Ep.3 イザキミナミ
木造の二階建て。少しばかり煤けた看板が掛かる我が家の書店は、夕暮れ時になると独特のインクと紙の匂いが辺りにじんわりと漂っていた。隣の伊崎家はいつも静かで、共働きのミナミの両親の帰りは遅い。幼稚園からの幼馴染み、伊崎ミナミが橙色の夕焼けを背にカタカタと音を立てる古い引き戸を開けて顔を出すのは、いつもの光景だった。
「ナギちゃん!」
少し鼻にかかった、明るい声が店内に響く。彼女の存在は、夕暮れの閑散とした店内に一筋の光を灯すようだった。俺は彼女の事を「ミナミ」と呼び、彼女は俺を「ナギちゃん」と呼んでいた。
ミナミは、どこか不思議な魅力を持った少女だった。キラキラとした大きな瞳で興味のあることを見つけると、小さな体全体で前のめりになる。逆に、興味のないことには露ほども関心を示さない。街中で見知らぬ大人の服の柄を突然褒めたり、工事現場の音に目を輝かせたり。そんな彼女の突飛な行動を、いつもハラハラしながら見守っていたのは決まって俺の役目だった。
そして、何と言っても印象的だったのは彼女の特徴的な前髪だ。ある時は右目を完全に隠すほど長く伸びていたり、かと思えば、生え際ギリギリまで切り揃えられていたり。
初めて彼女の前髪を見た時、うちの両親は顔を見合わせ、小さな声で何かを話していた。後から聞いた話では、もしかしたら虐待ではないかと心配していたらしい。母さんが伊崎さんの母親にそれとなく尋ねたこともあったそうだ。
でも、実際は全く違った。あの奇妙な前髪は、ミナミ自身がふとした瞬間の好奇心に駆られてハサミで切ってしまうものだと、彼女の母親は困ったような、でもどこか楽しそうな笑顔で話していたのを覚えている。陽の光に透ける彼女のは淡い色の髪はいつも美しくて、子供心にも何故か目が離せなかった。
そんな少し風変わりなミナミは、我が家に来るのを気に入っていたようだ。古い木の床を踏む癖が、彼女が来た合図だった。
「――ナギちゃん、次は何の話を読む?」
積み上げられた読み終わった本の山の横で、彼女はいつも同じ質問を繰り返した。店主である父さんは、漫画以外なら店の本は何でも読んでいいと言ってくれた。正直、当時の俺は漫画の方に興味が引かれていたけれど、ミナミはどんな分厚い本でも、難しい漢字が並んだ文学書でも、目を輝かせながらページをめくっていた。彼女の横顔を見ているうちに、俺も読書の世界に引き込まれていった。
いや……、今にして思えば、本の内容そのものよりも彼女と肩を並べて物語の世界を旅すること。そして読み終えた内容について、あの狭い店の奥で話し合う時間が好きだったのかもしれない。過ぎ去った記憶はまるで硝子細工のように、意識という光を向けた瞬間、奥底で鮮やかに輝いていた。
◆
海斗と別れた後、心には伊崎ミナミの記憶が洪水のように押し寄せてきた。まるで固く閉ざされていた蓋が突然開いてしまったかのように、次々と鮮明に思い出されることが不思議でたまらなかった。
「ただいま……」
玄関の扉を開けると、いつものようにそう呟いた。しかし、リビングの灯りはついていない。ああ、まだ母は帰っていないのか。少しばかりの寂しさが胸を掠めた。
狭い廊下を歩き、自分の部屋へと向かう。一体何が入っているというのだろうかと、やけに重たく感じる鞄を床に置くと理由もないのに深い溜息がこぼれた。
「小学校の同窓会か……、ミナミも来るのかな……」
ふとそう思い立ち、机の一番下の引き出しを開ける。雑然と積み重ねられた物の中から、探し求めていたものを見つけ出して机の上にそっと広げた。濃紺の表紙の右隅に、力強く【飛翔】と書かれた小学校の卒業アルバム。そういえば、まともに開いた記憶なんて、一度くらいしかないかもしれない。
「たしか、ずっと同じクラスだったよな……」
小学生時代の曖昧な記憶を辿ると、いつもミナミと一緒に登校していたような気がする。昼間の夢が現実の断片だとすれば、教室はきっと同じだったはずだ。
「六年二組……、あった」
名簿順に並んだ小さな個人写真には、懐かしい顔ぶれが並んでいる。何とはなしに自分の写真に目をやると、何ともぎこちない微笑みを浮かべた幼い自分がそこにいた。
「なんだよ、この酷い写り方は……」
我ながら酷すぎる自分の写真に、思わず苦笑してしまう。片方の口角だけを無理やり上げたような、間の抜けた笑顔の自分に、なんだか情けなくなった。
「伊崎……、伊崎……、あれ?」
六年二組のクラスメイトの名前を一つ一つ丁寧に追ってみるが、どこにも伊崎ミナミの名前は見当たらない。まさかと思い、他のページの一組と三組も丹念に探してみたが、やはり彼女の名前は見つからなかった。
「え……? ミナミがどこにも写ってない?」
動揺しながら、アルバムの最初のページからもう一度目を凝らす。一年生から六年生までの行事の写真の中には、自分の姿がいくつか写っていた。しかし、どうしても肝心の彼女の姿が見当たらないのだ。胸の中に小さな疑問が湧き上がる。
「なんでだ? 少なくとも五年の頃は同じクラスのはずだろ」
高尾山登山遠足と書かれた旗を掲げた担任の先生の周りに、四年生二組の生徒たちが楽しそうに写っている。小さな写真の中の顔を指でそっとなぞりながら確認するが、やはりそこにも彼女の姿はなかった。焦燥感が募っていく。
「なんでどこにも居ないんだ……?」
もう一度、アルバムを最初からゆっくりと見返してみる。一つ一つの写真に注意深く目を凝らしていくが、やはり伊崎ミナミの姿は見つからない。個人写真のページを過ぎ、残すところあと最後のページ。ついさっきまで抱いていた妙な好奇心はすっかり萎んでしまい、落胆しながら最後のページを捲った。
「……あった!」
ほとんど諦めかけていた最後のページに、伊崎ミナミの姿はたった一枚だけ写っていた。五年生の課外授業で撮られたと思われるその写真の中で、不格好な前髪の彼女は、屈託のない笑顔で楽しそうに笑っていた。その笑顔を見た瞬間、胸の奥にじんわりとした温かいものが広がった。