ACT 1-1
1998, 9, 22,
神代優愛の夏休みはあっと言う間に終わった。
特に目立ったイベントがあった訳でもなく、彼氏彼女の関係ができあがった訳もなく、実家に戻ってやった事と言えば近所の神社であった小さな祭りに顔を出したぐらいだろう。一ヵ月、長いようで短い夏休みは中学時代の友人との、他愛のない日々で終わりを告げた。
今年で『私立八神高等学校』二年生となった優愛にとって、この夏休みは最後の夏休みと言っても過言ではなかった。来年になれば待っているのは大学受験だ。
帰りの新幹線では次の夏休みはどうなるのだろうか……、と云う念を抱えながらこの街に戻ってきた。嫌なイベントとは必ず人生のどこかにあるものだ。
―――さて、彼女の通う私立八神高等学校は有名高校のひとつである。
人気学校と言うのが正しいかもしれないが、この学校の目玉のひとつが芸術学部の存在だ。様々なジャンルに精通した学校であり、都心だけではなく地方からの人気も高い。つい最近では放出された芸術学部の生徒の中に、有名な演劇のチームに入ったと云うニュースもあった。もちろん、普通学科も存在しており、多くの人間はその普通学科を目指す事になる。偏差値も普通学科の方が低く、芸術学部はやや高めに設定されている。
芸術学部の方が有名なのは言うまでも無く若者の間でも、八神高校の愛称は「がみげい」―――八〝神〟高校〝芸〟術学部―――で通っている。
優愛が親元を離れて、現在小さなアパートでひとり暮らしをしているのもこの学校の芸術学部に入学したからである。冬休み、春休み、夏休みの休みでは実家に帰るようにしている。
芸術学部にもコースが設定されており、芸能、美術、文学の三つがある。
優愛は美術を選択している。
なるほど、いでたちもまさにそのとおりの人物だと良く言われる。
白い肌、絹のような黒髪、目つきは柔らかいがしかし温和な印象を与えるものではない。夏休み明けともなれば、浮かれてイメージチェンジした愉快な生徒たちが校門前で通せんぼうを食らうのだが、優愛は違った。すべては規約通り、スカートの丈ですら規約通りと云う人物であった。
一見、生真面目であり生徒から敬遠されがちなものなのだが、生憎この芸術学部の特に美術コースの女子生徒の殆どはそのようなものであり浮いてはいなかった。
といって優愛には目立って友人と呼べる存在も居ない。二年生の夏休みも終わり、既に二週間が過ぎようとしているが未だに下校時はひとりである。
人畜無害。しかし害をなすような存在がいない代わりに友人すら居なかったのである。それを嘆いた事は彼女自身一度もなかった。
そんな彼女の朝の日課は部屋の掃除から始まる。
朝六時にセットされた目覚まし時計が甲高い音を響かせて鳴ると、眠い目を擦って体を起こす事に成功する。まだ夏休みの感覚が抜けておらず、休みボケしている。しかし徐々に治りつつあった。
この時間帯に起きるのも部屋の掃除にかなりの時間が掛かるからだ。優愛が借りているアパートは然程広くはないのだが、彼女は芸術学部美術コースの人間だ。山のように出される課題の中には絵具を使って作品を仕上げるなどが多々ある。画材道具や、飛び散った絵具などを片付けるのは苦労する。特に絵具はモノによっては一度付着してしまえば通常の絵具よりもはるかに取りづらいものも存在している。
そんなものと格闘する事一時間、ようやく掃除を終えると歩くスペースが確保される。狭い部屋で作業すれば、すぐにでも足の踏み場がなくなる。
朝食の時間は確保される時と、そうでない時がある。確保できるのなら自炊をするのだが、今日のように前日課題をして何も準備していない場合は非常に時間が掛かる上に部屋掃除の時間がそれに加算される。確保できなかった場合は学校に行く間のコンビニエンスストアにて購入する。当然昼食も弁当を作る暇がないのであれば、学食や購買にて購入する。
