Ep.7 トクシンノフタリ
委員会室の扉が開くたび、期待と緊張が入り混じったような生徒たちのざわめきが少しずつ大きくなっていく。新しい顔、見慣れた顔、皆がそれぞれの想いを胸に、この小さな部屋へと吸い込まれていくようだ。
やがて、生徒会長である藤本の「それじゃあそろそろ始めようか」という落ち着いた声が響くと、まるで魔法がかかったかのように、室内の喧騒は静寂へと姿を変えた。
決められた場所に腰を下ろした生徒たちの視線は、自然と部屋の奥に置かれたホワイトボードへと集まる。
新しく制服に身を包んだ一年生たちは、まだ少し硬い表情で、先輩たちの様子をそっと窺うように外側の席に並んでいる。一方、内側の席に座る二年生たちは、いくらか余裕のある面持ちで、これから始まるであろう話し合いに備えているようだ。
ただ一人、皆を見渡すように立つ藤本の他には三年生の姿は見当たらなかった。これから始まるであろう活動への期待と、ほんの少しの不安が入り混じったような空気が委員会室には満ちていた。
「……三年生はもう受験モードだからね。学体祭は毎年その年の二年生が主体なんだって」
隣の飯澤が小声で呟いた。まさに今、三年生のいない学体祭はどんな風になるのだろうかとぼんやり考えていたところだったから、図星を指されたようで内心ドキリとした。同時に、狭い長机のせいでやけに近い彼女との距離感に、思考とは別の緊張が胸の奥で騒ぎ出す。
「……あれ? まだ全員揃ってないのか」
ふと空席が目に止まる。向かい合った端の席には二名分の空席があった。資料に書かれた座席表に目を落とすと、やはり二名の女子の名前が載っている。【四十沢望南】、【瑠璃川輝愛】と書かれた名前に渚は思わず首を傾げてしまった。
「……今朝話してた一組の子達だよ。四十沢さんと瑠璃川さん。なんか、名前からして既に凄いよね」
飯澤の苦笑いに賛同するように頷いて見せる。
四十沢望南……、ノゾミ……、いや、もしかして、モチナ、かな? こっちは、瑠璃川輝愛……、キア……? 輝く愛、か。すごい名前だな。一体どんな人たちなんだろう。
特進クラスの一組は二年時から他のクラスとは違った時間割に変わる。二組から八組までは六時間授業だが、一組だけは予習時間として七時間目が用意されているのだ。
「二年一組はもう少しで来るだろうから、まずは各クラスの役割分担から決め始めようか」
生徒会長の藤本がホワイトボードに役職の名前を書き始めた時、二年二組の荘司大地がわざとらしく手を挙げた。
「一組待ってからの方がいいんじゃないですか?」
渚はさっきから何度も見ている座席表に目を落とした。荘司の顔には、どこか引っかかるような、ねじくれたものが張り付いている。
「それはどうして?」
藤本はペンを置いて、穏やかな声で問い返した。
「いや、だって、一組もいないと委員長決められなくないですか? どうせ、誰もやりたがらないだろうし、結局、成績優秀な一組の人を推薦することになるんじゃないですか?」
荘司は、明らかに一組を揶揄するような、陰湿な笑みを浮かべて言った。その言い方には、一組への明らかな妬みが滲み出ていた。学年でも何かと優秀な生徒が多い一組に対する、二組の生徒たちの間にくすぶる感情が垣間見えるようだった。
「荘司くん、そういう言い方は良くないよ。まだ来ていないクラスのことを悪く言うのはやめよう」
藤本は、荘司の言葉を優しく諭した。しかし、その言葉も空しく、荘司は肩をすくめてそっぽを向いてしまった。
その後も各クラスの役割分担について話し合いは始まったものの、荘司の発言が尾を引いているのか、二組の生徒たちはどこか他人事のような態度で積極的に意見を出す者はいなかった。時折、小さな声で「どうせ一組が決めるんだろ」といった不満の声が聞こえてくる始末だった。一方、他のクラスの生徒たちは、二組のそんな雰囲気を察してか静かに藤本の話を聞いているだけだった。
なかなか具体的な役割分担が決まらず室内には重苦しい空気が漂い始めていた時、突然、扉を叩く音が響いた。
「失礼します。遅れて申し訳ありません、二年一組の四十沢です」
扉が開かれると同時に、そこに現れた四十沢望南の姿はまるで光をまとっているかのようだった。長く丁寧に梳かれた黒髪がわずかな動作に合わせて絹糸のように揺れ、その奥にある瞳は、吸い込まれそうなほど深く、それでいてどこか憂いを帯びた輝きを放っている。白磁のような滑らかな肌は、傾き始めた外の光を浴びてほんのりと赤みを帯び、その繊細な輪郭は見る者の心を捉えて離さない。控えめながらも、その立ち姿からは凛とした気品が漂い、誰もがその美しさに息を呑んだ。
「あれ……、あの人、どこかで……」
渚は思わず溢していた。揺れる前髪と少しだけ暗さを残した瞳には、たしかに見覚えがあった。
「遅れてすいませーん、瑠璃川輝愛です!」
四十沢の背後から、太陽のように明るい声が響き渡る。ブロンドの髪を元気いっぱいに揺らし、大きな瞳をキラキラと輝かせながら現れた瑠璃川。その笑顔は周りの空気をパッと明るくする力を持っているかのようで、まるでそこに一輪のひまわりが咲いたようだった。
「えっと、話し合いって今どんな感じですか?」
ほんのりと高揚した頬を指先で押さえながら、好奇心いっぱいの視線で室内に目を向ける。その飾らない明るさと、華やかな存在感に誰もが言葉を失っていた。
