ACT 7-3
昔の話だ。物心がついたばかりの頃の話だ。
祖父と祖母がまだ生きていて、父親と母親もまだ生きていた頃の時代。暖かな家庭があったときの話。
小さな本の世界には、魔法使いの女の子がいて、その女の子が魔法を使って様々な事件を解決し、時には自分勝手に使って痛い目にあうなど、楽しい世界がそこには広がっていた。
時間が経つにつれて、魔法と云うものは物語の中のものでしかないと嘲笑い、忘れていく。子供の頃に憧れていたものなど、歳をとると笑い物でしかない。それを貫き、叶えられる人間など、ほんの一握りの人間だけだ。
同じように、理美も忘れ去っていた。
絵本の中にある、魔法使いの女の子の事を。
ハガキの内容をみてすぐに出かけて準備を整えた。要望の代物は数こそは少なかったものの、ホームセンターまで買いに行く羽目になったので少し時間が掛かってしまった。部屋に再び荷物を抱えて戻ってくる頃には時刻も二二時を回っていた。
「疲れた……」
別に鍛えていない訳ではない。職業柄、様々な銃器を扱う事もあって、肉体はそれなりに鍛えているつもりだ。
しかし、長い間の仕事で体を休めたい気持ちが大きく、しばらくサボっていたせいなのか、買ってきたものを玄関においたときには体に凄まじい疲労感が襲ってきていた。人間、普段から使っていない箇所から衰えていくものだな、と理美は思った。
買ってきたのは、石灰が入った小さな袋と、小型ラインカー。取ったとき、そこまで重くなかったので持ってかれると思ったのだが、配送して貰えば良かったと、今さらながらに後悔する。
「一度っきりしか使わないからな……終わったらどうしようか」
このようなものを買ってきたのには当然理由がある。急いで買ってきたのは、タイムリミットが今日の夜しかないからだ。
―――ポストの中に入っていた二枚目のハガキは白紙ではなかった。一枚目の白紙の紙に文字を浮かべさせる為の方法が事細かく、書かれていたのである。
その方法と云うのが、また馬鹿げたものだった。
ハガキの半分ほどを占めていたのは、子供の頃によく見た絵本の、魔法使いの使う魔方陣のようなものの〝絵〟だった。
どうやって描くなどは書いておらず、ただ、石灰でこの絵の通りの魔方陣を描く事を命令されていた。
バカバカしい。子供の遊びじゃあるまいし。
とも思ったのだが、意外と乗り気だったらしい。すぐに出かけて、こうして疲れてまで石灰を買ってきたのだから。
座布団の上に腰をおろして一息。冷蔵庫から飲み物を取り出して一口。
玄関に置きっぱなしの石灰の袋とラインカーを一目見て、あれを抱えて今度はどこにいけば良いのか。
ハガキを取り出して、内容を確認する。場所に関しても、魔方陣の大きさに関しても書かれてはいない。つまり問わないと云う事だ。
絵を見る限り複雑なところはあまりなく、これなら小さい敷地でもなんとか描けそうなレベルではある。とは言え、この近くにそのような場所は存在していない。
カーテンの隙間から外を眺めてみる。一階の住人には、小さいながらも庭がある。その代わり二階の住人にはベランダが存在している。
〝あそこでも出来そうだな……〟
部屋の外に出て、階段を降りて下の階層へ。ガスメーターのところに歩いていく。
……メーターは動いていない。つまり今なら誰もいないと云う訳だ。
庭の方に足を踏み入れてみる。部屋の灯りはひとつもついておらず、二階の方も自分の部屋に電気がついているだけだった。
〝こんなに人いなかったのか……〟
改めて、このアパートの人の少なさを実感する。寧ろ、自分しか住んでいないのではないのだろうかと思ってしまう。
また正面の方に戻ってきて、階段を登って、自分の部屋に戻ってくる。この調子なら、深夜にやればばれなさそうではある。
