2 健康で文化的な生活を
石を擦り合わせる音が聞こえ、鼻先を掠める青臭い匂いが濃度を増して意識が浮上する。
目を開けたいけれど瞼が重くて上手く動かない。
身動ぎをすると体中が軋む。
呼吸をするたび全身に痛みが走るせいで上手く息が出来ない。
「……っ」
小さく声を上げると、石を擦り合わせる音が止んだ。
意識の覚醒と共に強烈な草の匂いが増していく。
「……なに、このにおい」
匂いの根源を確かめたくて瞼をこじ開け辺りを見回すと、ぼやけた視界には土壁と薄い明かりが目に入った。
指には草が当たる感触があって、動くたびに擦れる音がする。
どうやら干し草のようなものの上に寝かされているみたい。
「目が、覚めた、か」
「……? だれ」
「飲め」
しゃがれた声が聞こえて目を向けると、髭もじゃが私を見下ろしていた。
そして木の枝をくり抜いた入れ物を差し出す。
「飲め」
私の顔の前に皮がまんまのこっている木のコップを突き出す。
中はくり抜いているというよりも、空洞の木をそのまま適当に切っただけのようだ。
喉が凄く乾いていたから水分が欲しくてしょうがない。
痛む体を起こしコップもどきを受け取って中を覗く。
「……草」
中身は水ではなく緑の液体。しかも葉っぱの切れ端や茎が浮いている。
先ほどゴリゴリしていたのはこれなのか。
喉は乾いているけれど、鼻を寄せるまでもなく強烈に香る草の匂いが酷くて飲める気がしない。
「あの……」
「飲め」
「普通の水を……」
「飲め」
「無理」
「飲め!」
髭もじゃは飲めしかいわない。
いや、草臭すぎて普通に無理。
手が滑ったふりをして零してしまおうか。
そんな私の思惑に気付いたのか、髭もじゃがコップもどきを持っている手を掴み口に押し付けてくる。
近づくとさらに匂いが強くなる。
「う、吐く……」
「飲め」
絶対飲みたくない。
抵抗しているけれど、髭もじゃの力は強かった。
唇に押し当てられた後は顎を掴まれ無理やり口に流し込まれる。
草のエグみと青臭さが口の中一杯に広がった。
思ったよりコップの底は浅かったからそれほど多くはないけど、あまりにまずい。
吐きそうになっていることに気付いた髭もじゃが私の口を手で塞ぐ。
「んんん~~!(放せぇ!)」
「吐くな。飲み込め」
暴れる私を押さえつける。
「ん~!(息が出来ない!)」
暴れたせいで大きな手が鼻までかかり呼吸を遮った。
……殺される。
えづきそうになりながら草汁を何とか飲み込むと、それを確認した腰ミノ男が手を離した。
「ぷはぁぁ! うええ、草臭い……」
新鮮な空気が肺を満たす。
酸欠と窒息しなくて済んだ安堵、それからマズさ、忘れていた痛みが一斉に襲い掛かってきて意識が薄れていく。
この苦さ、えぐみ。それから全身の痛み。
これが夢であるわけがない。
そうであるならば……。
私の目の前に腰ミノ男がいるという現実を受け入れなければならない。
だったら、これだけは言わなくては……。
私は気力を振り絞って言葉を紡ぐ。
「せめて、パンツは履いて……」
聞こえたのか聞こえなかったのか。
反応を示さず腰ミノ男が私を再び草の上に寝かせる。
「……」
意識が閉じる寸前、何かを言いながら腰ミノ男が私の頬を優しい手付きで撫でた気がした。
驚くくらいすっきり目が覚めた。
体の痛みも寝不足も疲労も何も残っていない。
ここ数年で一番気持ちのいい目覚めだ。
起き上がると体にかけられた乾いた草が音を立てて落ちていく。
体から一切の痛みが消えていて、何が起きているのか分からず転んで擦り剥いた右頬に触れてみた。
「……あれ、傷がない」
あれほど痛んだ右腕と肩も全く痛まない。
「うん、大丈夫みたい」
干し草ベッドから立ち上がろうとした私を、いつの間にか傍に来ていた腰ミノ男が押しとどめる。
「まだ、起きるな」
「……うん」
素直に座り直すと、それでいいと頷かれた。
知らない男がすぐ傍にいるのに警戒心が何故か湧かない。
……腰ミノのせい?
