Ep.5 サクラマウ
月曜の朝の電車には、いつも淀んだ空気が漂っている気がする。扉にもたれかかる渚は、ぼんやりと車窓の外を眺めていた。次々と流れ去る、無機質な色合いの建物たち。見慣れた景色から目を離し、ポケットのスマートフォンに手を伸ばす。
結局、この週末は何度も昔のことを思い出してしまった。
読みかけのネット小説を開き、意識を別の場所へ向けようとした、その時だった。
『――急停止します。ご注意ください』
アナウンスと同時に、車内は大きく揺れた。体勢を崩した乗客に押され、渚は扉に押し付けられる。
『――ただ今、この先の踏切内で安全確認を行っております。お急ぎのところ大変申し訳ございません』
人混みの圧迫が緩む。突然の出来事に小さく息を吐いた渚は、再びスマートフォンに目を向けようとした。ふと、車窓の向こうに目が留まる。灰色の建物の隙間に見えた、遅咲きの鮮やかな色彩に心を奪われた。
――ミナミ、何をしているんだ?
夕焼けが滲む帰り道、小学校からの見慣れた風景の中、彼女は一人、寂しげに蹲っていた。背中には、ランドセルが心なしか重たそうに揺れている。
『桜の花びらを集めているの』
振り返ることもなく、その小さな声は、どこか遠くへ消え入りそうだった。
――そんなものを集めて、どうするんだよ?
近づいて見ると、彼女の目の前には、儚く散った桜の花びらが、まるで薄紅色の絨毯のように広がっていた。その光景は、過ぎ去った春の日の名残のようで、胸の奥を締め付ける。
『今度ね、桜の絵を描きたくて。何枚あるのか知りたいの』
そう言って顔を上げた彼女の笑顔は、夕焼けに照らされて、どこかもの悲しい色を帯びていた。笑うと両方の眉毛が下がるのは、昔からの彼女の癖。いつも少し困ったような、でも一生懸命な笑顔が、今はただ、切なく心に残る。
『――安全確認が完了しました。発車します、ご注意ください』
僅かに揺れると、電車はゆっくりと動き出した。ピンク色の花吹雪は、流れ去る景色の中に溶けて消えた。
◆
同じ制服を着た、同じような年代の男女が、同じ方向を目指して歩いている。この見慣れた光景を見るたび、なぜか心が重くなる。渚の歩幅は自然と狭まり、気がつけば立ち止まっていた。
別に学校が嫌いなわけじゃない。むしろ、波風の立たない穏やかな環境は、居心地が良いと言えるだろう。あまり変化のない、普通の毎日の方がどちらかと言えば好きだ。
……だけど、またいつ、普通が普通じゃなくなるかわからない。
ふと、頭の隅を掠める感情。これは憂鬱なんかじゃない、不安なんだと、毎朝のように自分に言い聞かせている気がする。感傷的になる自分が情けなくて嫌だった。
「――おっはよう!」
明るい声が朝のまだ少し眠たい空気を切り裂いた。同時に、背後からぽんと軽く肩を叩かれる。振り返ると、特徴的なぱっつん前髪が揺れていた。飯澤美波だ。
「お、おはよう」
朝日が彼女の頬をほんのり照らし、白い歯がキラリと光る。ごく自然な、まるで昨日も顔を合わせたかのような挨拶に、渚は内心で小さく驚いてしまう。飯澤美波とは、同じクラスではあるものの、今まで交わす言葉といえば教室での挨拶程度。特別親しいというわけではなかったからだ。
「この前は急に連絡しちゃってごめんね。渚くんから返信来なかったから、もしかして、迷惑だった?」
彼女は少しはにかむような笑顔を浮かべ、困ったように形の良い眉をほんの少し下げて言った。そういえば、数日前の放課後、スマートフォンに彼女からのメッセージが届いていたのを思い出した。内容は確か、近々行われる学園祭の準備についてだったか。既読にはしたものの、特に何も返信していなかった。
「あ、いや、全然。むしろごめん、返信するの忘れてて」
普段から誰かと頻繁にメッセージをやり取りする習慣のない渚は、あれで一区切りついたものだとばかり思っていたのだ。
「良かったぁ、急に送って嫌だったのかなって、ちょっとだけ不安になってたんだ」
彼女の屈託のない笑顔に、渚の胸の奥がチクリと痛んだ。
