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夢をみたの~ある少女の祈り~【完全版】  作者: yaasan


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3/3

祈りの残響

 「お兄さん、よかったらぼくと遊んで行かない?」


 俺にそう声をかけてきたのは、まだ二十歳にもなっていないように思える少年だった。年齢は十六、七といったところだろうか。


 場所は新宿のトー横近く。時刻は深夜の一時をすでに回っている。


 その夜はクライアントの接待だった。そこの場で俺は、客と自分の上司から大して飲めない酒を飲まされていた。


 もっとも、それほど酔っていたわけではない。悪酔いしたわけでもない。


 ただ、なぜか急に嫌になって、路上で座っていたのだ。終電間際の混んだ電車に乗るのが嫌だった。そんな理由もあったのかもしれない。


 そう。きっとそうなのだ。

 電車が嫌だと思った瞬間、何もかもが嫌になった。


 接待が嫌だった。上司が、会社が嫌だった。

 妻が、子供が、家が嫌だった。


 思えば最近、電車の窓に映る自分の顔が、他の誰かのように感じられていた。

 まるで自分が、誰かの人生を借りて生きている気さえしていた。 


 ……俺の周りには嫌なことが溢れていて、だから生きているのが少しだけ辛かった。

 そんな思いを抱えて、路上に座り込んでいた俺の前に現れたのがこの少年だった。


「お兄さん、ぼくと遊ばない?」


 少年は再び同じ言葉を言って、ペットボトルのミネラルウォーターを差し出した。俺は言われた意味がよく分からなくて、呆けたような顔でペットボトルを受け取る。


 それを見て、少年は俺の隣に座り込んでしまった。理解が追いついていかなく、俺は少年の横顔をじっと凝視する。


 少し強い風が吹いて、少年の白に近いような金髪を揺らしていた。


「いいよ、飲んで」


「あ、ああ」


 俺は素直にうなずくと、キャップを外してミネラルウォーターを一口飲む。冷えていて、予想外に美味しかった。


 何を言えばいいのか分からなくて、取り敢えずカバンの中から電子タバコを取り出す。


 ぼくと遊ばないとはどういう意味だろうか。これからカラオケにでも一緒に行こうかというのか。こんな四十歳を超えたおっさんを捕まえて。


 そんな言葉が俺の中で駆け巡っていた。


「お兄さん、終電なくなっちゃったよ。明日も仕事でしょ? どうするの?」


 余計なお世話だと思わないでもなかった。何か文句を言おうとかと口を開いたが、不思議と言葉は発せられる前に俺の中で霧散してしまう。


 少し口を開けて黙り込んだ俺を見て、少年は再び口を開いた。


「お兄さん、会社員?」


「ああ、そうだ。普通の会社員だ」


 なぜ自分は、普通という言葉を使ったのだろうかと瞬間的に考えた。


 俺は普通だからこんなところで、お前みたいな得たいの知れない奴と関わるつもりなんてない。

 言外にそう言いたかったのかもしれない。


「ふうん、そうなんだ」


 俺の言葉に少年は大して興味を示さないままで言葉を続けた。


「酔っ払ってるの?」


「いや、まあ、少しだけな。今日は接待だったんだよ」


 何で自分はこんな少年と会話を続けているのか。

 そんな言葉が頭の隅に浮かんでくる。


「そっか、ねえ、お兄さん、ぼくと遊ぼうよ。もう帰れないんでしょ?」


 にこりと笑って少年が言う。


「遊ぶって何して……」


 ヤバい店に連れて行かれたら厄介だ。少し引き気味になった俺の感情を敏感に感じとったのだろうか。少年はさらに笑顔を浮かべた。


「遊ぶって、ぼくとだよ。安いホテルを知ってるんだ。ネトカフェに泊まるよりかは高いけどね」


 少年はそう言って片方の目を瞑って見せたのだった。


 その瞬間、また強い風が一瞬だけ吹き抜けていった。少年の髪の毛が宙を踊る。白に近いような金髪。それが夜の景色に映えて、やけに綺麗で印象的だった。

 

 俺はその時、そんなどうでもいいことしか感じていなかった。





 結局、来てしまった。

 

 ラブホテルの一室で、そんな言葉が頭の中でぐるぐると回っている。


 美人局のような目にあったらどうするのか。そんな心配もあったが、男同士でそんなことが起こり得るのかという思いもあった。


 それに相手が男とはいえ、これは未成年相手の売春になるのではないか。それとも、相手が男だとならないのだろうか?