いや、普通目の前にパンイチならぬ腰ミノ一丁の男がいたら最大限に警戒するよね?
そうは思っても私の危険アラートは全く仕事をしない。
「飲むか?」
差し出されたのは草汁の入っていたのと同じ木のコップ。
恐る恐る中を覗くと今度は透明な水で、有難くいただいた。
一口飲むと猛烈に喉の渇きを覚え、一気に飲み干した。
「……」
足りない。
名残惜しい気持ちで空になってしまったコップの中を見つめていると腰ミノ男が声をかけて来る。
「まだいるか?」
「うん」
頷くと腰ミノ男がコップに手を翳した。
「!?」
何もない空間に水球が現れコップに水を注ぐ。
そして一杯になると水球は勝手に消えて行った。
魔法だ。
それも無詠唱。
魔力は全ての人間が持ってはいるが、魔法として扱うには一定以上の魔力量としっかりとした教育が必要だ。
それでも魔法使いは普通詠唱を必要とする。
無詠唱で魔法が使えるのは才能があり、かつ高度な教育を受けていないと出来ない。
呪文を唱えないで魔法を使うなんて初めて見た。
本当に無詠唱で魔法を使える人間がいるんだ……。
驚いて硬直していると、腰ミノ男がどこか具合が悪いのかと心配気に私の顔を覗き込む。
「どうした? 飲まないのか」
「いただきます」
とんでもないことをしているのにその自覚はないらしい。
水は一杯目と同じく冷えていて心地よく喉に落ちて行った。
乾きが満たされると気持ちが落ち着いて来る。
「ふぅ……」
一旦無詠唱の事は忘れよう……。
まずは状況の確認からだ。
「ここ、どこ?」
「黒の森の奥」
「森の中?」
その割には魔獣の声も気配もない。
きょろきょろと辺りを見回しても、丸い光球と土壁、丸太や板で出来た野性味溢れる家具しか見えない。
……う、家具はともかく土壁も明かりも魔法じゃん。
魔法使いの属性は一人に一種類。
二属性が使えるだけでも感嘆に値するのに、すでに三つ……?
驚きで硬直していると、さらにとんでもないことを言い出した。
「結界が張ってある。ここは安全だ」
「結界!?」
どれだけの属性が使えるのよ!
結界は光属性で扱いが難しい。それも使えるとなると上級魔法使い。
むしろすでに四属性を使いこなしていることから、しっかり訓練と教育が施されている人間であることには間違いない。
そんな教育が受けられるのは、才能を見出された一握りの人間。
……もしくは血統によって高い魔力を持って生まれる貴族。
……腰ミノが貴族?
いやいや、それはないでしょ。
目の前にいる腰ミノ男を見上げる。
薄茶色の毛玉にしか見えない頭部、ほぼ股間しか守っていない隙だらけの腰ミノを装備したこの男が?
髭と前髪に隠れた顔は見えなくて年齢は分からない。
美しい肉体美を備えてはいるけれど、佇まいは野生児そのもの。
私の知っている貴族とは程遠い。
仮に貴族だとしても、こんなところで一人で暮らしをしているなんて怪しすぎる。
聞いたところで誰とも知らない人間に素性を教えてくれるわけもない。
それに聞いてしまったことで面倒くさい事情に巻き込まれる可能性もある。
だいたい、こんな場所に住み着いている時点で普通じゃない。
結論。この男の素性は、知らない方がいい。
私は様々なことを飲み込んで、腰ミノ男に顔を向けて頭を下げる。
「助けてくれてありがとう」
心を込めて笑顔で礼を言うと、しばらく黙った男は口の中でもごもごと何かを言ったが聞き取れなかった。
「……聞こえないわ?」
「ところで何の用があってこの森に近づいた。ここで何をするつもりだ?」
首を傾げる私に腰ミノ男は一つ咳払いをした後、声を低くして問いかけて来る。
誤魔化す理由はないと私は望まない婚約と家出、養父母が手配した途切れない追手に疲れ自棄になりここへ来たと話した。
話しているうちに燻っていた怒りが燃え上がり、感情のまま叫ぶ。
「あの家に戻って超絶不良物件と結婚させられるくらいなら、魔獣に食べられて死んだ方がマシ!」
「そ、そうか。苦労したんだな……」
私の怒りに気圧されたのか、腰ミノ男は引き気味に同意を示した。
それにしてもこれからどうしようかとため息を吐く。
雇った追手が黒の森の傍で死んだと知れば、私も魔獣に食われたと諦めるだろうか?