今日は時間があるようだが、昨日の事もある、一から作っていれば確実に時間は無い。故に今日の朝食はコンビニエンスストアでの購入に決定された。
あくびをひとつして、優愛は作った足場の向こう側にある小さなテレビに電源を入れると支度を始める。
鏡を覗き込みながら丁寧に寝癖を直していく。ドライヤーを何度かかけてようやくいつもの髪型に戻ってくれた。さすがの模範生である優愛も化粧はする。最低限の事は気をつけているつもりだ。化粧に関しては、学校側は不問としていた。言っても彼女の化粧は薄く、ほぼ下地を着けただけだ。歯を磨き、顔を洗ったあと、パフを使ってゆっくりと丁寧に化粧をしていく。
……完成。おかしなところはない。ひとつだけ鏡の向こう側にいる自分に頷くと、制服を着て準備は完了だ。
再びテレビの前に戻って来る頃には朝のニュース番組も終わりの挨拶を告げている。次の番組への受け渡し前の占いをしているのだが、興味は無かった。ニュースの内容も、つい最近有名な映画監督が亡くなったぐらいしか知らない。
時計が八時を示したところで、バッグの中に荷物を纏めて、カンバスを抱えて外に出る。戸締まり、火の元を確認。
がちり、と乾いた音を立てて鍵が閉まる。何度か扉を動かしてみて本当に鍵が掛かったかどうかを確認してからようやくアパートの敷地から一歩踏み出す。彼女の住んでいるアパートは二階建て、全八室の小さなアパートだ。そこの101号室に優愛は住んでいる。下から数えて、101、102、103、104、上に行って201、202、203、204となっている。
近所付き合いはあまり無い。ここの203号室に住んでいる人間が同じ学校であり、同じ芸術学部美術コースと云う事もあり話をするぐらいだ。それ以外の住人が一体どのような人間で、職業についているのか、それとも学生なのかすさえ解らない。
この辺りの住宅地もこの時間ともなれば多くの人間が出勤、登校にこの道を使う。その景色のひとつとなる優愛。学校はこのまま道を通って住宅地を抜け、中心街を抜けた向こう側にある。
通りの途中にはショッピングセンターがあるのだが、この時間では開いていない。オープンは九時半からだ、現在の時刻は八時過ぎ。開くのにはまだ時間がある。コンビニエンスストアに行くのもそれが理由だ。ショッピングセンターはオープンが九時半、閉店は二〇時と早い。片やコンビニエンスストアは二四時間営業な為に閉まる事は滅多な事を除いてはない。
アパートから徒歩一〇分ほどでショッピングセンターの前を通り、そこからさらに五分後にはいつものコンビニエンスストアに差し掛かる。
自動ドアを潜って中に入ると、やる気の無いアルバイト店員の声が響く。店内のBGMに耳を貸しながら足早に飲料水コーナーへ。ミネラルウォーターを一本手に取ると、レジ近くのパンが置かれているコーナーへ向かい、適当にひとつパンを手に取るとレジにて清算。
ゆっくりしている時間はない。パンをかじりながら歩いて学校に向かう。登校中、優愛はMDプレイヤーをイヤホンで流しながら登校している。実は制服の内側ポケットには数枚のMDが入っている。
アパートから出て二〇分ほどで、学校の校門にたどり着く。巨大な校門から道が二手に分かれており、右側に行けば芸術学部、左側に行けば普通学科の校舎。芸術学部に所属している優愛は当然右側だ。
下駄箱で靴を脱いで室内用の靴に変える。芸術学部の人間、特に美術コースの人間はそれ以外にも複数の汚れても良い靴を用意している。
時間も丁度良い頃合で、廊下では朝のHR前に無駄話をする学生たちで溢れている。昨日のテレビの内容、新しく発売された本の内容―――様々だ。
優愛は二年生な為に教室は二階にある。芸術学部の校舎は四階建てで、一階には三年生、二階には二年生、三階には一年生の教室がある。四階は多目的室の数々があり、芸能コースの視聴覚室、美術コースの美術室が並んでいる。