 いやいや、まだ金も払っていない。


 ただ言うなれば、少しだけこの後の展開に興味があったのも事実だった。それは子供の頃に、悪いことだと自覚していながらも、悪戯をしてしまうような感覚に似ていた。


「何、ぼーっと立ってんの? ぼく、シャワーを浴びていいかな? 昨日も浴びてなくてさ」


「あ、ああ……」


 俺はそれだけを言った。すると彼は少しだけ微笑む。


「何、その感じ。一緒に入りたいの? 前金ならいいよ」


「え、ああ、いや……」


 俺はそう言って言葉を濁した。

 やっぱり、そういうことだよなと俺は思う。


「大丈夫だよ。先にシャワーを浴びてくれ。俺はあとから入るから」


「ふうん。ま、いいけど。歯は磨いておいてね」


 少年はそう言って、バスルームに消えていった。消えていったといっても、バスルームはガラス張りで、中は丸見えだ。


 シャワーの音を聞きながら、俺は視線を逸らした。


 歯なんて磨かないよ。

 俺は胸の内で呟いた。


 一定数、そういった者がいることは理解できるが、俺自身はあの少年に性的興味があるわけじゃない。


 俺は腰かけていたベッドに上半身を委ねた。スーツの上着が皺になるな。そんな思いも浮かんだが、そんなことはどうでもいい気分だった。


 タバコの煙のせいなのだろう。小綺麗にしてある壁とは違って、黄色く薄汚れた天井を見上げながら、俺は呟いた。


「俺は一体、何をしてるんだ?」

 

 大して飲めない酒をふざけた上司とクライアントの担当者に飲まされた。

 終電近くになって、混んでいる電車に乗るのが嫌になった。

 家にいる妻や子供たちのことが嫌になった。

 男娼の立ちんぼ、それも少年に声をかけられて、一緒にホテルに来た。


 俺は何をしたいのだろうか?


 自分が何をしたいのか。

 そう自分に問いかけても、明確な答えは出てこない。


 すでに酔いは覚めつつあった。酔った勢いでということではないらしい。眉間に皺を寄せて考えていると、少年がシャワー室から出てきた。


 少年はバスタオルを腰ではなくて、胸の上から巻いている。


 「やれやれだな……」

 

 小声でそう呟いて、俺は立ち上がる。

 シャワー室に入ろうとした俺に向かって、少年が不意に声をかけてきた。


「お兄さん、鞄は持っていた方がいいよ。ぼくみたいな輩、男も女もそうだけど、財布を抜いて逃げる奴もいるからね」


 やれやれだな。

 俺はもう一度、胸の内で呟く。


「今さらだな。俺はお前を信用してるさ」


「会ったばかりなのに?」


 そう懐疑的に言ってはいたが、少年の顔は少しだけ嬉しそうだった。


 正直、信用しているどうかではなくて、どうでもよかった。この少年が財布を盗って逃げ出したとしても、今なら諦めがつきそうな気がしていた。


 その気持ちはどこからくるのだろうか。一瞬、そう考えたが、すぐにその思いをしまい込む。それすらも、俺はどうでもよい気分だった。


 シャワーを浴びて戻ると、少年はベッドの上に座り、足を組んでスマホをいじっていた。俺は腰にバスタオルを巻いていて、少年もまだバスタオル姿のままだ。


 少年は俺の顔を見ると、スマホから俺へと視線を向けた。そして、笑顔を浮かべる。


「で、お兄さん、どうするの?」


 少年はそう言って行為の対価となる金額を俺に告げた。俺はその言葉に首を左右に振った。


 少年にはそんな俺の反応に、落胆したような様子はなかった。


「別にいいけど、ホテル代は払わないよ」


 少年は責めるでもなく、静かに俺を見つめている。

 