だとしても、外に出るのはもう少し時間を置いてからの方がいい。
そうじゃないと捜索に来た一行と鉢合わせしかねない。
ブラックドラゴンと出会い生き残れたのは幸運だけど、森を無事に出られたとして私はどこへ行けばいい?
魔道具を売れば足がつく。商会に関わっても同じ。
他の仕事をしたとしても、生きがいである魔道具作りはやめられない。
きっとまたどこかで居場所が漏れる。
私は養父母にとって金の卵を産むガチョウ。手放す気はないだろう。
どう考えても八方塞がりだ。
……いっそ隣国まで逃げてみるか?
「……ぐぅ」
ぐるぐると考え事をしてると腹が鳴った。
「なにか、食べるか?」
その音を聞いて傍に黙って佇んでいた腰ミノ男が声をかけて来た。
真剣に考え事をしていた私をどう扱っていいか分からず見守ってくれていたみたい。
優しい人だ。
まぁ、そうか。見ず知らずの私をこうやって助けて世話を焼いてくれる時点でいい人なんだと思う。
……怪しいけど。
「……はい、いただきます」
一度自覚した空腹は急激に加速していく。
うるさいくらい腹の虫が鳴り、胃が痛くなって来た。
遠慮などしている余裕はない。
そういえばここ数日碌な食事をしていなかった。
さっきの水を除いて腹に入れたのはあのゲロマズ草汁だけ。
何度も頷くと腰ミノ男は了承したというように頷き返し、入り口らしき場所にかけられた獣の皮を潜って外へ出て行った。
「うぅ、静まれ腹の虫……」
鳴り響く腹を押さえ蹲る。
恥ずかしいとかそういう次元ではなく、もはやお腹が空きすぎて痛い。
唸っていると腰ミノ男は、手に持っていた血の滴る(比喩ではなく本当に滴っている)肉を手に灯した炎で焼き始めた。
モザイク必須のグロだ。あまりに生々しい。
それにしてもまた魔法……。
当たり前のように使いこなす姿に違和感を覚えなくなって来た。
やがて肉が焼ける音と共に、とんでもない獣臭が土壁ハウスに充満していく。
「……うっ」
思わず鼻を押さえ蹲る。干し草の香りが私の命綱だ。
満ちていく獣臭さで、とてもではないがおいしそうなどとは言えない。
そうしているうちに肉が焼きあがり、大きな葉っぱに乗せられた肉塊が差し出された。
一応サラダのつもりか、むしった草が横に添えられている。
「食べろ」
「……いただきます」
前世の習慣でそう言ってビジュアルは完璧な炙り肉にかぶりついた。
「うぇ……死ぬほど獣くさい」
一口齧っただけで鼻を突き抜ける獣臭さ。
血抜きをされていないため、舌がおかしくなるようなエグみが口一杯に広がった。
「うわぁぁ、むりぃぃぃぃ!」
嚙み切る事も出来ず慌てて口を放し、添えられている草を鷲掴み口の中に一気に入れた。
とにかく口の中の獣臭さを消し去りたい。
塩もドレッシングも掛かっていないただの青臭い草。
それでもさっぱりとした口当たりは口の中の獣臭さを緩和してくれる。
「……草、ありがたい」
私は人生でこれ以上ないほど草に感謝した。
救いは草しかない。けれどどれほど食べても腹には溜まらない。
虚無を背負いながら無心で草を食べていると、腰ミノ男がこちらを見て首を傾げた。
「どうした、肉は食べないのか?」
「獣臭くて無理。あなたはよく食べられるわね」
「好き嫌いは、感心しない」
「好きとか嫌い以前にマズい!」
「贅沢だな」
「これは贅沢とは違う!」
反論していると、食べないなら貰うと私の手から肉を取って齧りつく。
その所作がなぜか美しく見えてしまう。
なんで? 獣肉を丸かじりしてるだけなのに??
