
「それなら良かった。……アナタ、二時間も気を失ってたのよ?」
「え……」
気を、失っていた。
―――それで優愛はようやく、自分がどうして気付かぬ間にこの場所で横になっていたのかに気付く。
「覚えていないの?」
「……はい」
「気を失ってそのまま階段から落ちたのよ、アナタ。もしくは、階段から落ちたから気を失ったのか……。まぁ、この際はどちらでも良いわ」
それだけ言うと、彼女は優愛に対して一枚の紙を渡した。
「今日はもう早退しなさい。アナタの担任の先生が、荷物をここに持ってきてくれてるから」
紙は、早退者が記述する用紙である。これに名前と学籍番号、そして早退理由などを書いて提出する事で初めてその日早退する事が許されるのである。この場合、優愛は体調不良の為に早退と云う扱いになる。
渡された用紙にボールペンで自分の名前を書いていく。早退理由の蘭は既に埋まっており、目の前の先生が書いてくれたのだろう。
「気分が悪くなったら病院に行くのよ。体調悪いのを隠しちゃあ、ダメよ?」
「はい……」
額に手をあてて、優愛は答えた。
一体自分の身に何があったのだろうか……。考える暇もなく、渡されたバッグとカンバスを持って、学校を出た。
……昼前の外は暑かった。じわじわと照りつけてくる太陽の光と、コンクリートから発せられる熱に挟まれて吐きそうだ。こんな時間に帰るのは久しぶりである。いつもは陽が暮れるか、茜色の空の時に帰る。こんなに空が青い時間に帰る事は一体いつぶりだろうか……
ため息を吐きながら、カンバスを握りしめる。誰かよりも早く学校より出て、家に帰る。考えてみればかなり特別な気分になれるのだが、自分の体調が体調なだけに、少し不安である。
昼前に学校を出た為に、外に居るのは主婦か、外回りをしている営業のビジネスマン、あとは車を使っての運送業を行っているドライバーぐらいだ。自分と同い年の人間は見られない。それがまた、自分が周りとは違うと云う特別感に浸れる要因のひとつである。他人とは違う事をするのが最先端だと思ってしまうのだ。
商店街の近くに差し掛かったところで、自分が空腹である事に気付いた。そういえば、何も食べないで学校から出てきてしまった―――早退したから仕方のない事である―――。常であればコンビニエンスストアで購入していくのだが……幸い今日は時間もある、商店街に差し掛かったのだから少し道を反れて飲食店にでも入ろうと思う。
商店街にはファミレスに関する類はひとつも存在していない。あって喫茶店だ。しかもよくも解らない店ばかりで、優愛は一度も入った事がない。述べたように、いつも食べ物はコンビニエンスストアで済ませるか、自炊するかである。外食をする事が殆どない彼女にとって、飲食店など興味の対象外だったのである。
しかし空腹を誤魔化す事はできず、とにかく店に入ろうと目についた喫茶店に足を踏み入れた。
カラカラ、と乾いた音が響く。扉が開いた時、扉に装着されていたベルが音をならしたのである。思わず上を見てそのベルを確認してから、優愛は中に入った。
「いらっしゃいませー」
店員の明るい声が響く。……よく見ると、そこに立っているのは自分と同い年か、少し年下の少女であった。いや、もしかすれば見た目はそれでも歳は自分よりも上なのかもしれない。最近は見た目が年齢とあっていない人間が居るのも不思議ではない。
喫茶店の中は薄暗い印象だ。天井には電灯らしきものが見当たらない。つまり、自然光だけでこの店は成り立っていると言う事になる。近年では無い営業方法だが……つまり、あまり長い間営業はしていない事になる。
夏の間の日照時間は長く、一九時近くまではできるだろうが、徐々に日照時間は短くなってきており、冬になれば一六時を回る頃には暗闇に辺りは包まれる事になるだろう。
店名も、営業時間もみないまま入った為、実際のところどうなっているのかどうかは解らないが、あまり気にするべき点でもないだろう。このような喫茶店に入る事も、これからの人生でどれだけあるか解ったものじゃない。喩え入ったとしても、この店ではない可能性が高い。
店員による案内もなかったので、優愛は適当に目についた席に腰を下ろす事になる。サービスが悪いと言うべきかどうか……それすら優愛にとってはどうでもよく、そもそも解らない。
席に座ると、小さな女の子が優愛の席にやってきた。
「……」
思わず息を飲む美しさであった。……肌は白く、細い……触れれば砕けてしまいそうな、そんな印象を受けた。見た目だけで解る、日本人ではない。
この少女だけではない。先ほど声を放った人物も日本人ではない。
「ご注文は……?」
繊細な唇の隙間から、小さな声でそう言われて、優愛は我にかえった。少女に見とれていたらしい。
急いでメニューを開いて、一通り目を通したところで今一番食べたいメニューを注文する。