 その視線はやけに静かだった。胸の奥にある誰にも見せたくない小さな箱が、冷たい風にさらされているような気がした。


「構わないさ」


 俺はそう言って、少年の横に腰を下ろす。特に話す言葉も見つからなくて、俺はベッドの上に上半身を横たえる。


「寝るの? 明日、会社でしょ? 起こしてあげようか」


「いや……お前は寝ないのか」


 俺の言葉に少年は少し小首を傾げた。


「どうかな。最近、路上で寝ることが多いから、ベッドだと逆に寝られないみたい。それに、寝ても三十分、四十分で目を覚ますんだ」


「そうか」


 俺はそれだけを言った。そう言った俺自身も、こんな状況では眠れそうにない。


 明日は制作の連中とあの打ち合わせをして、工務の連中にあの進行を確認して、クライアントには……。


 中堅の広告代理店で働く俺は、明日のそんなどうでもいい自分の予定を頭の中で反芻していた。


「……ねえ、何もしなくていいの?」


 少年が俺の太ももに片手を置いた。俺は驚きもあって、勢いよく上半身を起こした。


 その動作や顔が面白かったのだろうか。少年は少しだけ笑顔を浮かべる。


 改めて少年の顔を見ると、見方によっては綺麗な顔をした少年だ。吸い込まれそうな大きな黒い瞳。それが印象的だった。


「本当に、大丈夫なの?」


 少年の手が上に上がってくる。その手が妙に温かかった。濡れた髪が額に貼りついている。印象的な黒色の大きな少年の瞳が潤んで輝いている。


 俺は思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。


「だ、大丈夫だ」


 声が少しだけ掠れていたかもしれない。


「ふうん。ま、いいんだけどね。でもそっちは、そんな感じでもないみたいだけど……」


 少年は俺の下半身に視線を落とした。


「い、いや。こいつは……」


 確かに俺の下半身は反応しつつあるようだった。そんな俺の反応に少年はおかしそうに笑う。


「ごめん、ごめん、お兄さんがそういう人だってことは、最初から分かっているから。誘ったのは、ワンチャン、ホテル代を払ってくれないかなって思って。お兄さん、人が良さそうだったから」


「ホテル代……」


「ん。ここ二、三日、客が取れなくてね。お金がなくて、シャワーも浴びられなかったから。お兄さんが来てくれて助かったよ」


「そ、そうか……」


 話が逸れてしまい、俺の中で少しだけ気落ちするものがあることに気がついた。俺はその感情に自身で困惑する。


「お兄さん、寝ていいよ。何時に起こせばいい?」


「いや、大丈夫。何だか寝られそうもない。タバコ、吸うぞ」


 返事を聞かないまま、俺は電子タバコを手にする。電子タバコの頼りない煙を吐き出しながら、俺は話す言葉を探していた。


 営業職だというのに、こういうときには大体にして、会話の言葉を見つけられないものだ。

 言葉を探しあぐねている俺に向かって、少年が口を開いた。


「お兄さん、切り取られた小さな空って分かる?」


 切り取られた小さな空。何の話なのか。映画か何かのタイトルなのだろうか。

 頭を左右に振る俺を見て、少年は少しだけ悲しそうな笑顔を浮かべた。


「誰かが世界の端をちぎって、空だけを貼りつけた場所があるんだって。この世界にはね」


 少年が何を言っているのか分からない。


「そう言った子がいたんだ。そんな夢を見たんだって。死んじゃったんだけどね。ふにゃって、よく笑う子だったんだよ」


 何の話なのか。

 少年が何を言おうとしているのか分からない。


 だけれども、会話の回答を少年は求めてはいない気がした。

 少年はそれを話したかっただけ。俺にはそう思えていた。


「あの子は、小さな空に何を祈ったのかな。幸せを祈ったのかな……」


 少年はそこで言葉を一瞬だけ切って、再び続ける。


「ねえ、お兄さん、幸せって分かる? 知ってる? ぼくには分からないんだ」


 少年の声は、まるで水面に落ちていく音のように静かだった。


「さてな……」


 俺は少しだけ考えた。


 そういえば、そんな話を俺は以前にもどこかでした気がする。


 あれはどこでだったか? 

 誰とだったか?

