5 決意
そして出発の日。
着替えを済ませ、最後に残った自室のベッドや作業道具を魔法鞄にしまう。
何もなくなった部屋を見回し哀愁を感じながらドアを開いた。
「まだ日が出てないよ? こんなに早くどこに行くの?」
ドアの外には目の前には見たこともない美青年が立っていた。
「誰?」
「腰ミノだよ?」
「嘘言わないで。腰ミノ、腰ミノ!? 知らない人が家の中にいる!」
「俺なら目の前にいるってば」
「……」
私は眉間にしわを寄せ、じっと美青年の顔を見つめる。
不審者を見る私の目付きが変わらないので、美青年はため息をついた。
「本当に分からないの?」
吐息がかかるような距離で青年が私の視線を固定して頬を両手で包む。
何度か見た美しいアイスブルーの瞳。
髭を剃り、前髪を切ったことで良く見えるようになっていた。
「よく見てよ」
キスをするような距離に顔を近づけ視線を合わせる。
「俺が、腰ミノだよ」
「……うん」
腰まであった髪は背中の真ん中で切り揃えられて、顔を下げると横髪が零れて時々私の頬を撫でた。
事実が飲み込めない私は現実離れしたその美しい顔に見惚れるばかりで言葉も出ない。
「なんで部屋の中に何もないの?」
「……」
何もない部屋の中を見られて言い訳も思いつかない。
もし部屋を開けて外にいたのがいつもの腰ミノだったら、咄嗟に扉を閉めて誤魔化すことも出来た。
けれどあまりに美しい腰ミノの素顔に気が動転して何も出来ない。
「出て行くの?」
寂し気な顔で腰ミノが私の頬を撫でる。
「行かないで」
泣く前のように顔をくしゃりと歪め、縋り付くように私を抱きしめる。
「君と一緒に暮らしていたい」
懇願を込めた掠れた声に、ぐらりと気持ちが揺らぐ。
けれど腹に力を籠め、抱きしめ返したい衝動を必死に抑え肩を押して距離を保つ。
「……最初の約束は果たした。腰ミノはもう十分健康で文化的な最低限の生活を送れてる。私はここを出て行くわ」
意志が変わらないのが分かったのか、腰ミノが咎めるような表情で私を見下ろした。
「だとしても黙っていくのは違うよね?」
「……」
見慣れない素顔の腰ミノの圧に私の足は一歩、また一歩と下がって部屋の中へ戻って行く。
それに倣うように腰ミノもまた距離を詰める。
「……っ!」
そしてついに踵が壁に当たった。
「ねぇ、俺との生活。楽しくなかった? 家出したいほど嫌?」
両腕を体の両側に置いて、閉じ込めるように壁に押し付ける。
見慣れない腰ミノの素顔がすぐ近くにあり、心が落ち着かない。
「……」
「俺はね、すごく楽しかったよ」
顔を上げられない私の顎を、腰ミノの手が持ち上げる。
「ずっとこのまま君と暮らしていけたらって思ってた」
……そんなの、私だってそうだよ。
でも、いつかこんな夢みたいな生活にも終わりが来る。
もう誰も好きになれないと思った私が好きになった人。
身を引き裂かれるような別れは一度だけでも辛かったのに、二度目は耐えられる気がしない。
言葉を発しない私に腰ミノは顔を寄せて目を合わせ口を開いた。
「君が好き」
「!?」
「君が好きだよ。出会った時から、ずっと……」
アイスブルーの瞳には私が写っている。
そんなの、私だって好きだ。
でも……。
「腰ミノ……」
「そうだね。そこからか」
呼びかけた私に、腰ミノは神妙な顔で何度か頷いて口を開く。
「俺の名前はレイン……」
「ダメ、名乗らないで……!」
私は慌てて腰ミノの口に両手を当てて言葉を遮った。
「なんで急に名乗るの!? やめてよね」
「だって口説きたい人の名前も知らないんだよ!? それに相手の名前を知りたかったらまず自分から名乗るのが礼儀でしょう?」
「そんな礼儀知らないし、今はいらない!」
「じゃあ、君の名前を教えてよ」
「……」
「俺はレイン・ル……」
「だから言うなっての!」
緩んだ両手を慌てて腰ミノの口に押し付け言葉を止める。
聞きたくない。
名前を知ってしまったら、本当にあなたが手の届かない人だって分かってしまう。
本当は素顔だって知りたくなかったよ……。
おそらく泣きそうな顔をしているだろう私の頬を腰ミノが慰めるように撫でる。
「ねぇ……」
口を塞いでいる私の手を取り、腰ミノの指が絡んで壁に押し付けられる。
私の物よりも一回り以上大きくて温かい手。
吐息がかかる距離に胸が高鳴ってしまうのを止められない。
「君とちゃんと最初から始めたいんだ」
