Ep.9 アオキマリコ
駅の喧騒がかすかに聞こえ始め、目的地がもうすぐそこだと感じた瞬間だった。隣を歩いていた飯澤が、ふいに足を止めた。つられて俺も立ち止まり、彼女の視線の先を追う。
そこにあったのは、見慣れたはずの建物。しかし、その存在が妙に重く、心臓を掴まれたように息が詰まる。なぜだか分からないけれど、足が竦んで動けない。
「ちょうど寄りたかったんだ。渚くんも行かない?」
飯澤は、何の気なしに、本当にただの誘いというように、屈託のない笑顔で言った。彼女に悪意など微塵もないことは、その透き通った瞳を見ればすぐに分かる。
「い、いや……」
それでも、身体の奥底から湧き上がるような抵抗を感じた。行きたくない。行っちゃいけない。まるで本能が警鐘を鳴らしているみたいに、足が地面に縫い付けられたように動かない。
「時間ない?」
彼女は、少し困ったように眉をひそめて尋ねた。本当に、ただの寄り道。それ以上でも、それ以下でもないはずなのに。どうしてこんなにも心がざわつくんだろう? 反発したがる気持ちが、まるで頑固な子供のように、俺の心にべったりと張り付いて離れない。
「あ、あの、俺ちょっと……」
言葉を探すけれど、喉が詰まってうまく出てこない。一つ一つの言葉を選ぶたびに、飯澤の表情がほんの少しずつ曇っていくのが分かった。
何と言えば、この得体の知れない拒否感を伝えられるだろう? 頭の中で、もっともらしい言い訳を探すけれど、こんな状況で最適な答えなんて見つかるはずもなかった。
「渚くん……、急にどうしたの?」
彼女の声には、ほんの少しの戸惑いと、心配の色が混じり始めていた。
「い、いや……」
混乱に近い頭の中で、ふと、昔、【ミナミ】と共に目にしたあの奇妙な本の内容が蘇った。
『ーーねぇねえ、ナギちゃん。本屋さんにいると、本当にお腹痛くなる?』
あの時、たまたま手に取ったムック本。無名の出版社が出した、流行に流されたような、内容の薄いサブカルチャー雑誌。そこに書かれていた突飛な内容が、なぜか今、頭の中で鮮明によみがえった。
「あ、その……、アオキマリコ……、現象で……」
しまった、反射的に口走ってしまった。飯澤は、きょとんとした顔で俺を見ている。「え、なにそれ?」という疑問符が、その表情全体に浮かんでいた。
まずい。そう思った瞬間、俺は慌ててスマートフォンを取り出し、まるで何かを思い出したかのように言った。
「ちょっと、歯医者の予約入れなきゃなの忘れてたから! 電話で確認するから、先に入っていて」
そう言って、彼女からわずかに距離を取った。心臓はドキドキと早鐘のように打ち、手のひらには冷たい汗が滲んでいた。
彼女は訝しむように細められた視線を向けながらも、ゆっくりと首を傾げ、店の中へと足を踏み入れた。その一歩が、張り詰めていた俺の心臓をわずかに緩める。彼女が店に入ってくれたおかげで、最悪の事態はひとまず回避できた。冷や汗がじわりと滲むのを感じながら、俺は安堵のため息をそっと吐き出した。
◆◆
「やっぱりまだ……、苦手だな……」
通り過ぎる書店の大きなガラス扉を横目で捉えながら、渚は誰に聞かれるでもなく呟いた。磨き上げられた自動ドアの向こうには、まるで星屑のように無数の書籍が整然と並んでいる。店内にいる客たちは思い思いの一冊を手に取り、楽しげにページを繰ったり真剣な眼差しで背表紙を眺めたりしている。彼らにとって、それはきっと宝探しのようなワクワクする時間なのだろう。未知の世界への扉を開け、まだ見ぬ物語や知識との幸福な出会いを求めて旅をしているのかもしれない。
ああ、そうだ。俺も、昔は、あの光景が好きだった。あの場所に足を踏み入れるだけで、心が躍ったものだ。
