別れさせ屋 :約4500文字
午後三時を少し過ぎた頃、とあるカフェのオープンテラスに一人の男が座っていた。頭上には大きなパラソルが広がり、その影が歩道へ長く伸びている。通りを行き交う人々はちらりと視線を投げては、どこか羨ましそうに、あるいは関心を示さず通り過ぎていく。
当の男はテーブルに置かれたアイスコーヒーのグラスを握っては離し、ちらちらと周囲へ視線を走らせていた。肩はせわしなく揺れ、足はテーブルの下で小刻みに震えていた。
と、そこへ――。
「あの、すみません。ここ、いいですか……?」
一人の女が遠慮がちに声をかけてきた。走っていたのだろうか呼吸はわずかに乱れ、前かがみになって片手で乱れた髪を押さえている。ブラウスの襟元も呼吸に合わせて小さく上下していた。その襟ぐりからちらりと覗く胸の谷間に、男の視線は自然と吸い寄せられた。
数秒の間を置き、はっと我に返った男は慌ててうなずいた。
「え、ええ、どうぞ……」
「すみません、助かります……」
女はほっとしたように微笑むと、男の向かいの席に腰を下ろした。
「実は、さっきナンパしてきた人がずっと後をついてきていて……」
女は怯えたように周囲をちらちらと窺いながら言った。
「知り合いのふりをしていただけると助かるんですけど、少しの間だけで構いませんので……」
「え、ええ、もちろん。僕でよければ、いくらでも」
「よかったあ、ありがとうございます」
女は安堵の笑みを浮かべ、それから身体を少しだけ男のほうへ寄せた。
「知り合いじゃなくて、恋人でも……あ、いえ、なんでもありません」
「えっ、あ、あはは……」
男はぎこちなく笑った。ほどなくして、女の注文したアイスティーがテーブルに運ばれてきて、二人はそのまましばらく談笑した。仕事や休日の過ごし方、最近見た映画など、当たり障りのない話を重ねていった。女は相槌の打ち方も笑うタイミングも絶妙で、男は最初のうちは強張っていたものの、時間が経つにつれて次第に表情が和らいでいった。
そうして二十分ほど経った頃だった。
「ふふ、あの、ありがとうございました」
女がぺこりと頭を下げた。
「もう大丈夫そうです。あの人もたぶんどこかへ行ったみたいですし。おかげで助かりました」
「いえいえ、とんでもない。役に立てたならよかったですよ」
「ほんと、優しくて素敵な人なんですね。こんな人にならナンパされても……なんて」
「え、あは、あはは」
男は頭を掻きながら照れたように笑った。
女は男に気づかれないよう静かに息をついた。今のは少し露骨だったかもしれない。でも、手応えは悪くない。これまでの経験からすれば、この男も落ちるまでそう時間はかからないだろう。
女は別れさせ屋。この男と交際している女の親から依頼を受け、二人の仲を引き裂くために近づいたのだった。
手口は単純である。標的の男に近づき、さりげなく好意を匂わせ、相手がその気になるまで距離を縮めていく。最終的には一線を越えさせる――といっても、必ずしも肉体関係にまで持ち込む必要はない。二人でホテルに入るところさえ押さえられれば、依頼人にとっては十分な材料になる。
今日のところは上出来だった。ここで連絡先を交換し、あと数回も会えばかなりの確率でこちらの誘いに乗るだろう。浮気したという事実さえ作ってしまえば、あとは依頼人の望みどおりに事が運ぶ。
そう判断した女は、最後のひと押しにかかった。
「じゃあ、私はそろそろ失礼しますね。本当にありがとうございました。あの、もしよかったら連絡先を――」
「じゃあ、行こうか」
「え?」
男は椅子を引き、すっと腰を浮かせた。
「行くって、どこへ?」と女は思わず聞き返した。
