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ホネ

作者: さーさん



 つん、と焦げ臭い匂いが鼻をつく。

 冷たいタイルが覆う床の上に、建物全体の白さとは反対に暗い雰囲気を感じさせる台が設置されていた。人間が一人余裕で寝転べるほど大きな石造りの台だ。左脇には両手で持たなければならないほど大きく無骨な壺が置かれている。

 石造りの台の上には、粉々になった木片と混ざり合って白い枝のようなものが、たくさん散らばっていた。

 大台の両脇には二人の人間が立ち、黙々と竹と木でできた長い箸を使って白い枝を拾い集めている。慎重な動作で白いそれを箸で渡し合いながら、大きな壺の中に納める。

重苦しい沈黙とかさかさと乾いた作業の音だけが辺りに響いていた。

 そこは火葬場。幾人もの死者の遺体を焼き、遺族の悲しみの涙を吸い込んできた、人間が最後に行き付く場所であった。

 白い枝――焼かれた骨を集めているのは、中学生の少女と火葬場に務める係員の男の二人だけだ。他に骨となった死者の遺族の影は見当たらない。

 骨と化した死者を弔うのは少女一人だけだった。

 少女は紺色のスカーフを巻いたセーラー服を身に付けていた。ぶかぶかの、身体に合わない色褪せた制服である。それは特に制服のサイズが大きいからではなく、少女の方が華奢すぎるのである。制服から覗く少女の手足は、触れたら折れてしまいそうなほど細く、がりがりに痩せていた。

 骨の浮く手で係員の説明通りに少女は骨を集める。大きく長い箸はとても持ち難そうに見えた。


「……あんなに、怖かったのに。あっけない」


 ぽつりとした少女のつぶやきが、静寂に馴染んだ空間によく響いた。

 死んだのは少女の父であった。骨を乗せた大台の奥の窓際に、柄の悪い四十代前半ほどの男の遺影が置かれている。少女と遺影の父は目元が少し似ているほか、雰囲気も顔つきもまったく異なっていた。父親をあからさまな駄目男、不良とするなら、少女は幽鬼のようである。

 小さな骨を大きな箸で取ると力加減を誤ってぽき、と軽く骨は折れた。

 あまりにも簡単に脆く崩れた父の骨を少女はかすかな驚きを持って見つめる。

 生きていた頃の父の腕は太く、立派な体格をしていて、痣が残るほど強くしぶとく少女の腕を掴んで来ることもあったのに、今はもうその面影もない。


(ねぇ、知ってた?)


 一切の感情を殺した無表情で、物言わなくなった父に心の中で囁く。

 身体だけは丈夫だったおかげで原型を留めた腕の骨を骨壺に入れるが、大きすぎて納まりきらず、箸に力を込めて骨を折って入れ込む。

 その軽い感触が、嫌でも巨大だった父の死を少女に意識させた。

 少女にとって父は強大で、逆らう意思すら持てないほど恐ろしい存在だった。

 もう罵倒のひとつも言えなくなった父の遺骨を前に、少女はお世辞にも幸せとは言えなかった父との日々を思い起こした。





 *****




 物心が付いた時には、少女は父と二人で安いぼろアパートに住んでいた。台所と居間、トイレと風呂以外にまともな部屋はひとつしかなく、四畳半の小さな部屋が少女に与えられた唯一の居場所だった。

 男手ひとつで少女を育てた父は暴力こそ振るわなかったが、少女の存在を快く思っていなかった。憎んでいた、と言っても過言ではないはずだ。

 実の父に何故そこまで嫌われていたのか、明確な原因や理由は分からない。唯一つはっきりとしているのは、母の死に少女の存在が関係していたこと。そして父は死んだ母を誰よりも愛していたということだ。


「お前さえいなければ……!」


 そう、何度父に吐き捨てられ、爛々と憎しみに燃える瞳で睨まれたか数え知れない。

 少女が生まれて来なければ母は生きていた。少女が生まれていなければ、父と母は今も幸せに暮らせていた。

 そのような恨み言を、少女は呪いのように幾度も聞かされ育ったのである。

 小学校中学年の夏休みのことだった。

 最低限の生活を成り立たせるため、父はアルバイトに出ていた。小学校もなく、一緒に遊べる親しい友人もいない少女は夏休みを部屋にこもって過ごすのが毎年の恒例だった。

 まったく持って不思議なことだが、父は少女が視界に入ることを許さないのに、少女が必要以上に家から外出することも嫌っていたのである。

あるいはそれは、少女の外見が父より母に似ていたせいかもしれない。何にしても、父の少女に対する束縛の意図や複雑な感情の動きは、最後まで少女には理解できなかった。

 少女は昔から絵を描くのが好きだった。家の中に居場所はなく、外にも出て行けず、閉じ籠った世界で想像する“幸せなもの”や“楽しいもの”をチラシの裏紙やノートに描くのが唯一の趣味だったのだ。

