表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/18

Ep.2 コレモゲンジツ


 高校の最寄り駅から電車に揺られること四十分と少し。窓の外を流れる見慣れた景色は、今の心模様を映すように、どこかぼんやりとしていた。地元の駅に降り立つと、まだ西の空は明るさを残している。四月の、あの少しだけ憂鬱を誘う伸びた日の長さに、小さく息をついた。


 今日もまた、どこかで時間を潰して帰ろうか。


 放課後、特に目的もなく駅周辺を彷徨うのは、いつの間にか俺の日常に溶け込んだ習慣だった。変わり映えのしない毎日は、きっとこのまま、どこまでも続いていくのだろう。自分の人生には、物語のような劇的な波など、永遠に訪れないのかもしれない。そんな諦めにも似た感情が、胸の奥にじんわりと広がっていくのを感じていた。


 駅前の雑踏の中、ふと、見慣れた紺色のブレザーが目に留まった。同じ高校の制服だ。ちらりと横顔を見ると、見たことのない女子生徒だった。少しだけ長い前髪が風に揺れ、憂いを帯びた横顔が夕暮れの光に照らされている。彼女もまた、何か物思いに耽っているのだろうか。通り過ぎるほんの一瞬の出来事だったけれど、なぜかその姿が心に残った。


 気が付けば足は駅前の薄暗い、けれどどこか落ち着ける安いカフェへと向かっていた。自動ドアが開く音と、コーヒーの香りが混じり合った店内の空気に微かに安堵する。奥の窓際の、いつもの一人席に腰を下ろし、リュックからスマートフォンを取り出した。指先は無意識のうちに、よく閲覧する無料の小説投稿サイトの履歴をタップする。画面が切り替わると、待ちわびた通知が目に飛び込んできた。


伊吹波(いぶきなみ)先生、新着エピソード、一件更新!】


 その文字を見た瞬間、抑えきれない喜びが心の中で弾けた。最近、まるで心の拠り所のように夢中になっている作家の一週間ぶりの最新話だ。伊吹波というペンネームの人物は、驚くほどの速さで、SF、ミステリー、ホラー、ファンタジーと、ジャンルを問わず複数の作品を同時進行で更新している。その独特の言い回しと、読者の予想を軽々と裏切るストーリー展開は、いつも物語の世界へと深く引きずり込む。投稿を始めてまだ一年足らずだというのに、既に二作品が書籍化されているという事実もその才能を物語っていた。


 よし、これで今日の憂鬱な時間を、少しは忘れられるかもしれない。


 ワイヤレスイヤホンを両耳にそっと押し込み、周囲の喧騒をシャットアウトする。目の前の小さな液晶画面だけが、自分の世界になった。そこに映る無数の活字たちが、まるで生きているかのように、躍動しながら目に飛び込んでくる。一つ一つの文字が連なり、意味のある言葉へと姿を変え、さらに連なって文章になるとそれは大きな波となって物語の深淵へと運び去っていく。


 ああ、これだ。この、現実から完全に切り離されたような感覚が、俺は堪らなく好きだった。


 文章の中に閉じ込められた時間は、まるで無限大だ。現実の、秒刻みで過ぎていく現実の時間とは比べ物にならないほど、物語の世界は緻密に、そして豊かに紡がれていき、いまだかつて見たこともない景色をその中で見ることができる。


 今回もまた、信じられないほど引き込まれる物語だった。やっぱり、この人は天才だ!