「ぜ、全然、大丈夫。おれ普段、あんまりメッセージ機能とか使わないから」
「え、そうなの?」
飯澤は心底驚いた、というように目を丸くした。その瞳は、朝の光を吸い込んだせいかキラキラと輝いている。
「じゃあ、いい練習相手だと思って、気軽に送ってみてね!」
彼女はそう言って、くるりと踵を返して歩き出す。つられるように、渚も重い足取りで歩き始めた。通学路沿いの桜並木は、すっかり葉桜へと変わり、代わりに力強い緑が目に鮮やかだ。時折吹く風が、新しい季節の匂いを運んでくる。
「あ、そうそう。渚くんに有益な情報があるよ」
数歩先を歩いていた飯澤は、ふと思い出したように顔だけを振り返る。その表情には、どこか悪戯めいた光が宿っていた。
「他のクラスの友達に聞いたんだけどさ。一組の学体委員、なんと、あのアイザワさんらしいよ?」
得意げな顔でそう言った飯澤は、大袈裟な身振りで両手を広げて驚いてみせる。一方で、彼女がまるで当然のように口にした『アイザワ』という人物が誰なのか、渚にはさっぱりわからず、曖昧な相槌しか返せない。
「特進って、一組の委員か……、そのアイザワさん……って?」
飯澤は一瞬動きを止めると、信じられないといった表情で完全に渚に向き直り、ぐいっと顔を近づけてきた。
「ウソでしょ?! アイザワさんを知らない男子なんて、本当にいるの?!」
その迫力に、渚は思わずたじろいでしまう。
「い、いやぁ……、ごめん、ここにいます」
飯澤は心底驚いたといった様子で、目をぱちくりとさせ言葉を失っていた。彼女の興奮した様子から特進クラスの一組に『アイザワ』という、どうやらかなり有名な人物がいるらしいことは理解できた。しかし、それが一体自分にとってどういう意味を持つというのだろうか?
渚の頭の中には、疑問符がいくつも浮かんでいた。
「いやぁ、流石に驚いたよ。渚くんって、あんまり他人に興味ないの? あ、ごめん、言い方悪かったかも」
飯澤はすぐにいつもの明るさを取り戻し、少し反省したように眉を下げた。
「確かに他のクラスのこととか、あんまり知ろうとはしてないかな。自分のことで手一杯、って感じだし。それで、その人がどうしたの?」
思っていた反応とは全く違う渚の言葉に、飯澤は一人納得したように腕を組みをして話し始めた。
「アイザワさんの話ね。入学した一年の時から、その美貌で全校生徒が騒ぐほどの超美人で、しかも全国模試で常に一桁の順位に入るっていう、とんでもない秀才なんだよ。たしか運動神経も抜群で、中学の頃はバレーボールで全国優勝したらしいよ」
「へぇ……、確かに、それはすごい」
熱のこもった飯澤の紹介に、渚は素直に感嘆の声を上げた。しかし、それはあくまで他人事であり、自分の日常とはかけ離れた世界の出来事のようにしか感じられなかった。別段、特別な興味が湧いてくるわけでもない。
「それで、なんでその人が学体委員だと俺に有益な情報なの?」
素直に感じた疑問を投げかけると、飯沢は先ほどまでの明るい表情から一転、どこか複雑な、そして少しつまらなそうな顔で応えた。
「普通の高校生男子は、そんな雲の上の存在みたいな有名人と少しでも接点を持って仲良くなりたいって思うでしょ? はぁーあ……、渚くんって、本当に張り合い無いなぁ」
「ご、ごめん」
渚は思わず謝罪の言葉を口にした。飯澤の期待していた反応とは、ずいぶんと違ってしまったのだろう。
案の定、飯澤は大袈裟な仕草で肩をすくめた後、再び前を向いた。しかし、その口元には、なぜか楽しそうな笑みが浮かんでいる。
「ま、そんな高嶺の花とは、そうそう近付けないだろうしね」
前を向いた彼女の名前を、少し離れた場所で呼ぶ女子生徒の声が聞こえた。飯澤はすぐに明るく手を振り返す。そして、またくるりと渚に向き直って、満面の笑みを浮かべた。
「じゃ、また教室で」
軽く手を振る飯澤に、渚は少し遠慮がちに、小さく手を上げた。また彼女の明るさが、少しだけ自分の沈んだ気持ちを照らしてくれたような気がした。