玄関にある石灰の袋と、ラインカーを玄関先に出して、作業を始める。今の内にしておいた方が、あとが楽である。
ラインカーの上の蓋をあけて、その中に石灰を一緒に買っておいたスコップですくっては中に入れていく。すべて使う必要はない。半分ほどラインカーの中に石灰が入ったら蓋を閉めた。
これで準備は万全である。あとは時間が経つのを待つだけである。
時刻は二時、一〇分前ほど。
音を立てないようにゆっくりと外に出ると、ラインカーを抱えて一階に降りる。念の為、辺りを見渡しておくが、人ひとり、歩いていない。
庭の方に回って、ラインカーを置く。ゆっくりと庭を歩くが、どこの部屋もカーテンすらつけていないような状況で、いるのかいないのか、全く解らない。ここまできたら戻るのも莫迦らしいので、見つかる前に迅速に事を済ませてしまおう。
ラインカーに備え付けられている取手を引っ張ると、がちゃん、と乾いた音が響く。これで、転がすと石灰が出てくる仕組みだ。
持ってきたペンライトでハガキの内容を見ながら、ラインカーを引いていく。
……これはこれで、なにか昔の工作を思い出して楽しい。そう言えば、自分は女だと云うのに、秘密基地や、スポーツ、プラモデルなど、男独特の「格好の良い」ものに惹かれていたな、と思い出す。
途中何度か細かい部分を描き直し、やっと納得のいく出来になるのに随分と時間が掛かってしまった。この辺りの街灯の少なさと、持っている電気がペンライトだけと云う事もあり、全体像を確認するのには骨を折った。しかし、魔方陣自体はそこまで複雑な代物ではなく「丸」「四角」「三角」など、基本的な図形を重ねたようなものであった。時間が掛かったのは時々ある、小さな文字の部分だ。ラインカーでは小回りが効かないので、文字の部分は手を使って描いた。
一息吐いて、持ってきた時計を見ると、この作業だけでそろそろ一時間が経過しようとしている。意外と重労働だ。
と云うより効率がやはり悪いのだ。人がいないときにやらなければならないと思って夜を選択したが、どうやら失敗だったらしい。
ある程度のカタチを最後に整え、取りあえず大体はこれで良いだろうと思う。ひいき目に見れば、ハガキに描いてある魔方陣に見えなくもない。取りあえず解ったのは、自分に絵心はない。
次の手順はハガキを見るしかない。取りあえず、ペンライトでハガキを確認する。
どうやら前の白紙のハガキが必要らしい。理美はポケットの中に忍ばせてきた前のハガキを取り出す。……相変わらず、白紙のままだ。
また書いてあるハガキの方を見ると、魔方陣の中央に白紙の方のハガキを置け、と書いてある。
折角描いた魔方陣を消さないように、足元を確認しながら近付き、真中にハガキを配置する事に成功した。
準備はこれで完了らしい。最後に、ハガキにはコップ一杯の水と、一滴の血液を要求している。
コップ一杯の水は既に用意してある。あとは血液だ。
持ってきたのは小さな裁縫用の針で、それで指の先を刺す。ちくり、と一瞬の痛みのあと、すぐに赤い血が出てくる。
これで良い。
あとはこのコップ一杯の水を魔方陣に向かって撒く。……そういえば、石灰とは水と化学反応を起こして熱を発する、と聴いた事があるのを思い出した。
水をまいたがたいした変化はない。そもそもコップ一杯と云うのがどのレベルを想定しているのか解らないが、他に水も用意していないのでそのまま続ける事にした。
指から出た血。垂らすには多少手間だが仕方がない。指を下にして、垂れるのを待つ。
しばらくすると、血の玉のようなものが出来あがり、流れ出てくる血の重さに耐えられなくなり……一滴。
…………なにもない。
しばらくそこで眺めていたのだが、想像していたものとは違っていた。もちろん、この儀式にも似た行為が本物であるのなら、想像していたのは魔方陣が光り輝き、そこからなにか異物が現れると云うものだ。喩え異物が出なかったとしても、魔方陣が光り輝く、と云うのは昔から見てきたテレビか何かではありふれたものだ。
