夫婦ごっこ
家族は増殖していく。それは何故……?
「山崎さーん」
清潔だけれど、どこか落ち着かない独特の匂いが漂う産婦人科のロビーで、私の名前が呼ばれた。もう「山崎」と呼ばれるようになって二年になる。
診察室に通されると、中年の女性医師が待っていた。
いつも簡単な挨拶の後、型通りの問診があり、経過や治療プランを説明される。たまに運動を教わることもあった。最後に薬物療法に用いられる薬について説明をされたら診療は終わり。
「ありがとうございました」
そう言って診察室を出ようとしたら先生が、
「一度、ご主人にも一緒に来てもらって下さい」
と言った。
「……相談してみます」
――不妊治療は、もう半年になる。
お見合いで知り合った私たちは、親戚のおばさんが半ば強引に話を進める形で結婚した。私たち夫婦に対するご近所の奥様達の評判はよく、有名大学で助教授をしているもの静かでカッコいい旦那さんに、綺麗で愛想のいい奥さん、と勝手に羨んでくれている。
――どこが?
私がキッチンでベーコンエッグを作っていると夫が起きてきた。七時ちょうど。この人は規則正しさを大事にする。だから、仕事の日はもちろん休みの日でも毎日この時間に起きてくる。必然的に、私の朝も早い。
「おはよう」
そう夫に言うと小声で返事だけして、すぐ洗面所に向かった。出来上がった朝食をテーブルに並べて、食事を始めても会話らしいものは何一つない。もの静かというより、この人は極端に喋らないだけなのだ。リビングには夫の新聞を捲る音とテレビの音だけ。それにも、もう慣れた。
「紅茶の葉――」
紅茶を飲んだ夫が珍しく話しかけてきた。
「あ、うん。そう変えてみた。昨日ね、お店に行って来たの。春摘の新茶葉が入荷したって葉書が届いてたから。美味しい?」
気付いてくれたことが嬉しくて、感想を訊いてみたけど「あぁ」と素っ気ない返事しかしてもらえない。
再び、新聞とテレビの音しかしなくなる。紅茶を含むと、香りよりも渋みばかり感じられた。淹れるのが下手なせいもあるけど、そもそも私は紅茶があまり好きじゃない。
テレビから聞こえる女子アナの朗らかな声は、無機質な私たちの食卓にはそぐわない気がした。
彼が新聞を捲るのと同時に、昨夜は話せなかったことを口にした。
「昨日は、病院も行ってきたの」
「…………」
空気が少し重くなった気がする。
「特には何もなかったけどね」
お皿に載った卵をフォークでぐちゃぐちゃにしながら報告した。白身に黄色い染みが拡がっていく。
「そう」
夫は新聞を読み続けている。
「一度、旦那さんも一緒に来てくださいって言われたの」
と言ってみても、
「そう」
だけだった。話をしながら夫の眉間に皺が寄っていくのが見えて、私はそれ以上何も言えず口をつぐんだ。
無残な姿の卵が皿を汚していた。
朝食を済ませ、夫を送りだすと電話が鳴った。出てみると、相手は実家の母から。居留守にすればよかった、とすぐに後悔が湧いたが、今更切るわけにもいかない。仕方なくソファーに座り、置いてあるクッションを引き寄せ、話を聞く態勢になる。
和幸さんは――夫のことだ――元気なの、に始まり近所のくだらない噂話に親戚の愚痴ばかり。そんな益体もない話を延々聞かされた後、
「孫はまだなの?」
お決まりの言葉がでてきた。
先に話していたのなんて、どうでもよくて本当に訊きたいのはいつもソレだ。
「うん。病院にも行っているんだけど、中々……」
「先生が悪いんじゃないの?」
自分で紹介したくせにそんなことを言う。「よくしてもらってるよ」と誰の為かわからないフォローをする。溜息が電話越しに聞こえた。
