Ep.12 フットサル
五月の中間テストが終わり、教室内にはどこか気の抜けたような、それでいて和やかな空気が漂っていた。生徒たちはひとまず大きな山を越えた安堵感に包まれながらも、これから突きつけられる結果への一抹の憂鬱を隠せないでいる。美波は、そんな複雑な感情が入り混じる空気の中で、目の前の席で突っ伏して眠りこける呑気な彼の背中を眺め、小さなため息を漏らした。そのため息には、彼のような無邪気さへの羨望と、自分自身の抱える不安が入り混じっていた。
その静けさを破るように、教室の入り口から明るい声が響いた。
「美波〜、お昼、外で一緒に食べよう!」
声の主は、三組の陽菜と七組の琴音だった。二人がにこやかに手を振っているのが見える。美波は、その誘いに心の奥底で小さく弾むものを感じた。テストの重苦しさから解放され、友人と過ごす時間への期待が膨らむ。二人に笑顔で手を振り返すと、美波は迷うことなく鞄を手に立ち上がった。去り際にちらりと彼を見てしまう。渚は大きく伸びをして欠伸を噛み殺していた。まだ微睡みの中にいる彼はぼんやりと頭を掻いている。そんな姿を小さく笑い、美波は友人の元へと駆け出した。
◆
「テスト、どうだった?」
陽菜は開口一番にそう言うと、大きくため息を漏らした。その表情には、テストの出来に対する不安が色濃く浮かんでいる。
「今回、結構ヤバイかも……」
琴音は眉をハの字に寄せて言ったが、すぐに私と陽菜の声が重なった。まるで呼吸をするかのように、ぴったりと息が合った瞬間だった。
「琴音はいっつもそう言って九十点台取るから信用できない!」
顔を見合わせた陽菜と私は、思わずクスクスと笑い合った。琴音は一人、頬を膨らませてむくれたように声を漏らした。その様子は、まるで拗ねた子どものようだ。
「私も今回、結構ヤバイかもしれないな。委員会とか何だかんだで忙しくて、あんまり勉強できなかったし……」
私は顔を少し伏せて呟いた。心なしか、声も小さくなってしまう。実際、テスト期間に入るまで、学体委員の活動は予想以上に多かったのだ。そのほとんどが、委員長である彼の仕事を手伝っていたせいもあるのだが、その言葉はぐっと飲み込んだ。彼に手伝いを頼まれるたびに、胸の奥が温かくなるのを感じていたことも、もちろん秘密だ。
「ほほう……? 忙しいのは本当に委員会のせいだけなんですかぁ?」
ニヤケ顔で陽菜と琴音が、私の顔を覗き込んできた。その視線に、図星だとばかりに私の顔は赤くなる。それを気づかれないように、わざとらしく咳き込んで見せた。
「え、ちょっ、そ、それだけに決まってるじゃん!」
しどろもどろになりながら否定する私を見て、琴音がクスリと笑った。その笑顔は、私の心を見透かしているようで、少しだけ悔しかった。
「美波はわかりやすいなぁ」
琴音の言葉に、陽菜も楽しそうに頷く。二人の視線が、私の頬の熱をさらに上げていくようだった。
二人とは高校に入学してすぐ、まだ右も左もわからなかった一年生の時に同じクラスになり、初めてできた友達だった。見慣れない教室の片隅で不安そうにしていた私に、屈託のない笑顔で話しかけてくれたあの日から、私たちはいつも一緒だった。私が部活のことで悩んでいた時期も、二人はまるで自分のことのように親身になって話を聞いてくれた。放課後のカフェで、時には遅くまで残って教室で、何度励まされ、救われたかわからない。もちろん、あの放課後の教室で渚と二人きりになった出来事だけは、どうしても話せなかった。それでも、二人は私がいつも渚を気にかけていることに、薄々気がついているようだった。鋭い指摘に、いつも心臓がドキリとした。
「意中の相手は、想像以上の天然だもんねぇ……」
琴音は、諦めにも似た、それでいてどこか楽しげなため息をひとつついて、ふわりと呟いた。その声には、私の秘めたる想いを全て見透かしているかのような響きがあった。
「いや、あれはもう天然を超えて鈍感でしょ?」
陽菜が、追い討ちをかけるように大きく頷く。その視線は、からかうような光を宿していた。二人の視線が、まるで私を囲むように集まる。
「違うってば! 私はそんなんじゃないし! 渚くんだって、案外ちゃんと優しいっていうか……」
