Ep.13 サソイ、サソワレ
週の折り返しを過ぎた木曜日。鉛色の空が広がる午後、学体委員会の集まりは毎週この曜日に行われる。だるそうに体を揺らし、一歩一歩重そうに歩く彼の後ろ姿を、私は胸の奥に渦巻く微かな期待と、それと同じくらいの諦めをないまぜにした複雑な表情で見つめていた。
「あ、あのさ」
乾いた喉から絞り出した声は、思わず小さくなる。彼は足を止めることなく、ただ顔だけを振り返った。その無関心さが、私の心に小さな棘のように刺さる。
「明日、ホームルームで球技大会の競技決めるじゃん?渚くんは、もう決まってるの?」
意を決して、今日一番聞きたかった例の話題に触れてみる。彼は少しだけ考えるように天井を仰いだ。その長い睫毛が、薄暗い廊下の光を受けて揺れる。
「いや、特には……」
「そ、そっかぁ」
期待と落胆が同時に押し寄せ、私の声はしぼんだ。言えない、とてもじゃないけど一緒にフットサルにしようなんて誘う勇気は、今の私には欠片もなかった。もやもやとした、甘酸っぱいような苦いような感情が胸いっぱいに広がる中、あっという間に目的の教室についてしまった。
「お!ミナミン、委員長くん、二人とも早いね」
ドアを開けた瞬間、派手な金髪が目に飛び込む。瑠璃川が、太陽のような眩しい笑顔で私たちに向かって手を振っていた。私は軽く手を振り返す。渚くんは、いつものように素っ気なく頭を下げた。
「今日は一組も早く終わったの?」
「ううん、今日は私が取ってない文系の授業だから。モッチーは後から来るよ」
親しげに、ほとんど躊躇なく私の手を取る瑠璃川に、私は困ったように笑う。彼女の人懐っこさは他の人よりも、やや距離感が近いみたいだ。その無邪気な明るさが、少しだけ今日の私の憂鬱を和らげてくれる。
「今日は提出する書類の打ち込み作業だけだから、始めててもいい?」
隣に立つ渚くんはそう言うと、決められた席に淡々と腰を下ろした。いつもながら感情を表に出さず、ただ冷静に目の前のタスクをこなす彼を瑠璃川はどこか慈しむように目を細めて見つめていた。その視線が、私の胸にまた別の感情を呼び起こす。
(まさかとは思うけど……、キアラちゃん、変なこと言わないよね……?)
私の胸には嫌な予感がさざ波のように広がり、それが現実になることを恐れた。そして次の瞬間、その予想は見事に最悪の形で的中した。
「委員長くん、球技大会、フットサルで出てよ! ミナミンと一緒にさ!」
唐突な瑠璃川輝愛の提案は、教室に微かな波紋を広げた。案の定、隣に立つ渚くんは困惑を隠せないといった様子で、その端正な顔を曇らせる。彼の眉根には、小さな皺が寄っていた。
「ちょ、ちょっと、キアラちゃん!」
私は慌てて割って入るように声を上げた。しかし、瑠璃川は私の制止も聞かず、無邪気な笑顔を浮かべたまま言葉を続けた。その瞳には、悪戯っぽい光が宿っている。
「委員長くんとガチバトルしたいんだよ! あ、今度こそ負けないからね。それとも、もう何に出るか決めてる感じ?」
彼女の言葉に、渚くんの困惑は深まるばかりだ。彼は視線を宙に彷徨わせながら、ゆっくりと口を開いた。
「ガチバトルって、いったい何の為……? まだ特には決めてはいないけど……」
彼の声は、どこか自信なさげで、迷いの色が滲んでいた。この機を逃すまいと、瑠璃川は私に視線を送ってくる。その視線は、「ね、ミナミンもそう思うでしょ?」と語りかけているようだった。私は一瞬躊躇したが、ここで引くわけにはいかない。
「わ、私はいいけど。渚くん、次第じゃない……かな?」
私は精一杯の「追い討ち」を掛けてみた。言ってから、とことん自分の愚かさが恥ずかしくなった。こうやって、いつも自分の言葉に責任を持たず、ただ状況から逃げるだけで……。心の中で、ため息が漏れる。
「……まあ、何も決めてなかったし。フットサルなら、いいかな」
渚くんの口から出た意外な言葉に、私の時間は一瞬止まった。