しかし夏休み中ずっと絵を描き続けていれば、当然ながら絵を描けるような白い紙はなくなる。それでも絵を描くことしか少女にできることはなく、少女は狭い家の中で絵を描けるものを探し始めた。

 手始めに四畳半の部屋にある押し入れを漁った。目に見える範囲に絵を描ける紙がないのは分かりきっていた。何の収穫もないままに押入れの一番奥まで掘り進め、底の浅い色褪せた箱を見つけたのだ。

 埃被ったそれは、蓋の周りをガムテープで厳重に封がされていた。押し入れの最奥にあったことも含め、あまり人目に触れさせたくないもののようだ。

 少女はしばし迷ったが、結局は好奇心に負けて箱を開封した。

 箱の中に入っていたのは、数枚の写真だった。

 どれも若い男女と赤子の三人家族の映った写真である。そのうちの一枚には、公園のベンチらしき場所に三人が揃って座り、幸せそうな笑顔を浮かべている。

少女はじっとその写真を手に取って見つめ、ぽつりとつぶやいた。


「これ……お父さん?」


 赤子を抱いた女性の隣に座る男性の面差しに覚えがあった。その表情も雰囲気も、今とは別人のように異なるが、太い眉やきつめの目元、茶色がかった髪など、父を彷彿とさせる。心なしか、女性も少女に似ている気がした。

 この時まで少女は母親の顔を知らなかったため、確証は持てなかったが、直感的にそれが過去の自分たち家族の写真だと気付いた。

 しかし、それを簡単に認めるにはあまりにも写真と現実の落差がありすぎる。父の幸せそうな表情、生まれたことを祝福されているかのような赤子、初めて見る母の穏やかな様子、どれを取っても少女には想像もできなかったものだ。

 少女は十分近く困惑して写真を凝視し続けたが、結局はそれらの写真を自分の服のポケットにしまいこんだ。見つけてしまった写真をいまさら箱に戻すのはもったいなく、そして父に見せて問い質すには父子の関係は悪すぎた。

 父に写真の存在を隠したのは、父にとって幸福の象徴のようなこの写真が、忌々しいものにしか映らないことを何となく察していたからである。

 実際、それは間違いではなかった。

 少女が隠した写真は実にあっさりと父に見つかることになる。もともと少女は何かを隠し持てるような個人スペースを持っていない。押入れに戻さないとなれば、父に見つかるのは時間の問題であったのだが、少女自身はそれにまったく気づいていなかったのである。

 きっかけは父が普段より早く帰宅したことだった。いつもなら父は朝の九時頃に出て行き、夜は早くても七時、遅ければ十時に帰ってくるのだが、その日は五時過ぎという異例の時間帯に帰って来たのだ。

 写真を見つけて以来、少女は父のいない日中に写真をじっと眺める習慣がついていた。初めて見た母の姿、かつてあったはずの幸福な光景、そこに何かを見出すように無心になって眺めていた。

 だから突然アパートの玄関ががちゃん、と乱暴な音を立てて父が帰宅した時、びくっと身体を強張らせて写真を取り落としてしまったのだ。

 少女が慌てて写真を隠す前に、父に写真を目撃されてしまった。過去の思い出を慈しめる家ではなかったから、家に写真がある自体がすでに不自然である。帰宅直後の父が、少女を見るなり顔を歪め、写真を見て怪訝そうにしたのは当たり前の話だった。