しかし、実家の小さな店がひっそりとシャッターを下ろして以来、渚は書店という空間そのものが、まるで遠い世界の出来事のように感じられるようになっていた。正確に言えば、書籍、という物体そのものが苦手になってしまったのだ。インクの匂いが染み付いた、まだ真新しい紙の感触。何年も前の記憶を呼び起こすような、少し埃っぽい独特な書店の空気。かつてはあんなにも心を惹かれたものが、今では胸の奥をざわつかせる。どうしようもない苦手なものへと変わってしまっていた。失われた風景が鮮明に蘇ってくるようで、息苦しささえ覚えるのだ。
とにかく今は、飯澤さんが出てくるまで外で待っているしかないな。
夕暮れが迫り、アスファルトの照り返しが弱まってきた歩道の端に、重い溜め息とともに足を止めた。気休めのようにスマートフォンを取り出し、指先は慣れた手つきでいつものネット小説のページを開く。画面に表示された読みかけの栞をそっとタップした。紙媒体の書籍が苦手になってから、活字を読むのはデジタルデバイスを通してだけになった。こんな便利な時代に生まれて、本当に良かったと心底思う。
物語の文字列をぼんやりと目で追っていると、不意に背後から書店の自動ドアが開く、微かな機械音が聞こえた。まさかもう出てきたのかと反射的に顔を上げる。毎日通学路で見慣れた紺色のブレザー、特徴的なチェック柄の赤いラインが目に飛び込んできた。
予想通り、そこから現れたのはうちの学校の女子生徒だった。しかし、そこに立っていたのは、まさか、想像もしていなかった人物だった。
「あ……、四十沢さん……」
驚きのあまり、思わず声が漏れてしまった。慌てて口元を両手で塞ぐが、その声は既に彼女の耳に届いてしまったらしい。四十沢は、こちらに気づくと、静かに、本当に静かに視線を向けてきた。言いようのない気まずさが胸に広がり、渚は曖昧な表情で小さく頭を下げた。しかし、依然として何も言わない彼女は、無表情のままじっとこちらを見つめている。その瞳の奥には、一体どんな感情が渦巻いているのだろうか。
沈黙が重くのしかかる中、不意に、彼女の声が静寂を破った。
「……さっきはありがとう。伊沢くん」
「え……?」
自分の名前が呼ばれたことに、渚は思わず顔を上げた。四十沢はもう前を向き直り、夕焼けに染まる空を見上げている。風が彼女の黒髪を優しく撫でた。
「い、いや、俺は別に……」
こんな時、気の利いた言葉の一つでも返せれば、少しは格好がつくだろうか。しかし、彼女のことといえば、クラスメイトの飯澤から聞いた話くらいしか知らない。直接話すのは、これが初めてだった。
「あ、あの……」
頭の中で言葉を探すよりも早く、また声が出てしまった。いつのまにかスマートフォンに視線を落としていた彼女の肩が、ピクリと小さく動いた。
「あの……、本屋、苦手なの?」
苦し紛れに、一体なぜそんなことを聞いたのか、自分でもよく分からなかった。それでもその時、凛とした佇まいの四十沢の横顔が、ほんの少し、疲れているように見えたのだ。気のせいだろうか。
「……こ、……現象……」
微かに、まるで消え入りそうな聞き取れないほどの小さな声で彼女が何かを呟いた。それは、彼女の口から飛び出すはずのない、突拍子もない言葉のように聞こえた。渚は、無意識のうちにその言葉を繰り返していた。
「アオキマリコ現象?」
四十沢はまるで時間が止まったかのように、突然こちらを見た。驚いたように目を丸くした彼女に、渚も自分の発言に気づき言葉を詰まらせた。しまった、余計なことを言ってしまったか。
しかし、次の瞬間、信じられないことが起こった。
「……フフ……」
彼女は笑ったのだ。普段はどこか近寄りがたい印象の整った顔立ちが、その笑顔によって信じられないほど柔らかな曲線を描いた。その変化に、渚は息を呑んだ。
「ハハ……ハハハ……」
彼女の無邪気な笑い声につられるように、渚の口元も緩み笑いがこみ上げてきた。少し下がった彼女の眉が、どこか困ったような、それでいて愛らしい表情に見えた。夕焼け色の光が二人の間に流れる気まずさを、温かく包み込んでいるようだった。