この学校の殆どの敷地が芸術学部の為にあると言っても過言ではない。普通学科の使用する教室は少なく、それこそ自らの所属するクラスの教室と、体育で使う体育館、グラウンドぐらいだろう。
優愛の所属するのは2‐Cである。二階でも手前の教室である。2‐A、Bは普通学科の為に別の校舎である。C、D、Eが芸術学部の割り当てになっている。これだけ見ると、いかに芸術学部の方が人気であり、生徒が多いのかが窺える。
カンバスを自分の席の横に置くと、バッグをそれとは逆の方に置く。幸い優愛の席は窓際な為、荷物を両側に置いても咎められる事はない。安心して荷物を置ける。
が、耳につけたMDプレイヤーのイヤホンだけは外さない。今は特に、多くの人間の騒がしい話し声などが聴こえていてうるさい。
それだけじゃない。
恐らく、怖いのだろう。
もしかしたら、自分の悪口を言われているのではないのだろうかと……
人畜無害を装っていれば、何も思われない。存在すら忘れ去られていても良い。こうして黙って、後ろに居れば良い。それこそが、神代優愛の処世術であった。
これといった友人もいない理由がそれにある。彼女の生き方、信念が、他人と共に居る事を前提として成り立っていないのだ。
日常にけだるさを感じている訳ではないのだ。日々の生活は充実しているし、毎日ある学校の授業に面倒臭さも感じていない。比較的真面目に受けている。芸術分野に関しては前から興味もあった、授業が楽しいと思っている。
生きる気力を失くしている訳でもなく、他人のいる生活を否定している訳でもない。恐怖はあるが他人が居なければ生きていけない事も解っている。
優愛はそんな混沌とした内心を抱えて毎日を過ごしている。矛盾だらけの心はある意味、人間らしい。
夏。開け放しの教室に冷房が入るのは、そろそろ担任の教師が教室に現れて朝のHRを始めるからだ。鈍い音を立てて、天井に設置されている巨大な空調機が作動する。オン、と音を立てて冷たい風を送りだすのだが、優愛はその風があまり好きではなかった。と言って、夏の肌にべったりと張りつくような湿った暑さも嫌いであった。
冷房が点いた事で周りの雰囲気も変わる。暑さを紛らわせる為に比較的涼しい廊下で雑談していた生徒たちが一斉に教室の方に入って来る。ぞろぞろと入って来る生徒たちで人口密度は一気に膨れ上がる。
〝……暑い……〟
ため息をひとつ吐いて、優愛は心でそう文句を言う。
部屋が冷え切ってもいないのに一気に人が入りこんでくればそれは暑いに決まっている。わざわざ大声で暑いと騒ぐ必要性もない。
「暑い」「暑いなァ、もう九月だってのに……」「クソ暑いぞこの部屋!」「冷房効いてんのか?」「ついたばっかりだしなぁ」「教科書であおいでやるよ」「ジュースでも買って来るか……」「おい、HR始まるぞ」
……うるさい。
MDプレイヤーの音量をあげる。耳に直接装着して音楽を聴いていると云うのにそれでも聴こえる周りの会話、騒音。それを優愛はMDプレイヤーの音量をあげる事で解決した。
そうすると今度は完全に聴覚は音楽によって支配される。視線を机の上に投げている彼女は眼の前に人が来ない限りは教室がどのような状況にあるのか全く理解できない。
だからこそ不意に机の上に指が現れた時には心臓が飛び跳ねた。急いでイヤホンを外して前を見ると、担任の教師がすぐ目の前に来ている。
「HR、始まるぞ神代」
「…………はい、すみません」
笑い声は……ない。静寂な空間に優愛の小さな声だけが響く。
もしこの失態をした人間が優愛ではなくクラスの男子であれば笑いが漏れ、野次が飛ぶ場面なのだが、今回は優愛であった。周りの人間は何も言わない。彼女と別段親しくなければ、煽っても面白くも何ともないと解っているからだ。
「それじゃあ、今日一日のスケジュールと……あと、連絡事項を知らせるぞ」
チョークを使って黒板に何かを書く音。優愛の一日が始まる音だ。