「黒猫」と「独り言」
クライアントから届いた修正指示は帰宅直前だった。しかも什器のデザインに関するものだ。
電車に揺られながらそれを思い出し、俺は舌打ちをこらえる。
話は什器だけに収まらず、ウェブ、動画、紙媒体等々、様々なツールにその修正は波及する。特にウェブと動画に関しては、修正しているような時間が多く残されていない。
明日の朝からクリエイティブや工務の連中に、修正指示やスケジュールの交渉をしなければならない。その時に彼らが浮かべる嫌な顔や否定的な言葉。それらを想像すると、どうしても気持ちが沈んでいく。
こういう時にはいつも思うのだが、彼らがどれだけ不平や不満を言おうが、結局はクライアントがやれと言えば、最終的にはやるしかないのだ。となれば、不平や不満を言うだけ無駄だと彼らは思わないのだろうか。
それともそんなことは十分に承知していて、やり場のない怒りの解消として、俺のような営業にそれをぶつけているだけなのか。そう考えると、正解は後者のような気がしてきて、俺の気持ちはますます沈んでいくようだった。
広告代理店といえば聞こえはいいのかもしれないが、媒体を持たない中小の代理店など、実際には広告代理店ではない。それは単なるセールプロモーションの会社で、その営業なんてクライアントの奴隷だ。
今年で四十二歳になる俺は、この業界で二十年近く営業として働いている。だけれども、自分がこの業界で営業として向いているのか、今でも俺自身が分かっていない。
このように面倒な修正などのトラブルがあると、何もかもを投げ出したくなってくる。俺は電車のつり革に掴まりながら、周囲には分からないように少しだけ溜息をついた。
電車が都内を抜けて、神奈川県内に入った時だった。網棚に置いてある俺のカバンの上に、黒猫が寝そべっていることに気がついた。
黒猫はカバンの上で寝そべりながら、つり革に掴まっている俺をじっと見つめている。
「何だ、驚かないのか?」
不意に黒猫が語りかけてきた。
網棚の上の黒猫。加えて喋る黒猫。
俺は周囲をゆっくりと見渡した。
だが、この異常な事態に気がついている乗客はいなかった。左右のつり革に掴まっている五十代に見える会社員らしき男性も、二十代に見える女性も自分のスマホを見ているだけだった。
「いや、驚いているさ」
俺はそう言った。当然、俺の声も周囲に聞こえているはずだった。それなのに黒猫と同じで、急に話し出した俺に目を向ける者はいない。
「驚いているように見えないがな」
猫が面白くなさそうな感じで鼻を鳴らした。
「いや、十分に驚いている。この状況に。それに今、猫が鼻を鳴らしたんだからな」
俺がそう言うと、今度は面白くなさそうに小さく息を吐いてから黒猫が口を開いた。
「猫だって不本意であれば、鼻ぐらいは鳴らすのさ。それにしても随分と面白くなさそうな、疲れた顔をしている」
「そうか? そうでもない」
俺はそう言って軽く肩を竦めた。他人にそう見えてしまうかもしれない理由は確かにあった。
だが、猫にそれを言ったところでどうにもならない。
俺はそう思ったのだ。
黒猫はそんな俺の左手に視線を向けた。その左手には結婚指輪が嵌っている。
「結婚しているのだろう? 子供はいるのか? 帰れば幸せな家庭がある。結構なことじゃないか」
「子供は二人いる。まだ小二と年長さんで小さいがな。幸せ? そいつは定義の問題だ」
俺の言葉に黒猫は訝しそうな顔をする。
「幸せではないと?」
「一方では幸せで、一方ではそうでもない。だから定義の問題なのさ」
「ちょっと何を言っているのか分からんな」
黒猫は苦笑して、さらに言葉を続けた。
「家庭に不満があるのか?」
「さあ、どうなんだろう。片方では、妻や子供がいる幸せ。片方では、それがあるからこその不幸があるのさ」
「やれやれ、酷い言い方だな」
黒猫が呆れたように言う。
「そうだな。酷い言葉だ」
黒猫に同意を示して、俺はさらに話を続けた。
「一つ言えることは……妻には絶対に言えないが、もし時を戻せるのならば、結婚の選択はしないさ」
「今が幸せではないからか?」
「そうじゃない。一方では幸せなんだから。ただ、それでも結婚は選ばなかっただろうな」
「やれやれ、人間は複雑だな。正直、よく分からん」
黒猫に言われて俺は薄く笑う。
ちゃんとした結論はあるのだ。だからそう複雑な話ではないはずだった。ただ猫にそれが分からないかというところか。
「もし結婚していなかったら、今頃どんな人生を歩んでたと思う?」
黒猫が俺にそう尋ねてくる。俺は左手の薬指に目を向けて、再び黒猫に視線を戻した。
「そうだな。そう想像するのは楽しいかもしれない。でも現実は違うわけで……」
俺はそこで言葉を切った。そして、ふと頭に浮かんだ黒猫の言葉を口にする。
「人間と違って、猫は複雑ではないのか?」
「どうなのだろうな。個体によるのかもしれん。複雑な個体もあれば、そうでもない個体もきっといる」
そうなのだろうと俺も思う。人間だってきっと同じだ。俺が頷くのを見て、黒猫はさらに言葉を続けた。
「こう見えて、猫の生活も大変なのさ。野良猫なんて、生まれてすぐに死んでしまうのが大半だ。大きくなれたとしても、五年も生きられれば大したものだ」
黒猫が言うように、そんな話を以前に聞いたことがある。野良猫の寿命は家猫と違って極端に短いと。
「人に飼われていても、安心なんてできやしない。急に捨てられてしまうこと、それこそ虐待なんてことだってある。そうそう単純ではないさ。よく言われるが、一日中寝ていられて、呑気でいいという話でもない」
きっとそれもそうなのだろう。人間だって猫だって、それぞれが内面に何かを抱えているのだ。外からどれだけそうは見えないとしても。
「お? そろそろ最寄りの駅ではないのか?」
黒猫の言葉に俺は無言で頷く。
何で自宅の最寄駅をこの黒猫が知っているのか。
そんな疑問が俺の頭を掠めたが、それを口にはしなかった。黒猫はさらに言葉を続けた。
「そうか。ならば、俺は眠ることにする」
そう言って黒猫は目を閉じてしまう。
何だ。やはり呑気じゃないか。
俺はそう思う。
やがて少しの揺れを伴って、電車が駅に到着する。扉が開くタイミングで、俺は網棚に手を伸ばして自分のカバンを握った。
まだ混み合っている電車内。軽く頭を下げながら、俺は電車の外に向かう。
俺が握るカバンの持ち手には、クライアントの依頼で作ったばら撒き用のノベルティが付けられている。そのノベルティは、クライアントのマスコットである黒猫のキーホルダーだった。
その黒猫の顔が少しだけ悲しそうに見えたのは、気のせいだったのかもしれない。




