Ep.4 フタヲシタンダ
「――遅くなってごめんね、ただいま!」
玄関の方から、明るい母親の声が聞こえた。慌ててアルバムを閉じると、まるで何か隠し事でもしているかのように、元の場所に急いで投げ入れた。後ろめたいことなど何もないはずなのに、どうしてこんなに焦っているのだろう。自分でもよく分からなかった。
部屋を出ようと扉を開けると、ちょうど母親と鉢合わせになった。
「ごめんごめん、仕事が押しちゃって。すぐご飯作るから!」
「急がなくていいよ、俺もついさっき帰ってきたばっかりだし」
母から、パンパンに膨らんだ買い物袋の片方を受け取ると、リビングの扉を開けた。
「ねぇ、母さん。昔住んでた所の隣の家族の事って覚えてる?」
「え? なに急に、隣の家の人?」
「あ、いや、憶えてなければいいんだ」
特に尋ねるつもりもなかったはずなのに、その言葉は自然と口をついて出ていた。母は驚いたような、どこか微妙な表情で首をかしげた。
「隣の家族……、ああ、伊崎さん家の事?」
「そ、そう。その伊崎さんって、今もあそこに住んでいるのかな?」
母はまた少し難しい顔をした。そして、何かを思い出すように、ゆっくりと上を向いて瞳を閉じた。
「あー、ナニちゃんだったっけ? 渚とよく二人で遊んでたよね」
「ミナミ」
「あ! そうそう、ミナミちゃん。可愛い子だったよねぇ、素直で明るくてさ」
ミナミが可愛い……?、いやいや、それは絶対にないだろう。あの特徴的な少し変な前髪を思い出すと、思わずそう口走りそうになるのを必死で飲み込んだ。
「五年生の時だっけ? 引っ越してなかったら、渚にも彼女が出来てたかもしれないのにねぇ……、お母さん的にはとっても残念だわ」
「つ、付き合うわけないだろっ! ……じゃなくて、引っ越し?、なんで?」
ミナミは五年生の時に引っ越しをしていた? 驚きと同時に、卒業アルバムに個人写真が載っていなかった理由が分かったような気がした。母はまだ、からかうような笑みを浮かべてこちらを見ている。
「ああ、そっか。あの時はまだあんたも小さかったから、詳しくは話さなかったんだっけ」
「なんで、ミナミの家族は引っ越したんだよ? うちなんかよりずっと新しい家だったじゃないか」
伊崎さんの家が新築で建ったのは、俺が幼稚園の頃だった。当時では珍しい最新の三階建てのその家は、近所でもちょっとした話題になっていたのを覚えてる。たった数年でそんな家を手放して引っ越すなんて、一体何があったのだろうか?
「伊崎さん夫婦ね、離婚したのよ。それで奥さんはミナミちゃんを連れて実家に戻ったの」
「どこに引っ越したの?」
「確か東北とか北海道とかだったかな……? それからすぐにウチも忙しなかったから、あんまり詳しくは憶えてないかな」
五年生……、そうか、全てが繋がった。 母の言う「忙しかった」という言葉に、深く納得した。俺はミナミが引っ越したことを忘れていたんじゃない。きっと、あの頃の記憶に無意識のうちに蓋をして、見ないようにしていたんだ。
「お父さんと必死に頑張って、なんとか今の暮らしに落ち着けたけど。あの時は渚にも色々我慢させちゃったよね」
そうだ、あれは中学に入学したばかりの春だった。あの頃から、我が家の暮らしは一変したのだ。
「俺は、別に……。なにも我慢なんてしてないよ」
細々と営んでいた書店は経営難から店を畳み、家と土地を売っても残った借金を両親は必死に工面していた。俺はそんな両親の姿を見て、大好きだったサッカー部を辞め、少しでも家計の足しになればと中学生でもできるアルバイトを探した。
そうだ。あの時から俺は、自分自身に、そして自分を取り巻くこの環境に、何かを期待することをやめたんだ。
どうにか再就職先を見つけた父は、あれからずっと単身赴任で各地を転々としている。スーパーのパートだった母は転職し、事務の正社員として働くようになった。ようやく今の生活が落ち着いたのは、受験勉強が本格的になった三年生の夏だったのを覚えている。
「中学はバイトばっかりで全然遊んでなかったし、受験だって頑張って学費の安い都立に入ってくれてさ。今度は渚の好きなことをやっていいんだからね。お父さんもお母さんも、今はそれくらい蓄えがあるんだから」
母はいつも仕事帰り、疲れている素振りなど微塵も見せない。きっと、ずっと無理をしているのだと思う。そんな母の優しさに気が付くと、いつも少し痛かった。
「充分満足してるから平気だよ。母さんこそ今度父さんが帰ってきたら、たまには二人で出掛けたら?」
父とは今でも、年に二、三度しか会えていない。たった一人で俺の面倒を見てくれる母に、ほんの少しでも労いの時間があればと、心からそう願う。
「あ。お父さん次のゴールデンウィークにこっち帰ってくるって連絡が来たよ。久しぶりに三人で出掛けよっか?」
「まぁ、予定が空いてればね……。先に風呂入ってくる」
これ以上、深く思い出したくない過去に背を向けるようにリビングを出た。もう、ミナミのことを思い出すのは止めよう。そう心に強く言い聞かせた。
自分の部屋に戻ると、机の上で光るスマートフォンが目に飛び込んできた。画面には見慣れない名前のアイコンと共に、新着のメッセージが3件並んで表示されている。
【クラスのグループチャットで見つけて送ってみました!】
【あ、飯澤です! これからなにかと連絡取ること増えると思うから、宜しくね】
三つ目のメッセージは、くたびれたようなパンダが手を振るキャラクターのスタンプだった。
突然のメッセージに戸惑いを覚えながらも、心の奥底にほんの少しだけ残っていた曇った感情が、ふっと緩んだような気がした。
「そうか、彼女も、名前は美波だった……。あの前髪、似合っていたけど、もしかして切りすぎたのかな」
不思議な縁と、昼間の彼女の少し間の抜けた仕草を思い出し、いつの間にか頬が緩んでいた。