「ホテル」
「えっ」
「ここからなら歩いてすぐだよ。さ、行こう」
男はさも当然のように言った。女は男を見上げたまま、目を瞬かせた。
「ん、どうしたの?」
「いや……」
「ほら、早く行こうよ」
「いや、早くない?」
「早い?」
男はきょとんとした顔で首をかしげた。
「早いでしょ。まだ会って三十分も経ってないですよ」
「んー、充分だと思うけどなあ」
「普通、もう少し段階を踏むでしょう。ナンパでもまだ早いわ」
「でもほら、運命の出会いに時間なんて関係ないさ」
「安っぽいセリフ……。それに、あなた、お付き合いしている人がいるって、さっき言ってましたよね?」
「ああ、いるよ。結婚も真剣に考えてる」
「じゃあ、なぜ……?」
「あー……それはそれ」
「それはそれ……?」
「よっし、とにかく行こうか」
「え、いや、彼女に悪いとか思わないんですか?」
「あー、まあ、うん……よし、行こうか」
「すごい、全然ぶれない……というか今、ちゃんと彼女のこと思い浮かべました?」
「ああ、もちろんだよ。彼女ね、彼女。うん彼女彼女」
男はそう言いながら目を泳がせた。
標的のほうから誘ってくるのは、むしろ都合がいいはずだった。しかし、男のあまりにも不自然な反応に、先ほどから胸の内でくすぶっていた疑問が一気に膨れ上がり、女の口をついて出た。
「え、もしかして……依頼人?」
「え……?」
「別れさせ屋に依頼したの、あなたでしょ」
「別れさせ屋……?」
男は首をかしげた。その反応を見た瞬間、女は自分が何を口走ったのか気づき、はっと片手で口を覆った。そして慌ててもう片方の手を振り、取り繕うような笑みを浮かべた。
「あ、いえ、違うの。ごめんなさい、今のは忘れて。ちょっと変なこと言っちゃった」
「あ、ああ、そうだよね。正体をばらしたらプロ失格だもんね」
「やっぱり依頼人じゃない!?」
女は思わず声を荒げた。
「彼女もいないくせに自分で別れさせ屋に依頼して、ただ私と寝たいだけなんじゃないの!?」
「い、依頼って何さ?」
男は頬を引きつらせながら聞き返した。リズムを刻んでいるように見えるほど、身体が落ち着きなく左右に揺れ始めた。
「さっきの彼女の話だって全然具体性がなくて、正直聞けたものじゃなかったもの。毎朝お弁当を作って駅まで届けに来てくれるって何? 今どきいないでしょ、そんな女」
「いやいや、ほんとだって。ははは、いないとか意味わかんないし」
「じゃあ、彼女の写真とか動画を見せて」
「いやー、そういうのはない……かな」
「結婚まで考えてるのに? というか、今ならAIでそれらしい写真を作るなり、ネットで拾ってくるなり、いくらでもできるでしょ。そういう詰めの甘さも嫌」
「いや、だから本当なんだって……ははは、意味わかんないし、意味わからないなあ」
「動揺して語彙力なくしてるじゃない」
「いや、彼女、写真とか駄目なタイプでさ。嫌がるんだよ」
「言い訳がそれって……。もういいです。とにかく、ホテルには行きません」
「ええ!?」
「そんなに驚くこと?」
「いや、行こうよ。今すぐ。ほらほら早く早く早く!」
「怖……。行かないってば。だって彼女いないんでしょ? だったら意味ないじゃない」
「いや、いるんだって! ほら、あれだ、えーっと、寝る前には必ずおやすみの電話するし」
「確か、彼女も三十過ぎなんでしょ。今どきいないでしょ、そんな女」
「それから、バレンタインには手作りのチョコをくれたし。ちょっと焦げてたけど」
「だからいないでしょ。その微妙に料理下手な感じが腹立つわ」
「彼女、料理したことないんだってば……。ああそれから、雨の日には駅まで迎えに来て、二人で一本の傘に入って帰ったりして」