「知ってしまったら終わってしまうわ!」
「知らなくても終わろうとしてるじゃないか……」
「……」
腰ミノの言うとおりだ。
けれど、今なら綺麗な思い出で終われる。
夢を見たと思って諦められるの。
「知らないまま別れる方がお互いにとっていいの」
「嫌だ。絶対終わりになんてさせない」
行かせるものかと指を絡めたまま、強く抱きしめ私を腕の中へ閉じ込める。
見上げて顔を見ると、腰ミノはずっと泣くのを堪えるように表情を歪めていた。
「でも、知ったら本当に終わるわ。あなた、貴族でしょう? それもとっても高貴な……」
「知ってたんだ」
「知ってるも何も、何属性もバカスカ無詠唱魔法を使えるのなんて貴族の、それも王族に近い身分の貴族しかいないじゃない!」
私の目の前で好き勝手使っておいて、ばらす気がなかったなんて言わせな……。
いや、腰ミノのことだ。何も考えてなかっただけだね。
そう思ったらため息が零れた。
もう少し腰ミノが気を使って色々なことを隠してくれれば、このまま素知らぬ顔で暮らしていけた物を……。
そう思うと恨み言の一つも言いたくなる。
「私はあなたに釣り合う身分を持っていない。知りたくないし教えたくもない」
身分制度のあるこの世界では、前世よりもさらに私たちが結ばれる可能性がない。
どれほど望んでも出来ないことはある。
「俺は君と離れるつもりはない」
「あなたはそのつもりでも、周りが黙っていないわ」
「もうここに来て三年だよ? 君と暮らしてさらに二年経ってるんだ。もう誰も探してない」
「そんなわけない。たった五年よ!」
「俺は死んだって。葬式だってもう済んでるんだ。街にこっそり行って新聞を見て確かめた。間違いない!」
「でも、家はまだあるのでしょう?」
もしも、万が一。可能性が残っているなら安心はできない。
「……それは、そうだけど」
「だったら分からないじゃない!」
私は終わりが来るのが怖い……。
前世のあの人だって今の腰ミノのように、私と居てくれるつもりだったんだと思う。
でも、周りがそれを許さなかった。
そして引き離されてしまったらまた私の手が届かない所へ行ってしまう。
「幸せを知った後に、引き離されるのは嫌なの!」
身勝手だって分かってる。でも、怖くて堪らない。
全てを失ったあの絶望をもう一度味わうのが何より恐ろしい。
今ならまだ夢を見たんだと諦められる。
一人に戻っても、思い出を胸に歩き出せる。
だからどいてと厚い胸板を押すが微動だにしない。
それどころか逃がすものかと私の体を抱きしめる。
「俺は、君と離れたくない! その為ならなんだってやる。だからここに居てよ!」
私より少し高い体温が燃えるように熱い。
掌から伝わる熱に溶かされてしまいそうだ。
「君が好きなんだ。ずっと一緒に居たい。どこにも行かないで……っ。もう離れたくない」
まるで子供が駄々を捏ねるように手を離した腰ミノは、私を強く抱きしめ離さない。
力加減が出来ないのか苦しくて痛いけれど、それが嬉しくて腕の中から出ようとする気が失せてしまう。
けれど私は腰ミノの願いに頷くことが出来ない。
やがて意思を変えない私に焦れたのか少し腕を緩め腰ミノが私の顔を覗き込んだ。
「俺はレイン・ル・カリオグラ。あなたの名前を教えてください」
「あああ、馬鹿! なんで言うのよ!」
聞いちゃったじゃない。カリオグラ家っていえば何代か前に王族が降嫁した由緒正しい貴族じゃないの。何よ公爵家ってやめてよね。
庶民の私にはどうやっても手の届かない身分の人じゃない……。
絶望的な気持ちを味わっている私を、レインは変わらぬ愛し気な瞳で見つめ微笑む。
「君の名前を教えて欲しい」
紳士の礼をして手を取り指先にキスをする。
見惚れるほど美しい隙が無い所作。これが貴族というものか。
孤児の私にはどうやっても真似できない。
ここがお城の舞踏会の会場かと思えて来る。
「レディ……」
「レディじゃないわ、庶民だもの」
「君は素敵なレディだ、愛しい人。どうか愚かな下僕に御名を頂く慈悲を……」
暗かった外がうっすら明るくなり、窓から差し込む光がレインを照らす。
キラキラと朝日に輝く金色の髪。アイスブルーの瞳から視線を逸らせない。
見惚れ動けない私の手を取って、強く握ったレインは突然へにゃりと顔を歪めた。
「俺は君と添い遂げるって決めてるんだ。離さない!」
強気な言葉とは裏腹に、置いて行かれた子供のように頼りない表情で私を見つめ体をかき抱く。