「もう三十なのよ? あんたの年には母さん、お姉ちゃんとあんたと二人もいたのに」
――知らないわよ、そんなの。
クッションを掴む手に力がこもる。
「母さん、こればっかりは授かりものだし……」
そう、世の中は本人の努力で何とかなることと、ならないことが決まっている。これは、何とかならないことだ。
「そんな消極的でどうするの!」
だんだん責められているような心地になり胸がムカムカしてきたから、
「私これから出かける用事があるの、じゃあね」
そう言って一方的に電話を切った。言いようのない不快感を晴らすように、持っていたクッションを力任せに本棚に投げつける。『紅茶の事典』と書かれた本が一緒に落ちた。
――私が、悪いんじゃない。
帰宅した夫と夕食をとり始めたのは、いつも通り八時だった。
そして、やっぱり会話はない。今日は夫が好きなカボチャの煮物なのに……。
つけっ放しのテレビと、食器のカチャカチャ鳴る硬質な音だけが耳につく。
「……ねぇ、あなた。今朝の話だけど」
私は食事の手を休め、夫を見た。
「やっぱり、一緒に病院に行ってもらえないかな」
声に真剣さが滲んだのか、夫も手を止めて私を見てくれた。
「でも、仕事が忙しいから……」
「日曜にも検診しているから。何だったら、あなたの仕事の都合が良い日に診てもらえるよう、先生に頼んでみるし」
自分でも吃驚するほど、一生懸命に夫を説得する。こんなに必死で話しかけたのは初めてかもしれない。
「今は夫婦で診療する人達も結構多いの。先生だって気さくで本当に優しい方なのよ。それにね――」
夫は掛けていた眼鏡をはずし眉間に皺を寄せた。
「別に、そんなに無理することないだろう」
その言葉で、冷水を浴びたようなうすら寒い想いに襲われた。
「何……それ」
目の前が揺らいだ。夫の言葉が信じられなかった。拠り所にしていたものが急に崩れだし、抑えていた不安が一気に溢れ出してくる。
……漠然と、何かが変えられると思っていた。子供さえ出来たら、何か変わると。いま私たちに足りないものを、子供が埋めてくれる気がしていた。そうすれば、全部うまくいくようになる。会話のない食卓も、妻を省みない夫も、私の不安も全部! 確証もないのに、私は本気でそう考えていた。でも、夫はその子供すら望んではいなかったと思い知らされた。
俯く私の口から言葉が漏れる。
「私は、何なの?」
近所の羨望に愛想笑いしながら、幸せを装って内実のない空箱のような家を守っている。でも中身は、夫と妻の役を与えられた他人同士が暮らしているだけ。こんなの子供の『ごっこ遊び』と同じじゃない。
――私は、何?
自分の声が頭の中で反芻される。
「……君は、僕の妻だ」
真面目ぶった声が、型で押したような答えを返してきた。
「そんなこと訊いてるんじゃないわよ!」
私は叫びながら、テーブルに並べられたものをなぎ払った。立ちあがった弾みで椅子は倒れ、不快な音と共に食器は割れ、料理が床を汚した。カボチャが足元に転がってくる。
その場に座り込み、声をあげて私は泣いた。もう嫌だった。自分を見てくれない夫も、孫を望む両親の期待も、それに応えられない私自身も! 何もかも全て! 子供のように、ただ感情のままに泣き続けた。
夫は傍に寄って来ると、慰めるように私の肩に手を置き屈みこんだ。そして――。
「何て言って欲しかったんだ?」
――ナンテイッテ ホシカッタンダ?
次の瞬間、私の平手が夫の頬にとんだ。感じたことがないほどの怒りに肩が震え出す。
「そんなの、自分で考えなさいよ! あなた助教授でしょ、頭いいんでしょ?
