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Ep.8 オトシドコロ

 暮れなずむ空は、淡いピンクとオレンジのグラデーションに染まり、西の地平線に向かってゆっくりと色が深まっていく。春の柔らかな陽射しは、一日の役目を終え、名残惜しそうに辺りをじんわりと照らしている。四月とはいえ十八時半を越えるとやはり薄暗くなるものだと、渚は遠くの空を見ていた。


「はぁぁ……」


 すぐ隣から、まるで重たい鉛でも吐き出すかのような深いため息が聞こえてくる。下校時刻を迎えた学校の喧騒が遠ざかり夕焼けが校舎を茜色に染める中、これで彼女の溜め息を聞くのはもう四度目だ。


「その、なんと言えば言いか……、本当に、ごめん」


 渚は隣を歩く飯澤美波の顔を窺いながら、申し訳なさそうに言葉を絞り出した。しかし、彼女は無言のまま、鋭くもどこか諦めたような眼差しで渚を一瞥するだけだ。そして、再び、今度は先ほどよりも深く、長く、奥底から湧き上がるような溜め息をつくと、ようやく重い口を開いた。


「いきなり委員長に立候補するなんてさぁ。本当に……無茶苦茶すぎるでしょ」


 飯澤の声音は静かだったが、その一言一句には明確な苛立ちと、ほんの少しの心配が滲んでいるように渚には感じられた。その抑えられた口調が、逆に渚の心を萎縮させる。


「う……、本当に、本当にごめん」


 渚は何度も頭の中で言葉を巡らせながら、結局謝罪の言葉しか見つけられなかった。飯澤は、そんな渚の頼りない様子に、ますます不機嫌そうに眉をひそめ小さく唇を尖らせた。そして、諦めたように再び口を開いた。


「まぁ……、結果的には? あの騒がしい場はなんとか収まったみたいだけど、結局、損をするのは渚くんだけなんだよ」


 予想もしなかった言葉が、渚の耳に届いた。飯澤が一体何をそんなに怒っているのか、そして、なぜ自分が損をするというのだろうか。渚は混乱し、言葉が見つからなかった。



 遡ること、数十分前……

 

 学体実行委員長に立候補した渚の言葉が、教室内に凍てつくような静寂をもたらした。ざわついていた生徒たちの間からはまるで時間が止まったかのような沈黙が広がり、その張り詰めた空気は渚の肌をじりじりと刺すように感じられた。居心地の悪さに耐えかね、彼は所在なさげに視線を隣の飯澤に向けた。彼女もまた、信じられない光景を目の当たりにしたかのように口元をわずかに開けたまま、石像のように硬直している。その瞳には、深い驚愕の色が宿っていた。


「え……っと、五組の伊沢くんが、力強く立候補してくれたが、他に……他に、この学体のために立ち上がってくれる人は、いませんか?」


 ようやく我に返ったように、生徒会長の藤本がどこか頼りない声でそう言った。彼の言葉は張り詰めていた静寂をわずかに揺るがし、呆然としていた他の生徒たちもその一言をきっかけに、ざわめきという小さな波紋を広げ始めた。誰もがこの予想外の展開に戸惑いを隠せないでいる。


「――ちょっと待ってください!」


 その喧騒を切り裂くように、凛とした鈴が転がるような四十沢の声が教室内に響き渡った。一瞬にしてざわめきは消え去り、皆の視線が射抜くような強い光を湛えた彼女の瞳に吸い寄せられる。その視線は迷いのない一直線で渚を捉え、その強い眼差しに渚は思わず気まずそうに視線を逸らした。


「委員長は、私がやります。でないと、皆が心から納得して、気持ちよく活動出来ないと思います」


 彼女の声には有無を言わせぬ強い意志が宿っていた。それは、ただの提案などではない。室内の隅々まで響き渡るその言葉は、彼女の奥底にある揺るぎない決意表明のように、皆の耳に重く響いた。


「しかし、さっきも言った通り、一組の生徒は……その、委員長を避けるように先生達から言われている、と……」


 生徒会長の藤本の声も四十沢の前にあっては、まるで小さな波のように弱々しい。彼女の全身から溢れ出る熱意と確信に満ちたオーラに、誰もが息を呑み言葉を失っていた。


「あの、やっぱり俺が……」

「いいえ、私が!」


 遠慮がちに申し出る渚の声と、それを力強く否定する四十沢の声が何度も行き交う。蚊帳の外に置かれたままの、呆然とする生徒たちは、まるでコントを見ているかのように、二人の熱のこもったやり取りにただただ目を瞬かせるばかりだった。


「ねぇ、モッチー、それならさ、こうゆうのはどうかな?」


 突然、場違いなほど明るい瑠璃川の声が重苦しい空気を破った。皆の視線が、一斉に彼女の屈託のない笑顔に集まる。


「五組の彼が委員長で、副委員長を私達がやればいいじゃない。委員長じゃないなら、先生達から何か言われることもないだろうし、皆の言う公平になるんじゃないかな」


「……なるほど、たしかに。そうしましょう」


 四十沢はその突飛な提案に一瞬驚いた表情を見せたものの、すぐに納得したように瑠璃川の話に深く頷いた。彼女の表情には、わずかに安堵の色が浮かんだようにも見えた。


「生徒会長、それなら、特に問題はないですよね?」


 完全に予想外の展開に、呆気に取られていた藤本生徒会長は何度か言葉を探すように口を開閉した後、ようやく「あ、ああ……」と言葉を詰まらせながら、ゆっくりと頷いた。


「皆も、それで納得してくれるかな?」


 静まり返った生徒たちの中から、ポツリ、ポツリと、賛同の声が上がり始めた。最初は小さな、ためらいがちな拍手だったが、それが次第に大きくなり、やがて体育館のほとんど全員が笑顔で手を叩きこの意外な解決策に賛同の意を表していた。張り詰めていた空気は嘘のように消え、教室には、わずかながらも希望の光が灯り始めていた。



◆◆


 そんなこんなで俺は見事、学体祭実行委員長を勤めることとなったのだった。


「まぁ、でも……ちょっとだけ……」


 飯澤は、何か言いたげに小声で呟いた。その声はだんだん小さくなっていって、最後は何を言っているのか全然聞こえなかった。どうしたのか気になって「え?」と聞き返そうとした瞬間、彼女が先に口を開いた。


「仕方ないなぁ」


 そう言って、ちょっと呆れたような、どこか楽しそうな表情を浮かべたかと思うと一歩前に出る。


「同じクラスのよしみで、手伝ってあげるか。……ちゃんと感謝してよね?」


 いたずらっぽく笑って、これ見よがしに胸を張る彼女。その様子に俺はなんだか力が抜けて、でも同時に感謝の気持ちが湧き上がってきた。


「本当にごめん、ありがとう」


 心からの感謝を込めて、俺はそう言ったんだ。


「……あ!」


 突然、飯澤の声が静けさを切り裂いた。驚いた俺が顔を上げると、彼女は少し興奮した面持ちで前方の暗がりに向かって指を指している。


「ごめん、渚くん。ちょっとあそこ寄っていかない?」


 点り始めた街灯のオレンジ色の光が、彼女の横顔をぼんやりと照らし出す。一体何を見つけたんだろう?


 訝しげに飯澤の指し示す方向へと目を凝らすと、俺は息を呑んだ。そこには、心臓がドクンと跳ね、足が地面に吸い付いたように動かなくなる……。



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