必死に反論しながらも、熱くなる顔に気がつき、私の声は恥ずかしさで尻すぼみに小さくなっていった。心臓がドクドクと音を立てる。
「はいはい。惚気は、ちゃんと付き合ったら聞かせてね」
琴音の言葉に、心臓が大きく跳ねた。
「付きッ!? ちょっ、つ、付き合うとか、そんなんじゃないし!」
焦りと羞恥で、思わず顔を背けた。目の前の二人は、それを見てまた悪戯っぽく楽しそうに笑っていた。その笑い声が、火照った私の頬をさらに熱くさせる。
ふと、陽菜がサンドイッチの包みを開き、緑黄色野菜がぎっしり詰まったそれを頬張りながら、思い出したように言った。
「そういえばさ、二人は何に出るか決めた?」
何の話をしているのか全くわからず、美波は箸を口に加えたまま、困惑した表情で琴音の方を見た。琴音はそんな私に気づき、優しい眼差しで微笑む。
「私は運動苦手だからなぁ。出るとしても団体競技で、あんまり目立たないやつにする」
琴音は困ったように笑いながら答えていた。その言葉の節々から、彼女の運動神経への自信のなさが伺える。二人の話している内容が未だに掴めず、私の頭の中には疑問符が浮かび上がるばかりだった。
「陽菜はもちろんバレーでしょ? てかそれ以外、同じクラスの人が許さないでしょ」
琴音が、陽菜に問いかける。陽菜は、まるで自分の運命を受け入れるかのように、小さく肩をすくめた。
「まあね、私的にはどうせなら他の競技がいいんだけど。バレーは部活でさんざん毎日やってるんだけど……」
陽菜が眉を下げて答える声には、不満げな響きがわずかに混じっていた。その言葉の端々から、美波は二人が話している内容にようやく検討がついた。きっと、来月初めに開催される全クラス対抗の球技大会のことだろう。
「美波はどうするの?」
突然向けられた問いに、美波は全く答えを考えておらず、開いた口がそのまま固まってしまった。言葉に詰まり、視線が宙を彷徨う。
「……あ!」
その沈黙を破るように、陽菜が何かを閃いたように小さく呟いた。彼女の瞳がキラリと輝く。
「どうせならさ……、男女混合の競技にするってのはどう? もちろん、彼と一緒にね!」
陽菜の提案に、琴音が「あ、それいい考え」と弾んだ声で賛同した。途端に二人は、美波を置き去りにして妙な盛り上がりを見せ始める。
「ちょっ、ちょっと待って! なんでそんな話しになってるの」
慌てて止めようとする美波の焦りをよそに、二人の話はまるで止まることなく、次々と具体的な内容へ進んでいったのだ。
◆◆
昼休みが終わり、賑やかだった廊下も少しずつ静けさを取り戻していく。私も重い足取りで教室に戻り、自分の席にたどり着いた。午後の最初の授業は今学期最初の移動教室。英語を選択していた美波は、他の教室に移動することなくそのまま同じ教室で授業を受ける。
前の席に座っているはずの彼の姿は、当然そこにはなかった。もうとっくに次の授業の教室へ移動してしまったのだろう。
「まったく、陽菜も、琴音も……」
誰もいない前の席に、私は小さく独り言をぶつける。心の中には、友人たちの無邪気な、それでいて無責任な言葉が響いていた。「男女混合競技のフットサルに渚くん誘えばもっと距離近付くだろう」と、二人はあまりにも簡単に言ったのだ。
「そんな簡単に、誘えるわけないじゃんか……」
渚とは、確かに委員会の仕事で話す機会は増えた。けれど、それだけ。友達以上でも恋人未満でもない、ただのクラスメイト。もし、いきなりフットサルなんて誘って、不信に思われてしまったら?今まで少しずつ築いてきた、このかすかな関係さえも消え去ってしまうかもしれない。想像するだけで胸が締め付けられる。
それでも、二人の提案にまったく反対しているわけではない。むしろ、心の奥底では、もし本当に誘うことができたら……そんな淡い期待が、小さな炎のように揺らめいているのを感じていた。
「――あれ……?」
唐突に目の前で声が聞こえた気がして、飯澤美波ははっと顔を上げた。視界いっぱいに、陽光をそのまま溶かしたような鮮やかなブロンドの髪が飛び込んでくる。次の瞬間、薄いブルーの瞳と、ばっちり目が合った。一組の瑠璃川輝愛は、そこにいるだけで周囲の空気を変えるような、人一倍目立つ華やかな雰囲気を放って立っていた。