もっと、ちゃんと、自分で、考えなさいよ!」
じーん、と手の平に痺れを感じた。声が詰まり、息をすると鼻の奥に刺激が走る。涙が頬を濡らし、夫の顔は歪んで見えた。
「そうよ。もっと考えなさいよ……考えてよ、私のことも」
心の底からの本音だった。私はずっと一緒に考えて欲しかった。お互いのことや将来のこと、二人の子供のことも。そうやって二人で歩んでいく為に、私はこの人と夫婦になったんだから。
そう、私たちは夫婦だ。好きでもない紅茶の葉をシーズンごとに専門店で選んだり、美味しく淹れられるように勉強したりしたのは、彼が毎日飲むから。少しでも同じものを好きになりたくて私も飲んでた。だって、これは努力で何とかなることだもの。婚姻届だけじゃ絶対になくならない、他人という距離を少しでも縮めたいから努力するんだ。
私の嗚咽だけが響くリビングで、夫はぶたれた頬を押さえながら、
「……わからないんだ」
と呟いた。弱々しい声で。
「君が何て言って欲しいのか、何を言ったら喜んでくれるのか。どうやったら笑ってくれるのか、分からないんだ。だから、話せなくて」
肩を落とし、私を見つめる夫は、まるで子供のように頼りなさ気に思える。
「君が子供のことで苦しんでいるようだったから『無理しないでいい』と言っても、君を怒らせてしまって」
言葉を選ぶように、慎重に紡がれていくその言葉には、偽りない夫の心情が込められていると信じられた。
「ごめんな、絵理」
――あ、名前。
今はじめて知った。私に悩みや不安があったように、夫にも自分なりの悩みや葛藤があったことを。暴言にしか思えなかったあの言葉も、彼の不器用な優しさの一端であったのだと。
私は目の端に溜まっていた涙をゆっくり拭った。
「わかんないわよ……バカ」
独り言みたいなその言葉は涙混じりだったけど、悲しさや寂しさはもう含まれていなかったかもしれない。
ふと、私の表情を窺う夫の眉間に目が留まった。
――皺が寄ってる。
それを目にした瞬間、眉間の皺に隠し絵のように宿る想いが見えた気がした。
――もしかして……。
「あなた、いま困ってる?」
恐る恐る訊いた私の言葉に、彼の眉間の皺が更に深くなる。でも小さな声で、
「……困ってる」
頬が紅く色づいた。
そんな彼を見て、私は急に笑い出してしまった。何処に隠れていたのか、愛しさがふつふつと込み上げてくる。
彼の眉間の皺はますます深く険しい表情になっていくのに、今までその表情に感じていた圧迫される思いは消えていた。
さっき泣いたから涙腺が緩んでいたのか、また涙が出てきた。だけど不思議としょっぱくはなかった。もしかしたら、不安は愛しさの裏返しなのかもしれない。
私は零れる涙を指で掬いながら、
「あなた、私たちお互いのこと知らないことばかりね。二年も何やってたのかしらね」
と笑いかけた。
相手を思い遣るばかりで、そのことを伝え合うのが下手くそな私たち。ごっこ遊びみたいな生活でも、お互いを夫や妻と認め合い一緒に暮らしてきた。そこには、確かに相手への想いがあったんだ。ただ気づけないでいただけ。なんだ、私たちは似たもの夫婦じゃないか。
思えば、夫の前でこんなに笑ったのも初めてだった。
彼はまだ少し眉間に皺を寄せた顔をしている。けれど、いくらかその表情が和らいで見える気もした。
「本当だ」
そう言って、私たちは互いに声をあげて笑った。笑い合える相手が傍にいてくれること。それは幸せって意味なんだと思う。一人でもそこそこ楽しく生きられるけど、二人だともっと楽しくなる。三人だと更に。家族は増殖していく。より沢山の幸せを求めて。
ひとしきり笑い合った後、二人で割れた食器や汚れた床を掃除した。夫が転がったカボチャの煮物を見ながら、残念そうな顔をしていたから「また今度、作るわ」と私は言った。それに夫が戸惑った表情で「ありがとう」の言葉を返してくれた。
失敗や喧嘩を恐れる必要なんか全然ない。『また今度』がある。だって私たちは、他人ではなく夫婦なのだから。
今日、私たちの距離が少し縮まった。
澄み渡る空と、気持ちのいい風が吹く日曜日。
私は産婦人科に向かっていた――夫と一緒に。
「ねぇ、帰りにカボチャ買って帰ろっか」
私がそう提案する。
「いいね」
夫もそれに嬉しそうに笑ってくれる。そして産婦人科へ向かう間、ずっと手を握って二人で一緒に歩いた。
こんにちは、ユエです。
難しいことをテーマにしたな……と自分でも思いました。四苦八苦しながら書いた作品です。
ジャンルについては悩みましたが、こういうのも恋愛の形かな、と思い選びました。
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