私は腰ミノ男がワイルドで優雅な食事をしている光景を見ながら、実はまだ夢の続きかもしれないと頬を抓った。
「痛い、夢じゃない」
私の声に目を向けた腰ミノ男は驚いて頬を抓っている手を掴む。
「何してる。そこは怪我が治ったばかりだ」
放せと言われ私は言われた通り手を下ろす。
「痕になったらどうする」
「うん……」
労わるように頬を撫でる腰ミノ男の手付きがあまりに優しくて、久々に人の温かさに触れた私はその手に甘えたい気持ちになってしまった。
けれど視界に入る腰ミノを見て我に返り、体を引いて頬に触れる手から離れた。
「分かればいい」
頷きながらそう言って離れた腰ミノ男は、寂しそうにも見えて私はなぜか罪悪感を覚える。
髭もじゃの奥に埋もれた目が何かを訴えている気がして、無意識に覗き込むとアイスブルーの美しい瞳が見えた。
「「……」」
その蠱惑的な光に引き込まれそうになった瞬間。
「ぐぅ……」
空気を読まず再び私のお腹が鳴る。
さっきまでの不思議な空気は見事に霧散する。
「他に食べられそうなものを探して来る」
腰ミノ男は再び外へ出て、五分も経たず戻って来た。
「これなら食えるか?」
差し出されたのは赤い木の実。
「果物だー!」
甘そうな香りに失った食欲が再び刺激される。
「あーん」
リンゴのような見た目のそれに甘い味を期待して大口で齧りついた。
「すっっっぱぁぁぁ」
背中を駆けあがる強烈な酸味が口いっぱいに広がる。
匂いは甘かったのに詐欺だ。レモンの百倍は酸っぱい。
涎が溢れて止まらない。油断したら口の端から零れて行ってしまいそうだ。
吐き出そうとすると、またしても私の口を腰ミノ男が押さえる。
「それは栄養がある。食べないと、元気にならない」
「んん~!(食べられる物を頂戴よ!)」
草汁の事を思えば、食べるまでこの手は放してもらえないのは分かっている。
私は必死に口を動かして欠片を飲み込めるほどの大きさに砕き飲み込んだ。
大口で齧りつくんじゃなかった!
飲み込んだことを確認した腰ミノ男がようやく手を放してくれる。
「うぅ……、もういらない」
齧り跡のついたそれを腰ミノ男に突き返すと、平然と残りを食べ進めていく。
味覚どうなってんのよ……。
「食が細いな」
「細いとかの問題じゃない!」
それ以前の話だ。この原始人め!!
私は目の前の腰ミノ男に指を突き付ける。
「腰ミノ」
「……それは俺の事か」
「そうよ、腰ミノ」
「……」
「私があなたを人間にしてあげる」
「俺は人間だが?」
「いいえ、腰ミノ。あなたは原始人だわ」
「原始人……」
「そう、まだ人間未満よ。腰ミノ」
「……腰ミノ呼びは決定なんだな」
「ええ、あなたは腰ミノよ」
口を開こうとする腰ミノに、名乗りはいらないと先手を打つ。
私にとってはもう目の前の男は腰ミノでいい。
それ以上でもそれ以下でもない。
私は立ち上がり腰に手を当て宣言をする。
「人間にはね、健康で文化的な最低限の生活を送る義務があるのよ! 少なくとも今どき腰ミノ野人スタイルは無い」
「……ない」
無いと言い切られてショックを受けている腰ミノ。
「肉はせめて血抜きをしなさいよ!」
「血抜きってなんだ?」
「……そこからなの。調味料は?」
「俺はこの森から出ない。だからない」
「森の中にあるでしょ! たくさんの素材が」
ハーブは勿論岩塩や胡椒の味に近い実をつける草。
この森では逆に手に入らない物はない。
薬草毒草、魔獣の素材から魔石、鉱石。人の手が入っていないここは資源の宝庫だ。
加工さえすればなんだって得られる。
「あるのか……。知らなかった」
「森にこれだけ馴染んでて知らない方が驚きだわ。一体どれくらいここに住んでるのよ」
「……たぶん、三年?」
「三年! 三年もこんな原始人のような生活を……!」
この世界の文明レベルは中世程度だけど、魔道具のお陰で通信機器や交通機関以外の生活レベルは前世とあまり変わらない。
大抵の人間は上下水道、冷暖房完備の家で生活が出来る。
魔具師は人の生活を豊かにするための道具を生み出す仕事。
私が魔道具師になったのは、この職業理念に惹かれたからに他ならない。
訳アリで街へ行けないとしても、魔法が使えるならもう少しやりようはあったでしょう。
けれどそれすらもしてないないなんて。
この腰ミノに文明を授けなくてはならない。
心地よい文化的な生活を体感させたい。
私の作った魔道具で快適と幸福を知って欲しい。
これは私の魔具師としてのプライドとエゴだ!