「委員長くんと同じクラスの子じゃん! 良かった、知り合いいて!」
見た目と同様に、大袈裟なくらい全身で喜びを表現する瑠璃川の姿に、美波はただただ圧倒される。自分の心の準備が全くできていないまま、瑠璃川の勢いに飲み込まれていく感覚だ。
「る、瑠璃川さん、どうも……」
戸惑いながらも、美波が軽い挨拶のつもりで小さく手を上げると、瑠璃川はまるで旧知の友であるかのように、その手を両手で掴み、ぐいっと顔を近付けてきた。その距離の近さに、美波の心臓が不規則なリズムを刻む。
「他の一組の友達、みんな別の教室になっちゃったから不安だったんだよね。飯澤さんだよね? 仲良くしてね! そうだ、下の名前ってなんて言うの?」
委員会活動で、瑠璃川が積極的に色々な人に声をかけていたのは知っていた。だが、まさかこれほどまでに、ぐいぐいと躊躇なく距離を詰めてくるとは予想外だった。そのあまりの勢いに、美波はたじろぐ。
「あっ、と、美波、です……」
動揺のあまり、反射的に敬語になってしまう。こんな状況で、自分の名前をどう名乗るべきか、一瞬頭が真っ白になった。
「あれ! ウソ、飯澤さんもミナミなの? モッチーと一緒じゃん!」
瑠璃川は目を大きく見開いて、驚きと喜びをないまぜにしたような声を上げた。美波の頭には、「モッチーって、誰のことだろう?」という疑問が浮かぶ。瑠璃川が委員会の集まりの際にも、時折その名を呼んでいることを思い出した。
「モッチーって、もしかして、四十沢さん?」
恐る恐る尋ねると、瑠璃川は「そうそう!」と元気よく頷いた。四十沢の名前は、たしか望南。【もちな】と読むのだとばかり思っていたのだが……。
「そうそう! 一年の頃に私が名前読み間違えてて、それからずっと【モッチー】って呼んでるんだ。けどさ、モッチーも酷いんだよ? 読み方がミナミだって教えてくれたの三学期の終わりだったからね。それまでずっと教えてくれないんだもん!」
瑠璃川は手を叩いて、からからと笑いながら話す。その光景を見て、美波は妙に納得してしまった。確かに四十沢さんの雰囲気なら、わざわざ自分から読み方を訂正したり、名乗ったりするようなことはしなさそうだ。
「じゃあ、飯澤さんのことはミナミンって呼ぶね! 私のことも、キアラって呼んで!」
瑠璃川は屈託のない笑顔で宣言し、美波の手をぎゅっと握りしめた。その真っ直ぐな瞳に、美波は抗うことができなかった。
「宜しくね、ミナミン!」
「よ、宜しく。キアラちゃん……」
半ば強引に名前を呼ばされた気もするが、不思議と嫌な気はしなかった。瑠璃川の見た目に反した人懐っこさに美波はどこかほっとしていた。
◆◆◆
瑠璃川は、まるで自分の指定席かのように自然に目の前の席に腰を下ろした。その視線はゆっくりと教室全体を巡り、「ん? 委員長くんは同じ教室じゃないの?」と、さして深い意味もないように呟いた。
美波は、少したじろぎながらも瑠璃川の座る席を指差した。
「あ、渚くんは別の教室じゃないかな。ちなみにそこの席だよ」
その言葉に、瑠璃川はわざとらしく目を丸くした。
「うわ、なんて運命的な!? やっぱりこれは、委員長くんとも何か縁があるようだね」
彼女の冗談めかした言葉が、美波の胸に微かな波紋を広げた。ひょっとして瑠璃川も渚の事を気にしているのだろうか。美波の口からは乾いた笑いが漏れた。
「ハハハ、縁、って……」
「だってあんなヒロイックな立候補されたら負けてられないって思うじゃん? 先を越されたみたいでちょっと悔しかったもん」
瑠璃川の意外な告白に、美波は返す言葉を失った。
「ねぇねぇ、そういえばさ。ミナミンは球技大会何出るの? フットサルだったら私も出るよ。委員長くんも出てくれたらリベンジマッチが出来るんだけどなー」
無邪気な問いかけに、美波の心臓が大きく跳ねた。
「えッ?! フットサルッ!?」
思わず声が大きくなる。まさか瑠璃川にまで誘われるとは。心の隅で、渚と同じチームになれるかもしれないという期待が、また少しだけ膨らんでいた。