「ちょっと……!」
さっきまでの紳士面はどこへ行ったのか。
嫌だ嫌だと私を抱きしめたまま駄々っ子のようにひたすらごねる。
「君じゃなきゃ嫌だ。名前を教えて、ここに居て」
君がいい、君さえいれば何もいらない。
「君だけなんだ。結婚して! それから子供を作って死ぬまでずっと一緒に居よう」
さらにはどさくさ紛れにプロポーズまでしてきた。
拒まなければならない苦しさと、嬉しいとときめく心に体が二つに引き裂かれてしまいそうだ。
「君と一緒に生きていきたい」
留まりたい誘惑を必死に振り払っているというのに、揺らぐようなことばかり言ってくる。
こっちは必死で我慢しているのよ!
そんな理不尽な怒りが湧き上がり、私は顔を上げアイスブルーの瞳を睨みつけた。
「……だめよ、出て行くわ」
「どうしても?」
「どうしても!」
何を言っても頑なな態度を崩さない私に業を煮やした腰ミノは、何かを思いつき覚悟を決めたように私の目を真っすぐ見た。
「どうしても出て行くなら俺は腰ミノ原始人に戻る!」
「!? なんなのその脅し! やめなさいよ公爵家の人間が」
「公爵家なんて関係ない! どうするんだ!? 俺が腰ミノに戻ったら健康で文化的な最低限の生活じゃなくなるぞ。そしたら君の約束はまだ果たされていないことになるな」
完全論破みたいな顔をするのはやめなさい。
頭がいい癖に馬鹿だわ……。
呆れて言葉が紡げない私に、畳みかけて来る。
「肉は下処理しないまま食べるし、土壁ハウスに戻って生活するからな」
あとは草はそのまま齧るし、干し草のベッドで寝るし、お風呂にも入らない。
脅しにならないような言葉を並べるレインを見上げていると、頬に水滴が落ちて来た。
「君がいなかったら、俺は人間らしく健康で文化的な最低限の生活すら送れない……」
「……」
ぽたりぽたりとレインの流す涙が顔に降り注ぐ。
本当に馬鹿な人……。
可愛い人。
あの人以外を愛することなんてないと思ってたのにな。
私はこのどうしようもない人がとても好きらしい。
情けない姿を見せられるたびに胸がときめいてしまう……。
仕方がない。
……本当に馬鹿だわ。
我儘を言うこの人も、振り切れない私自身も。
「……はぁ」
私が大きくため息を吐くと、レインの体が怯えるように震えた。
「行かないで……」
寂しそうに囁くこの人を、置いていけない。
「……はぁ」
もう一度ため息をつくと、離さないというように私の背中に回った腕の力が強くなった。
私は……。
レインの泣き顔を見ていると、堪らない気持ちになる。
降参だと頭の中で白旗をあげて、私はレインの背中に腕を回す。
「困るわ」
レインがびくりと体を震わせる。
もう諦めるのを諦めた。
慰めるようにレインの頭を撫でると、恐る恐る顔を上げ私を見下ろす。
「私はあなたに健康で文化的な最低限の生活をさせるためにいるのに、そんなことになったら全てが台無しじゃない」
ため息をつく私の言葉に、レインが希望を見出し表情を緩めた。
「それって……!」
「元通りになっちゃったら意味がない。しょうがないわね、そこまで言うならここに居るしかないわ」
その言葉を聞いてレインが痛いくらいに私を抱きしめた。
「そうだろ。君がいないとダメなんだ。だから、行かないで……」
泣き出したレインの頭を優しく撫でる。
そうしているうちに私の目からも涙が零れた。
私より年上で、だけど子供みたいで可愛い人。
頼りになるけどどこか抜けていて、でもそんなところが何より魅力的。
私はこの愛しい人と離れたくない……。
朝起きておはようと挨拶をしたい。
おいしい食事を一緒に食べたい。
同じものを見て、感じたことを伝えあって。
意見が合わなくて言い合いしたって構わない。
喧嘩をしたら仲直りをして、お休みといって眠りたい。
そうしてまた朝を迎える毎日をずっと一緒に……。
私たちが望んでいるのは、そんな些細な幸せが降り積もる生活なんだ。
「ねぇ、レイン。何があっても私を離さない?」
「離さない! 俺には君しかいない」
冷たく見えるアイスブルーの瞳は燃えるような熱を湛えている。
きっと私も同じ目をしているだろう。
今度は死ぬまで愛する人と共に生きたい。
私はその願いを諦めない。
もしも、いつか壊れる時が来ても今度はしがみ付いて抗ってやる。
今の私にはそれが出来るはずだ。
いや、今度こそ勝ち取ってやる!