「……なんか、思ってたよりもずっとインパクトあるね」
「ああ、たしかに、かなり強烈……」
飯澤は嬉しそうな、どこかで怯えたような震え声で呟いた。各言う渚も印象強い二人の姿に面食らっていた。
「あ、望南、私達の席はあそこみたいだよ」
瑠璃川は四十沢の背中を押すように、空いていた端の席に向かった。
「さてさて……、って、あれ? 全然決まってないじゃん!」
大きな声で騒ぐ瑠璃川が立ち上がろうとするのを、隣に座る四十沢は易々と止めて口を開く。
「私達が遅かったからでしょ。皆、貴重な時間を裂いてこの場にいるのだから、遅れてきた私達が出来るのは円滑に進められるように案を出すことだけよ」
冷静な四十沢の言葉に生徒会長すらも頷いている。彼女の登場で停滞していた場の空気は一変したのだ。
「……あーあ、やっぱり一組が来ると、何でもかんでも持ってっちゃうんだなー。目立ちたがり屋の集まりって感じ? ま、おかげでこっちは楽できるけどさ。ならさぁ、その勢いで実行委員長も気持ちよく引き受けてくれないかなー?」
荘司の声には、あからさまな皮肉と、一組へのねじれた感情が滲み出ていた。いつも良いところを持っていく一組への嫉妬、そして内心ではその実力を認めざるを得ない悔しさが入り混じっているようだ。
「いや、一組は授業日程の関係で委員長は避けるように先生達から言われているんだ」
藤本はそう答えたものの、荘司の言葉には一組が特別扱いされているという不満も込められているように感じた。「どうせ優秀な一組のことだから、先生たちも色々気を遣ってるんだろ」と言いたげな、そんな陰湿な雰囲気が周りの生徒から漂い始めた。
「……あんな金髪が許されるなんて、やっぱり一組は羨ましいよなぁ」
「……先生達から言われているって、どんだけ特別扱いなの?」
聞こえるような陰口があちこちから飛び出していた。
「ちょっと、そんな言い方って酷くない!?」
飯澤が隣で眉を寄せていた。たしかに、一組の二人に対して周囲の声は明らかにやっかみだ。藤本は場を納めようと声を上げているが、一度広まった負の感情は止まることを知らない。
「すいません。宜しいですか?」
透き通るような強い声が、ざわついていた教室に響き渡った。陰口を叩いていた生徒たちの間には、一瞬にして静寂が訪れる。
四十沢はゆっくりと周囲を見渡し、落ち着いた口調で言った。
「皆さんの仰りたいことはわかりました。先生方のご厚意は重々承知しております。ですが、確かに一組だけが特別扱いされているように見えるのも当然だと思います。ですから、委員長は私が引き受けます」
そう言うと、彼女は静かに立ち上がった。しかし、その表情には先ほどの穏やかさとは異なる、強い光が宿っていた。
「ただ……、先ほど私の友達に対して言われた心無い言葉は、決して見過ごすことはできません」
彼女は隣に座る瑠璃川へ心配の色を滲ませた優しい眼差しを向ける。その美しい横顔には、わずかながら陰りが落ちているように見えた。四十沢はそんな瑠璃川をそっと気遣うように微笑むと、再び周囲へ鋭い視線を向けた。
「彼女はハーフとして生まれ、その髪の色は先天的なものです。それを否定し、ましてや陰口を叩くなど、断じて許されることではありません」
彼女はまっすぐと、先ほど陰口を叩いていた生徒たちを見据えた。
「先程の言った言葉、今すぐ取り消して彼女に謝罪してください」
四十沢は怪訝に言い放っていた。誰もが声をあげることも出来ず、ただその場に固まっていた。
「モッチー……、やっぱり私は、あなたのそういうところが好き過ぎるよ!」
四十沢の隣で瑠璃川が立ち上がっていた。暑苦しそうに瑠璃川の抱擁をのける四十沢が眉をしかめる。静まり返る空間に誰もが声を挙げられないでいた。
「ま、まあ、もう一度、落ち着いて話し合いを仕切り直そうか」
生徒会長の藤本が、この重苦しい空気に耐えかねたように、やや焦った声でそう提案した。しかし、渚はそうではないと感じていた。この凍り付いたような空気を本当に変えるためには、もっと違う落としどころが必要なのだ。
自分でも、どうしてそんなことを思ったのか、今となってはよくわからない。だけど、あの時、あの瞬間は、それが最善の行動だと心の底からそう感じたんだ。
「……、はい」
気が付けば、渚は無意識のうちに右手を挙げていた。静まり返った室内で、多くの生徒たちの注目が一気に自分に集まるのを感じ、心臓がドキドキと激しく脈打つ。
「あの、それ、俺がやってもいいですか?」
まるで喉から何かが逃げ出すように、その言葉は渚の口から勢いよく飛び出した。自分でも、なぜこんなことを言ってしまったのか、その理由を明確に説明することなんてできない。ただ、そうしなければならない、という強い衝動に駆られたのだ。
「え……っと、二年五組の、伊沢くん?」
生徒会長の藤本は、明らかに困惑したような表情で、渚の名前を確かめるように尋ねた。その通りだろう。自分だってこんな大それた事をどうして言っているのかなんて、正直なところ全くわからないのだから。
「はい。委員長には俺が立候補します。駄目ですか?」
静けさが、まるで重い布のように渚の耳を覆う。一度言い放ってしまった言葉は、もう二度と戻らない。後悔の念が、ほんの少しだけ頭をかすめた。