「――渚?」


 夢中で画面に見入っていた意識は、突然肩を叩かれたことで現実へと引き戻された。片耳のイヤホンを外し、顔を上げると、カフェのざわめきが一気に耳に流れ込んでくる。そこに立っていたのは、浅黒い褐色の肌に、くっきりとした目鼻立ちをした、ジャージ姿の男子学生だった。肩に掛けられたスポーツバッグが、彼の活発さを物語っている。彼は、驚いたように丸い目をこちらに向けていた。


「……え、海翔(かいと)?」


 思わず、呼び慣れた友の名を口にする。


「やっぱり渚か! こんなところで何してるんだよ?」


 瀬戸海翔(せとかいと)。小学校、中学校と、同じ学び舎で共に過ごした、懐かしい旧友だった。


「俺は別に、普通に、学校帰りだけど……。お前こそ、部活は?」


 若干の居心地の悪さを胸の奥に押し込みながら、僕は海翔の持つ鞄を指差した。【第一高校蹴球部】と大きく刺繍されたその鞄は、まだ一年も使っていないはずなのに、あちこちが擦り切れ、使い込まれた様子だった。なぜか、その鞄をまともに見ることができなかった。


「ああ、今日はミーティングだけで部活は休みなんだ。いやぁ、明るいうちに帰れるのってなんか久しぶりで変な感じだよ!」


 彼の明るい声が、やけに耳に響く。


「一高のサッカー部は、噂以上にハードそうだな」


 子供の頃は、いつも一緒にボールを追いかけていたはずなのに、いつの間にか、俺と彼の間には、これほど大きな差が生まれてしまったのだ。いや、思い返せば小学生の頃から海翔はいつも自分よりずっと才能に溢れていた。今なら、それが痛いほどよくわかる。


「それよりさ、小学校の頃の女子達が同窓会を企画しているんだって。渚にもその話って来てる?」


 そんな話は、今日初めて聞いた。彼の言葉に、特に嫌味のようなものは感じられない。けれど、彼の俺とは比べ物にならないほどの広い交友関係が胸に小さな棘のように刺さる。


「いや……、俺は女子の連絡先なんて、一人も知らないし。それに、小学校の同窓会ってついこの間までほとんどみんな中学で一緒だったじゃないか」


「だよなぁ。俺もそう言ったんだけどさ、ほら、受験で遠くに行った奴もいるだろ? そういう奴も呼ぶらしいよ」


 卒業後、ほとんどの生徒は地元の公立中学校へ進学したけれど、言われてみれば確かに中学受験をして別の学校へ行った友達も何人かいた気がする。遠い記憶の断片が、ぼんやりと蘇ってくる。


森垣(モリ)とか、薮下(ヤブッチ)とか。同じジュニアのチームだった奴らも、結構別々の道に進んだもんなぁ……。あいつらも、まだサッカー続けてんのかな……」


 海翔は何かを思い出したように言葉の途中で口を閉ざした。わざとではないことは、すぐにわかった。とっくにサッカーをやめてしまった僕に、気を遣ったのだろう。その優しさが、今の自分には少しだけ痛かった。


「そ、そういえばさ、アイツも来るかな? ほら、渚、仲良かったじゃん?」


 気まずい空気を払拭しようとするように、彼は明るい声で話題を変えた。

 気を遣わないでくれ。そんなことをされると、余計に自分が惨めになるだけだ。それに俺は、自分自身にもう何も期待していないんだ。


「仲良かった……? 誰のこと?」


「俺はあんまり話したことなかったけど。お前、サッカーの練習ない日、いっつも一緒に帰ってたじゃん」


 海翔からそう言われるまで、なぜかその記憶をすっかり忘れていた。まるで頭の中に突然、雷が落ちたような衝撃が走る。どうして今まで、彼女のことを忘れていたのだろう。


 そうだ、授業中に見ていた夢……、あれは夢なんかじゃない。あれは、確かに現実にあった、俺の記憶だ。


「あいつだよ、ほら、名字なんて言ったっけ……。い、いがらし? 違うな、えっと……」


 もどかしい彼の言葉を聞きながら、俺はまるで導かれるようにその名前を口にしていた。ずっと心の奥底にしまい込み、忘れようとしていた記憶が、本当に些細なきっかけで堰を切ったように溢れ出した。


伊崎(いざき)……、ミナミ」


 幼馴染みである彼女のその名前を、渚は数年ぶりに声に出していた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