 父の視線から隠すように写真をポケットにしまったのも悪かったのだろう、父は怯える少女にずんずんと歩み寄って来て鋭く言った。


「お前、今何を隠した? 見せるんだ!」


 男の太い声に怒鳴られ、少女は恐る恐る写真を父に差し出した。下手に逆らうと痛い目を見ることは、経験から熟知していたのだ。

 写真を奪い取るようにして見た父は、目を見開き凍り付いた。

 少女はそんな父に怯えた目を向け、息を潜める。

 その視線の先で、父はみるみると顔色を変えた。初めは幽霊でも見たように青くなり、次の瞬間には表情を忘れたような完璧な無表情になっていた。

 それは少女が初めて見る父の表情だった。いつものように暗い感情を宿した目で睨むのではなく、感情の籠らない冷淡な目で、父は少女を静かに見下ろしていた。

 少女はただ震えて父を見上げていた。今まで見たどんな父よりも、今の父の姿が恐ろしくその目に映っていた。


「――他のはどうした」


 すぐに箱に一緒に入っていた他の写真のことだと分かった。

 少女がポケットから全て写真を取り出すと父は写真を奪い取って、びりっと大きく二つに破った。びりびりと写真が破かれる音が部屋に響く。

 全てをごみくずに変えると、父はくるりと少女に背を向けた。何も言わない父の背は不気味で、いつも以上に触れ難かった。

 その日の夜のことだった。夕方の写真の件もあり、少女は普段以上の寝苦しさに襲われていた。ようやく寝付いた頃には夜の1時を超えていただろう。もともと眠りが浅かったこともあり、少女は異常な息苦しさを感じて目を覚ました。

 うっすらと寝ぼけ眼で暗い部屋に視線を彷徨わせる。すぐ傍に控えた大きな人影と首元に伝わる生暖かい体温、それに伴う鈍い首の痛みがあった。それを意識した途端、一気に少女の意識は寝起きにも関わらず冴え渡った。

 人影は父で、父は眠っていた少女の首に手を掛け、力を込めようとしていた。――父は自らの手で娘を殺そうとしていたのだ。

 少女は声なき悲鳴を上げ、父を恐怖の目で見つめた。全身が硬直して、嫌な汗がじっとりと肌を濡らす。抵抗もできずに、少女は父の動向を見守ることしかできない。

 少女の細い首にぎゅっと強い圧力がかかった。気道を締め上げられる苦しみに、少女は顔を歪め、ばたばたと反射的に両手両足を暴れさせる。酸素不足に意識が遠退き始める頃になって、ふっと首から父の手の感触が消えた。直後にげほっと咳を連続して零し、ひゅっと音をさせて大きく空気を吸い込む。目には涙が滲んでいた。

 自分の首に手を当て、少女はいまだに傍にいる父を見上げた。暗闇の中、涙に視界がぼやけているせいもあって、父の表情はうかがえない。また父に襲われるかとも思ったが、父は何も言わず、立ち上がって少女に背を向けた。

 父はその足で少女の四畳半の部屋から出て行った。しばらくして、がちゃがちゃと金属が聞こえ、がちゃんとアパートの玄関が開いて閉まる音がする。

すぐに父が家を出て行ったのだと分かった。

 少女は呆然と父の背を見送り、何が何やら分からなくなって泣きながら夜を明かした。

 その夜、とうとう父は帰って来なかった。

 父に殺されかけた夜から、少女はけして父より早く寝付くことはなくなった。それまで以上にびくびくと父に怯え、浅い眠りに落ちては父に殺される夢を見て飛び起きた。

 いつ、殺されるのか。

 夜が訪れる度、父の苛立ちの籠った目に見つめられる度、少女はいつか訪れる死を意識していた。いつか自分は父の手で殺される、本気で少女はそう思っていたのである。

 しかし予想に反して、父はあっけなく、信じられない行動を以て死に至った。

 少女が地元の公立中学校に通うようになり、父子の関係にも小さな変化が起こった。そのひとつは中学校の活動を理由に少女が家に寄りつかなくなったことだろう。中学生になり、父子は夜に無言で顔を合わせるだけの無機質な関係を保っていた。

 中学二年生の夏、うだるような暑さの激しい日のことだった。

 その日、父子は珍しく二人並んで路上に立っていた。夏休みが始まる直前、二人は少女の通う中学校に教師からしつこく呼び出され、まさに向かっている途中であった。

 父は確かに少女を疎んじていたが、親としての最低限の務めは果たす人であった。衣食住や学校で必要な物品はきちんと買い与えていたし、過剰な暴力を奮うこともない。ただ父は二つの目で少女に怒りと憎しみを伝えてくる人だったのだ。

 その眼差しがどれだけ少女の精神を削り、傷つけたかは計り知れない。

 中学校の近くまで運行するバスを待つために二人は炎天下の中、ベンチもないバス停で立ち尽くしていた。道路はそれなりに車通りの激しい場所で、そう時間を掛けずしてバスも訪れるはずだった。