時間が経過すれば何か起こるのではないのだろうかと思い、しばらくそこで待っていたのだが、なにも起こらない。
「なぁんだ」
解っていた事だが、少しがっかりしている自分がいる。
指先の血を舐めとって、血が出なくなるまで吸い続ける。それを片手間に、この描かれた魔方陣も消していかなければならない。さすがに放置すれば文句も言われるだろう。住民はいなくとも、このアパートの大家はいるのだから。
足で魔方陣を消して行く。一時であったが、童心に戻れて面白かった。多少白い物が残ったが、これぐらいならなんとも思われないだろう。そもそも、庭になにもないと云うのに庭を見て風流を感じるとは思えない。
足で消して行く途中で、真中におかれたハガキを手に取る。先ほど投げた水が掛かって多少濡れていた。
「……?」
白いハガキ。……しかし良く見ると……
「なにか……浮かび上がってる?」
なにをしても白いハガキは白いままだったと云うのに、この手順を踏んだあとでは多少の変化があった。ペンライトで裏側から光を当ててみると、その薄い文字は鮮明に見えるようになった。
無駄ではなかったらしい。寧ろ、こんな子供の遊びのような手順でどうして文字が浮かび上がってきたのか。
依頼主は魔法使いだとでも言うのだろうか?
「まさか」
そんなもの、現実には存在していない。架空の、物語の中だけのものだ。もし、そのようなものが現実に存在しているのだと言うのなら、この世は既にそんな異能力者たちに支配されているだろう。
取りあえず、薄過ぎて完璧には読めないので、庭の片づけを急いで済ませる。ラインカーを担いで、玄関まで戻る。石灰をそのままにラインカーを放置し、部屋の中へと進んでいく。電灯を点けて、二枚のハガキをテーブルの上に置く。
白紙の方のハガキを取り出して、電灯に透かしつつ、ペンでそれをなぞって行く。このままでは見辛いので、取りあえずの処置だ。清書はあとで行う。今はアタリをつければ良い。
そうして格闘する事数分経って、アタリのついたハガキが完成した。これを今度は上からなぞるように清書をしていく。
―――作業を終えると、たいした事はしていないと云うのに妙な疲労感が理美を襲う。考えてみれば時刻は三時半を過ぎた頃合。眠気が強くなってきている。
しかし完成したハガキをひと通り確認してから、眠る事にする。なにが書いてあるか確認しない限りには、寝るに寝られない。
清書したハガキを確認する。
『天馬理美 様
このはがきの内容を、読んでいるということは、まほうじんをかいた事になりますね。
話のくわしい内容は、直接お会いしておはなししましょう。
このハガキのメッセージを読んだ次の日のお昼に、きっさてん「ワンダーランド」で待っています』
と、丸文字で書かれていた。
しかも幾つか漢字が解らなかったのか可愛らしいひらがなで書かれており、少し拍子抜けであった。この手紙を送った人物の年齢が知りたいところだ。
なんにせよ、直接会って話ができるらしい。この、魔法使いのような芸当を仕組んだ人間と、会う事になるらしい。
それはそれで幾つか危険が伴う。今までも何度かクライアントと顔を合わせての打ち合わせをする事はあった。それが信頼関係を築いてきたと思っているし、間違っていたとは思えない。が、リスクは高い。
こちらも色々と用意がある。この手紙を見た次の日、と云う事は少なくともあと二四時間はある。夜にこの手紙を読んで正解だった、と前言を撤回する。
眠い目を擦り、取りあえず今は眠るとしよう。これ以上得られる事はないだろう。
念の為、玄関のポストを確認して何もない事を確認。安心して敷いた布団の上に横になり、意識を無に帰す。




