赤い部屋
今日もまたこの扉を開ける。一歩中に入ると、外の明るさに慣れた目には暗く思えるほどの照明しか点いていないが、すぐにその穏やかな光と、店内のインテリアに統一されている赤色に自分を染み込ますことができた。
入り口から一番遠い奥の席に向かい、今時の家具からすれば異様なほどの低さのベルベットの椅子に体を沈ませる。店主が注文を聞きに来てくれるのを待つ間、ゆっくりと店内を見回してみる。
古いスピーカーからはタンゴが流れている。鉄の格子が組み合わされた間仕切り。植物の彫刻が施された小さな机と椅子たち。壁や天井は煙草の煙で飴色に染まっていて、歴史を静かに物語っている。
「何になさいますか?」
高齢の店主の丁寧な言葉遣いが私をもてなしてくれる。
「えっと、珈琲と…あとこのケーキもお願いします」
「あの、ブランデーはお入れしてもよろしいですか?」
「はい、お願いします」
店主はまた入り口横のカウンターの中にある小さな厨房に入っていく。私は鞄からさっき買ったばかりの画集を取り出して読み始める。
ここは注文をしてから出てくるまでに四十分以上は見ておかなければいけない。常連客たちは皆心得ているので、静かにそれぞれの時間を過ごしている。たまに事情を知らない観光客が入ってきて、怒って出ていく人もいるが、殆どの人はこの空間にいる時間自体を楽しみにしているのだ。
「お待たせしました」
アンティークのカップに濃く淹れられた珈琲と真っ白なケーキ。本を鞄に戻し、しばし味わう。
タンゴと、お喋りと、煙草の煙、そして時間がゆっくりと流れてゆく。
時間が経つにつれお客さんも増え、いつの間にか狭い店内は満員になっていた。
「ごちそうさまでした」そう言いながら、次はいつ来られるだろうとふと思った。
「ありがとうございました」いつも変わらない、店主の少し首を傾げた笑顔に見送られて外へ出ると、もうすっかり暗くなった空と、賑やかな街の灯りが私をまた日常に戻していった。
…二十年以上前の話だ。あれから私は何回かの引越しをし、この街ともすっかり縁遠くなっていった。今では私の知っていた頃とはすっかり変わり、LEDの照明たちが白けた光を投げかけていることだろう。
あのぼんやりとした光、タンゴと密やかな話し声の混ざった音、そして煙草の煙でさえも、今はもう夢の中でしか漂わないのである。
昔京都の河原町にあったある喫茶店をイメージして書いた作品です。半エッセイ、半幻想といった感じです。