 少女にとって父と二人きりの状態は苦痛以外の何ものでもなかった。教師に呼び出されたのも、少女の不健康すぎる痩せた身体と精神状態から、虐待を疑われていたからであったが、それは少女自身も知ることのなかった事実である。

 少女は少しでも現状から逃げるようにうつむいて、じっとバスを待っていた。隣からは幼い頃から馴染んだ父の不機嫌な雰囲気が伝わってくる。ジージーと蝉の鳴く声が耳を突いてうるさかった。

 キキィッと突然甲高い破壊音が辺りに響き渡った。はっと少女が顔を上げた時にはすでに遅く、目の前に小型の車が突っ込んでくるところだった。とっさの事態に身体が硬直して逃げられず、少女は呆然と車を見つめる。

 このまま死ぬのかと思った。

 だが少女と車の間に飛び出す影があった。とても大きく、何よりも見慣れた影だった。少女が物心ついて以来怯え続けてきたその影は、少女に手を伸ばし、力の限りで突き飛ばした。鈍い痛みと共に少女の身体は歩道を転がる。

 少女の見開かれた眼は、一連の光景を何一つ見逃していなかった。運転を誤った車を目撃した父が少女を振り返って顔を歪め、その目にわずかな逡巡を浮かべながらも、手を伸ばし突き飛ばそうとする光景も。少女を庇った代わりに車と接触した父の身体が面白いように大きく吹き飛び、地面に転がる様子も。最後に父がある名前を口にしたことも。――全て、目と耳に刻み込まれていた。

 難を逃れた少女は歩道に呆然と尻餅をつき、呼吸すら止めて目の前の惨状に見入った。頑丈に見えた歩道の塀は車に突っ込まれて罅を入れ、事故車は運転席まで大破している。少女と真反対の方向に投げ出された父の身体からは、ゆっくりと鮮血が流れ出し、血だまりを作ろうとしていた。

 事故を目撃した人々が周辺でざわめき、その内の何人かが駆け寄ってきて少女に無事を確認する言葉を掛ける。しかし、どの声も少女の意識にまで届かない。少女はぴくりとも動かず、離れた場所で倒れ伏す父の姿に意識を奪われていた。



――小夜。



 最後に父が呼んだ女性の名前。それは少女をこの世に生み落とし、早くにこの世を去った母の名前だった。

 年々、歳を取るに連れていつかの写真で見た母に似てくる少女を、父は戸惑いの眼で見ることが多くなっていた。憎しみの眼は変わらなかったが、少女を目にするとそれまで以上に苦しげに顔を歪ませるのだ。

 父の少女に対する憎しみの根本に母の死があることは判っていた。母に似て生まれた少女に過剰な暴力を奮えない父の複雑な想いや苦悩にも、薄々と勘付いていた。それでも父が少女に糾弾の眼を、憎悪を燃やしていることに変わりはなく、父子が互いを理解し合うことはなかった。

 少女は父の最後のつぶやきを耳に反芻させ、おびただしい血を流す父に駆け寄ることも、何か言葉を洩らすこともなく、呆然と死に向かう父の姿を眺め続けた。

 周囲の人々によって呼ばれた救急車によって、少女と父は近隣の病院に緊急搬送されたが、父は夜明けを迎えることなくあっさりとこの世を去った。

 10年以上向けられ続けた父の深い憎しみの眼差しは、こうして実にあっけなく、少女の現実から消え去った。




 *****




 収骨も終わりに近づいた頃。少女は骨を拾う手を止めて骨壺の中の父に視線を落とす。乾いた唇をかすかに開いて、声もなく少女はあの世の父に呼びかけた。



――ねえ、知ってた、お父さん。

――お父さんは私を殺そうとしたけど。私はお父さんを死なせる気なんてなかったのよ。



 形となって晒されなかった言葉は届ける相手すらすでに無く、かすかな呼気に少女の複雑な想いを乗せて、宙へと消えた。

 少女の虚ろな視線の先で、火葬場の職員の男性は木棺の焼け滓と混ざって区別のつかなくなった小さな骨を掻き集めている。ぽろぽろと小さな白い骨の塊は儚く零れ落ち、台上の灰と混ざってなかなか集め切らない。

 少女は変わり果てた父の一部をぼんやりと見つめる。

あれほど恐ろしかったのに、とかすかに震える声で呻くようにつぶやいた。


「……嘘みたい」




 *****




 少女は骨格の透ける細い腕に白の納まる壺を抱いて立ち去った。

 見送る人は誰もなく。

 骨壷と共にどこかへ消えた。





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