「まずは家ね! こんな狭くてジメジメして風通しの悪い空間じゃ気が滅入るわ」
家とは安心と安全を確保して、心身ともにリラックスできる場所であるべき!
ずかずかと外へ向かって歩いて行く私の後ろを、腰ミノが大人しくついてくる。
獣の皮をめくって家を出ると、外には広く美しい湖が広がっていた。
眩しい日差しに青い空。底まで見えそうなほど澄んだ水を湛える深い湖。
前世でも見たことのない青と緑と藍に彩られた景色は天上の世界のようだ。
「わぁ……! 凄い、綺麗」
「いい景色だろ?」
「うん、素敵」
「この景色が気に入ってここに家を建てたんだ」
「凄くいいわ」
素直にその言葉に同意を示すと、腰ミノは褒められたことが嬉しいのか髭もじゃの奥で笑う。
家の周りは拓けていて結構な平地が広がっている。
これは最初からだったのか腰ミノがやったのか区別はつかないけれど、家を建てるにはいい立地だ。
空気もおいしい。
遠くに見たこともない大きな鳥が飛んでるけど……。
私は無理やり視線を湖に戻す。
ここが黒の森だというのを忘れてしまうような景観にしばし見入る。
「わぁ、魚が……」
湖を眺めていると水中で銀の鱗を翻す魚が見えて、私は無意識に足を湖に向かって踏み出した。
「待て」
それを腰ミノが肩を押さえて止める。
「何?」
「あまり近づかない方がいい。巨大魚に食べられてしまうからな」
腰ミノが指差す先をじっと水深が深い方を眺めていると、大きさの影がゆっくり動いているのが見えた。
「ひぃ」
私の身長よりも大きな影に思わず腰が抜けそうになり、倒れそうになったのを腰ミノが支えてくれる。
「浅瀬には来ない。だが、他にも危険な生き物がいる。君は入らないでくれ。魚が欲しいなら俺が捕る」
「……はい」
そっかー、そうだよね。黒の森だもん。
海には陸にも上がれる水棲の魔獣がいるのよね。
そういう魔獣が棲んでるって言われなかっただけマシだわ……。
美しく見えていた湖が途端恐ろしい物へ変わった。
悪寒が止まらない体を摩り、私は意識を切り替え平地に目を向けた。
よし、気を取り直して家を建てよう。この広さなら十分ね。
私は腰ミノの顔を見て満面の笑みを浮かべる。
「さぁ、健康で文化的な最低限の生活の第一歩よ!」
私は魔法鞄の中へ両手を入れて目的の物を掴んで放り投げる仕草をする。
きらりと空中で光を放ったそれは家の形となり、ズドンと重い音を立てて木造二階建ての家が目の前に現れた。
いつか逃げきれたら安住の地で、もう一度魔道具屋を始めようと思って持ってきた。
馴染んだ工房を黒の森に建てるなんて誰が想像できただろうか。
「……君は魔法使いか?」
「魔具師よ。魔法なんて使えないわ」
あなたと違ってね。という言葉を飲み込んだ。
「さぁ、健康で文化的な生活を始めるわよ!」
私は腰ミノを連れて家の中に入った。
残りは二時間置きに出ます。