「え?」
拍子抜けした私の顔がどんな風に見えているのか、自分でも分からなかった。信じられない、という感情がそのまま顔に出ていたかもしれない。
「やった! 決まりね、絶対、約束だよ?」
瑠璃川は、まるで勝利を確信したかのように、満面の笑みを浮かべた。その表情は、達成感に満ち溢れている。
瑠璃川は楽しそうにそう言い放つと、軽やかな足取りで自分の席へと戻っていった。その背中には、達成感と喜びが満ち溢れているようだった。残された私は胸が弾むような嬉しさと、僅かばかりの居心地の悪さに呆然と立ち尽くすしかなかった。
◆
金曜日のホームルーム、ざわつく教室内で球技大会の種目決めが始まった。私の目の前に座る渚くんが、迷いなくフットサルに手を挙げたのを見て、胸がキュッと締め付けられる。慌てて私も手を高く掲げると、間一髪、最後のひとりに滑り込むことができた。
安堵と喜びで震える体で、そっと渚くんの方を見る。彼もまた、僅かに振り向いた。視線がぶつかった瞬間、心臓が大きく跳ねる。胸いっぱいに広がる熱い感情で、顔が綻んでしまいそうになるのを必死で堪えた。どうか、この気持ちに気づかれませんように。
その日の放課後、席を立ち上がった渚くんは突然、くるりと振り返った。不意打ちのことに、私は「ひっ」と小さな声を漏らし、動揺を隠すように咄嗟に両手で前髪を押さえる。
「飯澤さんって、サッカー経験あるの?」
彼の口から出たのは、全く予想していなかった質問だった。思わず「えっと……」と言葉に詰まりながら、体育の授業で少しやったことがある程度の経験を、しどろもどろに答えた。
「体育でやった事あるくらい……かな」
彼の真意が分からず、私の心臓はまだ、ドキドキと高鳴り続けていた。彼は何か言いづらいように口を紡いでいたが、溜め息まじりに口を開いた。
「俺もサッカーは随分やってないからさ、久しぶりに知り合いの人がやってるフットサル場に行こうかと思って」
彼はどこか照れくさそうに、でも少しだけ高揚した面持ちで言った。彼の口からそんな言葉がでるとわ……。少し意外な気持ちになる。
「へえ、意外とやる気満々だったんだ」
私は思わず、くすりと笑ってしまった。普段はどちらかというとインドア派の彼が、自ら自主練習に行くと言い出すなんて。
彼は気まずそうに頭を掻いた。
「意外ってなんだよ……。まあ、クラスの皆に迷惑はかけたくないし、瑠璃川さんからも釘を刺されてるからさ」
他人にはまるで関心がなさそうに見える彼が、実は誰よりも周囲に気を配っている。そういうところに、私はいつも……。
「それでさ、今日の夜、もしよかったら飯澤さんも一緒に行ってみる?」
彼の言葉に、私は思わず「え……、え?!」と間の抜けた声を上げてしまった。聞き間違いだろうか? あの渚くんが、私を誘ってくれている……?
渚くんは私の動揺に気づいたのか、慌てたように付け加えた。
「あ、いや、急だし、無理にとは言わないから、行かなくても全然大丈夫……」
しかし、私の口はすでに動いていた。
「行く! 今日の夜はバイトもないし、ちょうど身体動かしたいと思ってたところなんだ!」
食い気味に答えてしまい、我に返ると急に顔が熱くなった。ああ、またやってしまった。
「そ、そっか。じゃあ、また後で連絡する」
「う、うん!」
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。渚くんはそう言って、当然のように自分の鞄を取った。彼の指が持ち手にかかる一瞬、なぜだかその仕草がひどくゆっくりに見える。教室を出ていく彼の背中を、私の視線は縫い付けるように追い続けた。スラリと伸びた背筋、少し揺れる癖のある髪。たったそれだけの光景なのに、私の心臓はまだ、ドクドクとけたたましい音を立てて一向に落ち着いてくれそうになかった。この胸に刺さる優しい傷みは、いつになったら消えてくれるんだろう。