表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

第9回さばえ近松文学賞作品『白つづじを朱に染めて』

作者: 飛翔の軌跡

本作は私が執筆している『隣の和香奈さん(初号機)』の世界観を踏襲しており、生徒会メンバーである玲王先輩のIF過去編でも有ります。

「へええ、つつじの花言葉は節度なんだ。白は初恋。色で変わるんだ」


 暗闇の中、真っ白な布団を蹴飛ばした直美はバスローブ姿で仰向けに寝転がっていた。細い指先に支えられたスマートフォンから青白い光が放たれる。静かに浮かび上がったもう一つの枕の輪郭を目の端で捉える度に冷え切った身体の内側からじわじわと熱を帯びてゆく。意識とは裏腹に枕へ向かって左腕を伸ばし、抱き寄せていた事に気が付く。指先で感じる乾燥しきった繊維の凹凸。左腕に伝わる空虚な重み。直美は戸惑いながら動きを止めると寝返りを打って目を瞑った。同時に胸の奥から込み上げる興奮を必死に呑み込む。直美はまだ起き上がりたくなかった。しかし、下腹部を押し付ける尿意と喉の奥の渇きが残酷にも目醒めを促してくる。本能には抗えない。直美は呻き声を上げながら身体を右へ倒した。両膝を軽く曲げて重ね、両腕は胸の前で合わせる。背中を一度胎児の様に丸めてからシーツに右手を突いた。自宅のシングルベッドとは格段の差があるクッション性に驚きながら身を起こした。

 天井に備え付けられているエアコンの送風口から放たれる生温い風。はだけたバスローブの隙間から忍び込む心地悪さを振り払う様にトイレまで足を引き摺る。便座に腰掛けて用を足すと迷う事無く洗面所に向かった。


「眩しい」


 直美は手探りでスイッチを探し当て明かりを灯した。自宅の白熱電球とは違い、LEDは交感神経を撃ち抜いてくる。反射的に細めた瞳をパチクリと見開きながら鏡を覗き込む。曇り止めを付けっぱなしにしていた様だ。顔を近付けると僅かに熱い。クローズアップされた顔。鼻に眼鏡痕が付いている事を除けば極めて平凡な顔。美人でも無く、可愛らしい顔付きでも無い。されど、醜女という程の特徴的な違和感も無い。直美は少しだけ安心する。と、同時に得体の知れない嫌悪感に襲われ吐きそうになった。


 直美はマグカップの中に立てられた歯ブラシを手に取った。銀色の光が乱反射するレバーを押し上げ、蛇口からお湯を出す。ザーッと勢い良く流れる音を不快に思いながらブラシの先端を僅かに濡らした。右手に持った歯ブラシを勝手に震える舌先に当て、深く一呼吸。嗚咽しながら舌の表面と歯を磨いた。グラスに水を注ぎ、口の中を濯ぐ。ふと排水溝へ目を向けると、吐き出した白い泡の中にピンク色の筋が見受けられた。慌てて、鏡を見ると歯茎から血が流れている。しかし、直美は痛みを感じなかった。


 直美は洗面所から漏れ出す光を頼りにベッド周りを探索した。床に落ちていた二枚のタオルの内、手が届く方を拾い上げて口元を拭く。薄っすらと踏み付けた跡が見えたが気にする程の汚れでは無い。木製のテレビ台に置いていた有線イヤフォンのプラグをスマートフォンに挿入した。画面に表示された時間は午前五時。されど、此処、サバエ・シティーホテルの日替わり朝食バイキングは六時半からオープンである。


「今日の午後のライブ、全力で楽しむ為にも寝なきゃ」


 液晶画面に表示される男の顔を眺めながら溜め息を吐いた直美はベッドに身を預けて目を瞑った。しかし、どれだけ眠ろうと思えども興奮の波が迫り来る度に目を開けてしまう。ダメだと理解していてもイヤフォンに手が伸びる。予習がしたいのだ。


 サバエ・シティーホテルから徒歩五分圏内に位置する西山公園。日本の歴史公園百選にも選ばれており、現在は約五万株のつつじが咲き乱れている。そして、あと数時間もすれば直美の推しの男性アイドル――白波玲王がライブを披露する場所である。この春に出されたデビュー曲を含め、玲王の持ち曲は三つ。恐らく全て生で聴く事が出来るであろう。意を決した直美は音楽再生アプリを操作した後、イヤフォンを嵌めた。

 目を瞑りながら歌詞を口ずさむ。直美の脳裏に過るのは昨年の冬、西山公園で行われたスノーフェスタだ。当時の玲王はデビュー前であった為、先輩アイドル達の後ろで踊っていた。鯖江市のマスコットキャラクターであるちかもんくんの着ぐるみ姿で、だ。芥子坊と呼ばれる髪型がモチーフとなったちかもんくんの頭部をゴロリと外して現れたのは暴力的なまでに美しい玲王くんの顔面。銀色に染めた髪が汗で額にへばり付いていたとしてもニコリと微笑むだけで口から心臓が飛び出るかと錯覚する。その上、苗字とはしっかりと認知した上で呼んで貰えたのだ。直美は仕事で辛い事がある度に何度も思い出して乗り越えてきた。故に、今日も応援に来ている。


 朝食バイキングを堪能し、再び部屋に戻って一休みした直美は、サバエ・シティーホテルを十一時五分前にチェックアウトする。そしてタクシーを拾い、めがねミュージアムまで赴いた。眼鏡ヘビーユーザーである直美は前々から聖地巡礼をしたいと考えていたのだ。ライブが始まるまでに未だ時間があるのでホテルのフロントに場所を尋ねる。回答は「僅か七分です」と。観光名所は距離が離れていると云う先入観のせいで昨年は足を運ぶ事無く鯖江市を去ってしまった事を思わず悔やむ。