「だからいないでしょ。というか、あなた、そもそも彼女いたこと自体ないんじゃない? 出てくるエピソードがどれも定番というか、古臭くて、今どきドラマでも見ないのよ」
「仕方ないんだって……。彼女、幼い頃から仕事ばかりで、そういう普通のことをしたことがないから、一度やってみたいって言うんだよ……」
「幼い頃から働いてるって何。設定が破綻してるじゃないの」
「そんなことおれに言われてもさあ……」
男は手のひらで顔をごしごしこすった。
「じゃあ、何かもっと具体的な話はないの? 彼女の好みとか趣味とか」
「好み……えーっと、えー、エプロンが好き、とか。うん。よく着てくるよ。汚れてもすぐに外せるから便利なんだって」
「普段着で!?」
「あと、リボンが好きで、よく髪につけてる。『女の子っぽいでしょ』って、嬉しそうに見せてくるんだよ」
「ださい……。あなたの中の女のイメージが、ことごとく古いのよ」
女は呆れ果て、深々とため息をついた。額に手を当てる。男の想像力の貧しさに、頭痛までしてきた。
「依頼の電話を受けたとき、相手がボイスチェンジャーを使っていたって聞いたから、最初から妙だとは思ってたのよ。あなたなんでしょ? いや、どういう嗜好よ。女と寝たいなら普通に風俗でもなんでも行きなさいよ!」
「だから、それはたぶん向こう側の……いや、意味がよくわからないよ。何を言っているのかさっぱり、あああ、わからないわからないわからない僕は何もわからないわからないわからない知らない知らない知らない知らない知らない」
「怖っ……。とにかく、もう帰りますから」
女はそう言って席を立った。しかし、男はすかさず手で制してきた。
「本当なんだって! 信じてくれよお……。仕事から帰ると、部屋がピカピカに掃除されていて、エプロン姿の彼女が『おかえり』って笑顔で出迎えたり、お揃いのミサンガをつけたり、手編みのセーターをプレゼントしてくれたり、お気に入りの曲を入れたCDを送り合ったり、ベランダ越しに糸電話で話したりしたことがあるんだよ!」
「だから古いのよ、全部! もう付き合いきれません。さよなら」
「いや、ホテルは!? 行こうよ、行ってよお……頼むよ。ああ、早くしないと彼女に気づかれる……」
「行かないって言ってるでしょ!」
男はなおも縋るように手を伸ばした。女はさっと身を引き、顔をしかめた。そのときだった。
「やほー」
一人の女が二人のもとへ近づいてきた。花柄のエプロンを身につけ、頭には大きなリボンをつけている。両手には蓋の付いた鍋を抱えており、サイズがあっていないのか、歩くたびにカタカタと音を立てていた。
通行人たちの中で、その姿だけが別世界から切り取られたように浮いていた。
「シチュー作りすぎちゃったから持ってきたの。一緒に食べよ」
彼女は屈託のない笑みを浮かべ、鍋を持ち上げてみせた。
「あ、ああ……でも、なんでここが……?」
男はか細い声で訊ねた。
「服に発信機と盗聴器をいくつか仕掛けておいたから……あ、ううん。女の勘ってやつだよ」
「あー、そっかそっか。勘かあ。すごいなあ……」
「うん。ちなみにあなたが浮気しても別れないし、相手の女を殺すから。あなたが罪悪感を抱くほど残酷に……あ、なんてね」
彼女は小首をかしげ、にっこりと笑った。
「えー、ははは、よく意味がわからないなあ……」
「うん。あなたはそれでいいの。なんでもないから。さ、帰ろ」
「はい」
彼女は男の腕に自分の腕をするりと絡めた。そして二人は肩を並べて、その場を離れていった。
一人取り残された女は、やがてぽつりと呟いた。
「いや、バレてるでしょ……」