 そんな言葉を脳裏で泳がせながら、俺は言葉を続ける。


「ただ、幸せなんてもんは、きっと定義の問題なんだろうな」


「定義?」


「ある人には幸せでも、ある人には幸せじゃない。結局、幸せなんてもんは、本人が嬉しいこと。それだけだよ。他人に肯定、否定ができることじゃない。嬉しけりゃ、そいつが幸せなんだよ」


「ふうん、自分が嬉しければ、それが幸せか……」


 少年は少し考えるようにして視線を落とした。そして不意にまた俺に視線を向けて、言葉を続けた。


「お兄さん、面白いことを言うね。じゃあ、これも幸せだ。だって、お兄さんと会えたし、シャワーも浴びて嬉しかったからね」


 自分と会って嬉しかった。真正面から言われて、俺は少しだけ顔が上気するのを感じた。


「それはどうだか知らないけど、幸せなんてきっと、そんな小さなもんだよ」


「そうかもね……」


 そう呟くように返事をした少年。彼が俺の回答に納得したのかどうなのか。その顔だけでは判断できなかった。


 その時、部屋のどこかで猫が鳴く声を俺は聞いた気がした。





 翌朝、七時に俺と少年はラブホテルを出た。俺はこのまま会社に向かうつもりだった。


「お兄さんは駅に行くの?」


 その言葉に俺は黙って頷く。


「じゃあ、ぼくはこっちだから」


 少年はそう言って駅とは反対の方向を指した。


「ありがとね。ホテル代を払ってくれて助かったよ」


 そう言って少年は片方の目を瞑ると、踵を返そうとした。


 俺はそれを呼び止めた。

 

 何をしようとしているのか。

 自分でも分からないまま、少年を呼び止めたのだった。


 呼び止められた少年は、不思議そうな顔をしている。


 体なんて売るもんじゃない。

 自分を傷つけるだけだ。

 いつか危険な目に遭う。

 ……。


 そんな常識的な言葉であれば、いくらでも言える気がした。でも、少年がそんな言葉を少しも求めていないように俺には思えていた。


 俺は懐から名刺を取り出した。


「何かあったら連絡しろ。携帯でも、メールでも、会社でもいい。俺が解決できることなんて大してないだろうが、それでも大人の俺だからできることもきっとあるだろうよ」


 手を伸ばしかけた少年だったが、名刺を受け取る直前に止まってしまう。伸ばしかけた手の指先がわずかに震えていた。


 それは少年自身が世界と繋がってしまうことへの逡巡のように思えた。あるいは恐れなのかもしれない。


「気にするな。ただの名刺だ」


 その時、風が俺と少年の間を静かに駆け抜けていった。

 少年の髪が宙を舞う。それに視線を送りながら俺は言葉を続けた。


「……記号みたいなもんだよ。お守り替わりに持っていけ」


 名刺に視線を落としていた少年は一瞬だけ瞳を閉じた。


「ふうん……やっぱり、お兄さんはいい人なんだね。じゃあ、次は本当に気持ちいいことをしないとね。じゃあね、ありがとう」


 俺の名刺を受け取った少年は、最後に嬉しそうに笑って背を向けた。白に近いような金色の髪が、朝日に照らされて輝いている。


 去って行く少年の背を見ながら、どこから来たのか分からない寂しさを俺は少しだけ感じ、その思いを少しだけ持て余していた。


 結局、最後まで自分が何をしたいのか分からないままだった。ただ分かっていたのは、少年をこのまま一人で帰らせてはいけない。そう感じていたことだけだった。


 それは自分の中で真正面から見てしまうと、吐き気を覚えるような良心。そんな良心の呵責だったのだろうか。


 ま、連絡がくるとも思えないけどな。

 俺は胸の内でそう呟いた。


 さて……。

 家にこのまま会社に行くことを伝えて、会社に向かわなければいけない。

 接待が長引いて帰れなくなったことはメールで伝えてはいたが、妻もそれなりに心配しているはずだ。


 少しだけため息を吐き出して、俺はふと空を見上げる。


 空は青かった。そして少年が言ったように、そこには聳え立つビルに囲まれて、切り取られた小さな空があった。


 誰かが世界の端をそっと破って、ちぎって貼りつけたような空が確かにあった。


 幸せになれるように……。


 誰がということではなかった。

 誰にというわけでもなかった。


 俺はただ祈り、切り取られた小さな空を見上げていた。

 祈りが静かにほどけていく音を聴いていた。

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