 タクシーから降り立った直美は運命的な出会いを果たした。親の顔よりも見た銀色の襟足。SNSで見かけたヘッドフォン。何より百八十センチメートルはあろう高身長。後ろ姿だけで分かる。白波玲王だ。直美は思わず駆け出した。タクシーの運転手が釣り銭を渡そうと声を張るが、直美はそれを無視してヒールの音を盛大に立てながら玲王を追う。

直美は手を伸ばせば届く距離まで迫るが、僅か三十センチメートルの空間が無限の様に感じられた。いざ判断を迫られるとどうしても踏み出す事が出来ない。プライベートの時間を侵しても良いものであろうか。迷惑ではないだろうか。そもそも覚えてくれているのだろうか。色々な事柄が直美の脳内を駆け巡る。


「あれ、江刺さんじゃん」


 展示されている眼鏡のフレームが小さな鏡となって歪んだ直美の顔を映す。玲王はヘッドフォンを外し、悪巧みを考えている子どもの様な笑みを浮かべながら直美に向き合った。


「あの、えっと、すみません」


「別にいいんだよ」


 直美が決まりが悪そうに口ごもっていると玲王はヒョイと直美の左手を取った。余りにも軽快で自然な動作であった為、一瞬、直美は自身が推しである玲王と手を繋いでいる事を理解出来なかった。


「えっ、ああ、ええと」


「江刺さん、今日も応援しに来てくれたんでしょ。デートしようよ。ね?」


 新緑を鮮やかに照らす太陽よりも眩しい笑顔を向けられた直美は首を小さく縦に振る事しか出来なかった。

 二人は静かな空間を味わった。一つ一つの展示を足を止めて丁寧に見る事はせず、流れるように一定のペースで両足を動かして先へと進んで行く。エスコートをする玲王の性格が影響している。玲王は感覚的に概要を掴んだだけで満足するのだ。後は想像と云う色眼鏡で上手く補って世界を見ている。近付き過ぎる余り全体像がぼやけてしまわない様に。三十センチメートルの距離感を玲王は頑なに守り続ける。


「此処さ、毎週違うケーキが食べれるんだって」


 物知り顔で言った玲王は甘党である。ファンの中では有名な事実であり、当然古参ファンである直美も知っていた。その為、めがねミュージアムの正面入口から入って右側の階段を上がった二階にあるカフェ、MUSEUMCAFEについて玲王が下調べをしていた事は容易に想像出来た。


 玲王がメニューを見ずにケーキセットを二つ注文する。税込み価格は千円きっかり。好みのドリンクに週替りのケーキまで付いてくる。正しくお値段以上だ。直美は自家焙煎のコーヒーを一口啜る。口から喉を通り腹の底へと落ちてゆく温かさを感じると、少しずつ冷静さを取り戻しつつあった。笑顔でケーキを頬張る推しの御尊顔を夢心地で眺めながらも直美は口を開いた。ポツポツと昨年の冬の思い出を語り出す。


 玲王が戸惑っていたのは束の間。直ぐ様、優しげな笑みを浮かべながらゆっくりと頷いて話を聞く。徐々に直美の会話を拾い上げ、目があった時は少しだけ恥ずかしそうに微苦笑する。ステージの上での格好良い姿とは異なり、自然体で会話をする玲王の姿。襟元から覗く鎖骨。漂う色気と混ざり合った清涼感のある香水の匂い。脳味噌を溶かしてしまう低い声。角張った指の関節に胸を高鳴らせながら手の甲のきめ細かい肌に嫉妬してしまう。二人掛けの小さなテーブルに向かい合って座っている直美は気が付いてしまった。ステージの最前列と同じく手を伸ばせば届く距離。僅か三十センチメートル。だが、距離は同じであっても今だけは異常に近く感じた。正直、優越感は有った。玲王の日常の一部に成れたと嬉しく思った。今日のライブが中止になってこの時間が永遠に続けば良いとさえ祈った。


「えへへ、美味しいね。あれ、江刺さん全然食べてないじゃん。もしかしてだけど、あーん待ちだったり」


 真っ直ぐに、鋭く向けられた眼差し。まるで直美の心を見透かしたかの様な瞳であった。玲王は笑みを絶やさない。直美に一切の逃げ場を与える気が無い、歯茎を剥き出しにした原始的な笑顔だ。直美はビクリと肩を震わせてカップをソーサーに戻した。心臓がバクバクと音を立てながら跳ね回っている。慌てて目を逸らし、取り繕う様にフォークを持ってケーキを押し潰す様に叩き切った。


 気が付いた時には直美は一人であった。公園に臨時で組み立てられたステージの前に突っ立っていた。周囲を見渡せば好奇の目で直美にスマートフォンのカメラを向ける女性達が居る。どうやら玲王に此処までエスコートされて来た姿を見られていたのだろう。


「女郎花咲く野に生ふる白つつじ知らぬこともて言はれし我が背」


夢から醒めてもつつじは綺麗に咲いている。片時の幸せを味わえたのだからもう満足しなくては。


「つつじの花言葉は節度、慎み、自制心」


そう呟いた直美は散り落ちた白色の花弁を踏みながら観客の波に溶けてゆく。

御高覧頂き誠に有難う御座いました。

いいねと感想を下さいませ。

レビューと誤字報告もお待ちしております。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