「え、と……じゃあ、このミートソースパスタを……」
「今の時間、紅茶のサービスがつきます……」
「え、あ……はい」
「少々お待ち下さい」
深々と頭を下げて、少女は後ろの方に戻って行った。
個人経営の店なのだろうか。そうでもなければあんな歳のいかない少女を店員として雇っているとは思えない。先ほど見た目と年齢はあっていない人間が不思議ではないと言ったが、あの少女はさすがに弁解できない見た目だと優愛は思った。
しばらく立つとまた別の人間が紅茶を運んできた。美人―――と言うよりは、格好いい印象を受けた。まるで男装をしている美人の女性のような……そんな矛盾したイメージだ。
「あの……」
思わず、声をかけてしまった。何故そうしたのかは解らなかったが、しかし、もう声に出してしまったものは弁解のしようがなかった。
「何ですか?」
気だるそうに、女は口を開いた。咄嗟に口を出してしまった為に、何と言えば良いのか解らなかった。疑問はたくさんあるのだが、その思考の整理が終わる前に「いえ……」と答えてしまっていた。
実際問題たいした話ではない。誰が何をやっていようがそれは個人の自由である。この喫茶店で働いている人間も、優愛の人生の中では些細な問題に過ぎない。それに突然来客した人間に年齢は幾つか、この店は何なのか……、訊く方が無粋である。
テーブルの上に置かれた紅茶を眺めて、それを口にした。冷房が適度に効いたこの喫茶店では、暖かい紅茶も美味であった。最近はペットボトルの冷たい紅茶しか口にしていなかったので、こういったちゃんとした紅茶を飲むのは久しぶりであった。
一服すると、今日の―――と言ってもまだそこまで時間は経っていないが―――自分に対する出来事について振り返ってみる。
何事も無かった筈の一日の始まり。突然訪れた体調不良と、それによって階段から転げ落ちてしまった事。……半日も経っていないと云うのに、ここまでの出来事に見舞われるとは思ってもみなかった。一体自分に何が起こっているのか、本当にこれは病気なのかそれともただ単に体調が悪いだけなのか。
悪い考えは考えれば考えるだけ思いつくものである。自分を追い込んでいくのは、自分自身こそが一番簡単にできる。
一度病院に行って検査を受けた方が今後の為なのかも知れない。そう考えたところで、テーブルに注文していたパスタが届けられた。
「お待たせしましたー」
運んで来たのは、注文を取りにきた少女でもなく、紅茶を運んでくれた人物でもなく、店に入った時に声をあげていた彼女であった。
「ごゆっくりー」
パスタに口をつける。ミートソースの濃厚な味が口に広がる。それをパスタと共に噛み、そして喉を通る……美味である。やはりこういったところの料理は美味であるが、それだけ値段が張ると云うのもデメリットに存在している。
時間もまだまだある。ゆっくりと食してから店を出よう。
この喫茶店には電灯だけではなく、テレビやラジオと云う類も存在していなければ、店内BGMと云うものもなく、静寂に包まれた店であった。優愛以外の客も居ない事もあり、店内に響いているのは優愛が食事をする音と、厨房から聴こえる洗い物の音、どこからか聴こえる何者かの鼻歌、そして先ほど注文を取りに来た少女が読む本のページをめくる音だけであった。普通の人間であれば重苦しい空気だと思うかもしれないが、優愛にとっては逆に安心できる空間であった。
パスタを食べ終えて、紅茶を飲む頃には、既に紅茶は冷めきっていた。最初に来て、その後考え事をしていたので当然の結果ではあるが……
すると横から先ほど紅茶を運んできた女性が姿を現して、紅茶のカップを下げる。数秒後、暖かい紅茶に入れ変えてきた。
「サービスだよ。ごゆっくり」
それだけ言ってまた厨房の方に戻っていった。
しばし呆気にとられていたが、その親切を受け取っておこうと、優愛は何も言わずに暖かい紅茶に口をつけた。
…………その後、一体どれだけそこで紅茶を飲んでいただろうか。そろそろ帰ろうと思い、ようやく席を立つと、店を出る為に財布を取り出して、レジの方に向かった。
「ありがとうございました」
レジと言うにはあまりにも手作り感溢れるそれに目を奪われながらも、精算を済ませる。
からん、と音を立てて、また扉を潜って店を出る。最後に、この店の名前だけは覚えておこうと思って看板を見ようとした時、人とぶつかった。
「あら、ごめんなさい」
「あ……いえ、こちらこそ……」
ふたり組の少女を店の中に見送って、優愛は店名を見たあとその場をあとにした。
あとはこのまま家に真直ぐ帰るだけなのだが、優愛はひとつ気になっている事があったのである。
自分の体調がおかしくなった時見えたのは、例の爆破事件のあったビルであった。しかも先日の夢には似たようなビルも見えていた。センチメンタリズム的な、第六感を信じている訳ではないのだがどうにも気になっていた。