レインの背中に回した腕に力を籠めた。
「ねぇ、君の名前教えて」
レインの言葉に私は笑って口を開いた。
「ナディア。ナディア・ノリス」
「ナディア。……ナディア!」
レインが何度も私の名前を呼んで、そっと唇にキスをする。
確認するように幾度も重なる唇に、息が続かなくなった。
「ここ、何もないから俺の部屋に行こう?」
支えて貰わなければ立っていられなくなる頃、そっと耳元でささやくレインに私は頷く。
「しょうがないわね」
私の気が変わらないうちにと思ったのか、抱き上げられてレインの部屋へ連れ込まれた。
ベッドの中で抱き合いながら、レインはなぜこの森に住んでいるのかを教えてくれた。
公爵家の三男として生まれたレインは、やはり貴族の中でもとても優秀だったようだ。
けれど、あまりに有能だったため長兄、次兄を通り越し両親はレインを次期当主にしようとした。
当然二人ともそれが面白くない。
両親はレインを理想の当主に仕立て上げる為、全てを支配しようとする。
不満を訴えても、全ては当主に必要なことだと無理やり縛り付けた。
当主は兄達のどちらかに、自分は辞退したいと訴えても聞き届けられない。
長兄、次兄からは恨まれどちらからも命を狙われる。
そんな公爵家に嫌気がさし何度も出奔しようとしたが、連れ戻され軟禁に近い生活を強いられた。
自由のない生活を強いられていたある日。
当主になるのに必要なことだからと、父の命令で代理として領地の視察へ行った帰り事故にあった。
崖に差し掛かった時に雨に降られ、土砂崩れが起こる。
それが本当に事故だったのか、今はもう分からない。
けれどその事故で偶然生き残ったレインは、自らの死を偽装した。
牢獄のような家から抜け出す千載一遇のチャンス。
けれど人目のある所ではすぐ見つかって連れ戻される。
それは過去の家出の経験で分かっていた。
だから人のいない場所を求めこの森へ棲みついた。
「俺のことはもう探してないと思う」
自信満々に言い切るレインに私は疑心暗鬼だ。
話からすればレインの両親は彼にかなり固執しているのは間違いない。
警戒しておいて損はなく、備えあれば患いなしだ。
不意打ちの喪失が一番恐ろしいことは、前世ですでに経験済みだから。
「何があっても一緒に居られるように手は打ちましょう」
「俺、ナディアから離れる気ないから。もしも迎えに来ても帰らない」
「それは私もそうよ」
頬を撫でるとレインが嬉しそうに私を抱き寄せる。
「俺、ここに来てよかった。ナディアに会えた。今までの辛いことは君に会うために必要だったと思えば、むしろ良かったとすら思える」
その笑顔は幸福感に満ちたものだった。
「私も、ここに来てよかったわ。あなたに会えたもの」
「幸せになろう」
「ええ……」
今度こそ、愛する人と共に生きて行こう。
昼が過ぎ夜になっても私たちはずっと互いの傍を離れられず寄り添った。
そしてこれが夢ではない事を何度も確認した後、夜遅くようやく眠りについた。
次の日の早朝。
突如ガラスが割れるような音が響き渡った。